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サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

ベストな霊性修行とは

2016-11-06 00:00:35 | 日記
ものの名前を知れば、そのものを手に入れることが容易になります。
それゆえ、途切れることなく、ためらうことなく、御名を繰り返し唱えなさい。
御名を唱えていれば神への信愛が生じます。
信愛によって、神を瞑想することができ、信愛が心に根付くことによって、信愛よりなる神はあなたのものになります。
神を認識する道は数多くありますが、神の御名を休みなく唱えることより、易しい道は他にありません。
不正、不道徳、虚偽などの凄まじい悪が、カリユガの今、世界を毒しています。
それゆえ経典には繰り返し、熱意を込めて神の御名より他に救済の手段が無いことが、説かれているのです。DVJp56

ポニョ:昨日はイメージする力によって人は神聖な力を得る事ができると言ってたけれど、聖者ラーマクリシュナさんはそういう神秘的な力によって人は、エゴを膨らまし、神を忘れ去って、修行で得たせっかくの成果を失ってしまうことがよくあるって言われているぜよ。

ヨシオ:確かにその通りやな。普通の人には無い、そういう透視力やテレパシーなどの超能力を持てば、誰でもエゴが膨らんで来るよな。

ポニョ:「ちょっと君、今君は、おいらの事をポンポコ狸に似ていると思ったでしょう。それって当たっているけれど失礼ですよ。おいらは人の心が読めるんやから、今度から気をつけなさい。」なんて言ったら、相手の人は驚くやろな。ちょっと人より偉くなったような気になるぜよ。でもそういう霊性修行の危険性を避ける為にはどうすればええのかな。

ヨシオ:サイババさんは、このカリユガ期では神の名前を唱えるのが一番良い霊性修行やと言っておられるやろ。以前からこのブログで指摘しているように、人が肉食をするから、多くの牛や豚などの生き物を殺している為に、その生き物の霊が自分の生を全う出来ずに途中で肉体を離れてしまって、人の肉体を取っても人としての徳を持った行為が出来ない中途半端な、社会に迷惑を掛けるお邪魔虫人間になって生まれ変わってくるんや。だからポニョの周りの人たちを見回しても、徳を持ったまともな人って少ないやろ。半分狸かどうか分からん人もいるし。

ポニョ:あのね。さっきから失礼でヤンス。人の事をポンポコポニョ狸って呼ばないでくれますか。

ヨシオ:自分で呼んでいるんやないか。だから霊的に未熟な魂が人として生まれ変わっても、欲望だらけで、何をやるにも自己中で、モラルが無く、人の気持ちなんてほんの少しも考えた事が無いような人間もどきになって生まれ変わって来るんや。そういう人間もどきがワンサカいてる世界に俺たちは住んでいるんや。そのような人間もどきが霊性修行をしても、超能力を得る為だったり、お金を集める為で、動機が全く不純で、本来の霊性修行とは似ても似つかぬ事をやり始めるんや。

ポニョ:ところで、その事と神の御名を唱える事と何の関係があるんや。

ヨシオ:神の御名を唱える修行について話す前に、名前についてちょっと考えてみよか。人は誰でも名前を持っているよな。

ポニョ:名前が無い人でも、名無しの権兵衛さんという名前を持っているぜよ。

ヨシオ:人だけではなく、全ての物にも名前が付いているやろ。そしてその名前を言えば、人はたちどころにその物をイメージすることが出来る能力を持っているんや。でもそこに面白い法則が働いているんやで。例えばスイカと言えば、ポニョは一体何をイメージする?

ポニョ:スイカと言えば、ガブって食べた時に、あのサクサクとした気持ちの良い噛む感じとその後の甘い汁がいっぱい口の中に広がる爽快感やぜよ。そしてそれが渇いた喉を潤す時の快感によって人はエクスタシーを感じるんや。

ヨシオ:スイカを食べてエクスタシーを感じれるのはポニョだけや。人はスイカを見ると、個別のスイカの大きさとか、緑色の皮一面に描かれているのれんのような模様やら、いろいろ見えるけれど、個別のスイカを見ずに、スイカという名前を聞いただけで、自分が見た個別のスイカの特徴が無くなり、一般的なスイカのイメージだけが浮かんで来るやろ。例えば今、ポニョが言ったスイカをかじった時の甘いジューシーな味だとかサクサク感だとか。

ポニョ:でもスイカによっては熟れすぎてジュクジュクになっているのもあるぜよ。あれは不味いズラ。

ヨシオ:ポニョはスイカを食べる事ばっかり気になって、俺が話しているのを全然聞いてないやろ。俺が言いたいのは、スイカという言葉を聞いて、一個一個のスイカの大きさの違いだとか、表面の、のれんのような模様の差異だとか、種が多いとか少ないとか、スイカに亀裂入っていて、ある部分は少しカサカサして汁が無いとか、ある部分は熟れすぎてジュクジュクしてるとかは思い浮かばないやろって事なんや。普通、スイカという名を聞いたら、スイカの一般的な姿と共に、スイカの甘いジューシーな味をイメージ出来るんや。これが神の御名の効果なんや。つまり神の御名を聞いただけで、人は、自分が帰依してる神の御姿をイメージし、その優しくて慈愛がいっぱいの神さんをイメージすることが出来るんや。

ポニョ:なるへそ。それが神の御名を唱える効果なんや。

ヨシオ:そしてさっきポニョが言ったけれど、人は苦行やヨーガなどの霊性修行をする事によって神秘的な力を得る事が出来、その結果、神さんの方に近づくのではなく、エゴやプライドを膨らませてしまって、神さんから離れていってしまう人もいるけれど、この神の御名を唱える霊性修行は、そういう危険性が全く無いんや。でも人によって霊性修行をする動機が違うんや。

ポニョ:という事は神の御名を唱える修行は、神秘的な神の力を得ることが出来ないって事なんか。それって面白くないぜよ。

ヨシオ:だから一体何の為に霊性修行をしいるんですかってさっきから言っているんや。ヨーガとか苦行をすれば、人は超能力のような並外れた力を得る事が出来るんや。でも神を思い、神の御名を唱え、神を瞑想することは、並外れた神への信愛を得る事が出来るんや。このカリユガの世では、人間もどきがわんさか住んでいるから何をやっても全て金に結びつく事ばかりなんや。と言うのもそういう人間もどきは欲望が強くて物質欲や権力欲名誉欲などを満たそうと社会で暗躍しているんや。霊性修行をする為の組織にもそういう人間もどきがやって来て、悪い影響を与えるんやで。霊的な組織をコントロールしようと、権力志向型の人たちが、サイの名をビジネスに利用し、政治家、大企業のオーナーなどの有名人と関係を構築したりする為にサイの組織を使うんや。このようにいろんな動機を持った人たちがどこにでも紛れ込んで来るのがこのカリユガの世なんや。でも神の御名を唱える修行は、そんな人でも神の方に導いていく事が出来る程、強い力を持っているんや。しかも神への信愛を深めていけるし。

ポニョ:おいらは前からどのようにしてサイカレッジの学生さんたちは、サイババさんへの愛を培うのかなって疑問に思っていたんや。そうか。神の御名を唱えてたんか。

ヨシオ:神の御名を唱えるだけではなく、神への愛を培う方法はいろいろあるんや。でも何をやるにしても先ず自らのハートを綺麗にする努力をしないといけないんや。それには奉仕活動や神に感謝の気持ちを表す内観によってハートを綺麗に出来るんや。例えばポニョが自分の母親の事を愛しているのは、子供の頃から食事の世話やら色々と面倒を見てくれたから、感謝の気持ちを持っているからやろ。

ハートを清めるように努力しなさい。
それにはどうすればよいでしょうか?
一つ;神への瞑想によって。
二つ;社会奉仕によって。
この二つによってのみ、ハートを清めることが出来るのです。
神の愛を得ることが出来たなら何事も叶うことが出来ます。
あなたの内に神への信愛はあります。
それを用いて神の愛を得なさい。4/97

ポニョ:うちのおっ母は昔からとても忙しくて、父兄参観やら母子面談とかに来れなかったけれど、飯だけはしっかり作って食わしてくれたぜよ。おかげで体だけは無病息災やったぜよ。

ヨシオ:そのように、常に神さんに感謝の念を持ってありがとうと言い続けると、神への愛を得る事が出来るんや。でも自分や家族の身に何が起こっても全てを受け入れて、それらを神さんからの贈り物だと見做して感謝の気持ちを持つのはとても難しんや。

ポニョ:人は自分の都合の良い事にしか感謝の気持ちを持たないぜよ。自分の思い通りに行かなかったり、欲しい物が手に入らなかったり、何か不幸な出来事に遭ったりした時は神様を罵り始めるズラ。

神に信愛を持って礼拝しても、後に神に背く帰依者もいます。
この心変わりの理由は、神に関する考えに起因しています。
自分の祈りが応えられ、願望が叶えられると感じれば、彼らは神を崇めます。
しかし、願望が叶えられないと感じれば、ありとあらゆる言葉で神を非難するのです。
この種の信愛は私利私欲に基づいており、そこに神聖なものは何もありません。
純粋な信愛は、環境や運命の変化によって影響を受けることはありません。
真の愛は、いかなる条件に基づくものでもありません。
真の愛は、幸福な時も不幸な時も同一であり、運命の浮き沈みによって影響されるものではないのです。24/7/83

ヨシオ:そういう何事に対しても感謝の気持ちを持つ修行は難しいので、サイババさんは神の御名を唱える修行を勧めておられるんや。特にポニョはお腹が空いた時には人が変わったように不機嫌になるしな。

ポニョ:それは誰でもなるでヤンス。

ヨシオ:胃袋にチャクラがある人だけや。

神の御名と御姿は一つです。
しかし御名の持つ甘美さは、御姿をみることによっては味わえません。
例えばマンゴーという言葉を聞いて思い浮かべるのはその甘さです。
その個別の形や、皮、繊維、種子などは思い浮かびません。
神の御名と御姿にはこのような違いがあるのです。
御名には甘美さのエッセンスがあります。
御姿を見るときは、尊敬に恐れの念が混じることがあります。
そして、御名が御姿より慕われるのは、御名を唱えれば御姿が心に浮かぶという、御名という富の力です。
この富の力を着実に蓄積さえしておけば、神は瞑想によって容易に認識することが出来ます。
御名を唱えるもう一つの利点は、人はヨーガや苦行によって様々な神秘的な力を手にすることが出来ますが、その力ゆえに人はエゴを膨らまし神を忘れ去って、修行で得たせっかくの成果を失ってしまうことがよくあるのです。
しかし、御名、唱名、瞑想においてはこのような危険は全くありません。
それらは、神への親愛を強くし、それによって平安を得ることが出来ます。
ひとたび平安を得れたなら、その他の況位へはひとりでに到達することができます。
ヨーガと苦行は、人に並外れた力を与えます。
神を思い、名を唱え、瞑想することは、並外れた神への信愛を与えます。DVJp51~3


イメージする力を養うには

2016-11-04 00:00:11 | 日記
この世界は、心によって創り出されたイメージです。SSSVol1chp9

ポニョ:最近は世界情勢の展開が早過ぎて付いて行くのに精一杯やぜよ。おかげで瞑想も上手く出来ないんでヤンス。

ヨシオ:ツイッターでいっぱい呟いているもんな。どれだけの記事を毎日読んでいるんや。相当時間がかかるやろ。

ポニョ:そうでも無いでヤンス。ニュースのまとめ読みブログに登録すれば、あっという間に読めるんでヤンス。と言っても最近は一日二時間ぐらい費やしているかな。

ヨシオ:二時間は多いな。もう病みつきになっているやろ。

ポニョ:そうかも。でも大事な時期やぜよ。詳しい事はツイッターを読めば分かるけれど、そろそろクライマックスが近付いているって気がするんだってばよ。アメリカの大統領選挙も近づいているし、トランプになる可能性が大きくなって来たぜよ。そうなると世界が大きく揺れるんだってばよ。

ヨシオ:またナルト言葉か。ナルトはもうとっくに終わったんだってばよ。

ポニョ:あんたは世界の果てのようなところに住んでいるから、どっちに転んでもええと思っているんやろうけれど、アメリカを乗っ取っている支配層が最近ヒラリーを見限ってトランプに乗り換えたんや。だからヒラリーに都合が悪い内部情報がバンバンマスコミを通じて出て来てるんや。そして支配層は今度はトランプを懐柔してトランプを通じて支配しようと目論んでいるんや。支配層の圧力で選んだ副大統領候補なんかは完全にあっちの人で、トランプと言っている事が逆なんや。何れにしてもヒラリーが大統領になったら戦争屋が望んでいたロシアや中国との戦争が起きる可能性が大きいから、危険が危ないんや。だからヒラリーが落選するとその可能性が無くなるのでとても良い事なんや。逆にトランプになったら戦争屋が黙っていないからアメリカが内戦になる可能性が大きいぜよ。もちろんヒラリーになっても熱狂的なトランプ支持者が騒動を起こすかもしれないけれど。何れにしても、これから大きな騒乱がアメリカを中心に世界中で起こるのは間違いないんや。

ヨシオ:ふーん。そうなんや。サイババさんは第三次世界大戦は無いと仰っているから、局地戦争しか起こらないけどな。何れにしてもこの世界は愛の神様が創造されたから全ては結果オーライで、もうすぐ素晴らしい世界がやって来るんや。

ポニョ:あんたみたいな生き方をしてたら長生きするぜよ。それまでに大艱難がやって来ないとゴールデンエイジが実現しないぜよ。人々が今の物質主義世界に染まったままで、どのようにしてゴールデンエイジがやって来るのか知りたいぜよ。

ヨシオ:俺が言いたいのは、何が起こっても良い事やから、世界情勢にあまり首を突っ込んで時間を無駄にするなって言いたいだけなんや。それにしても二時間は多いな。瞑想も出来ないって言ってたやないか。ところでまだ太陽凝視の修行を続けているんか。

ポニョ:最近は曇りや雨の日が多くて、夕方や朝方に太陽を見れる回数が少ないんや。

ヨシオ:そんな時には、この前俺が言ってように二十一回毎朝オームを唱える時に数字で数を数えるのではなく、オームをイメージしながら二十一回オームを言えるかどうかトライしてみ。もし言えなかったらよっぽど心が世俗的なものに囚われているから、もっと心を内に向ける努力をしないといけないやろな。

ポニョ:二十一回オームを数えずに唱えるって、どうするんやったっけ。

ヨシオ:いろんな方法があるけれど、一番簡単な方法はオームって五画で書けるやろ。その一画一画を目を瞑ったままオームを唱えながら心のキャンパスに描いて行くんや。そして書き終わったら五回オームを言った事になるやろ。それを四回やれば二十回や。そして最後に一回唱えれば二十一回になる。

ポニョ:昔、そうしろって言ってくれた事があったよな。暫くやった事があるけれど、途中で何回目のオームか分からなくなって来るんや。

ヨシオ:そんな時はオームで積み木をしながらやると間違えなくなるな。例えば最初、五回オームを唱える事によって出来たオームを積み木のようにイメージして、その上に次から次へと出来上がったオームの積み木を積み重ねて行くんや。そして最初のオームの積み木の色は鈍性を表す黒色で、二回目は激安性を表す赤、そして三つ目は浄性を表す白色で最後は金色にするんや。すると間違えないやろ。

ポニョ:そんな事を頭の中でイメージ出来るかな。

ヨシオ:もちろん訓練次第で出来るようになる。テレビとか映画を見過ぎると、人のイメージする力を奪ってしまうから、そういう能力を失ってしまうんや。

ポニョ:そう言えば、シュタイナースクールを紹介した時にその話をしてくれたよな。シュタイナースクールでは子供の想像力を奪うから、家でもテレビとかコンピューターゲームは御法度やて言ってたよな。確かにおいらは昔からテレビっ子やったから、そういうイメージする能力はすっかり失ってしまっているんや。

ヨシオ:でも訓練すれば取り戻せるで。俺の知り合いの美容師さんは超能力者で、イメージする力を付ければ、予知能力とか透視能力などの力が自然に付いてくるって言ってたな。

ポニョ:美容師さんっていつも霊力がたまっている髪の毛を切る仕事をしているから、他人の霊力を取り込める機会が人より多いんやぜよ。

ヨシオ:じゃあ、散髪屋さんはみんな超能力者になれるんか?

ポニョ:またそこで突っ込んで来る。おいらはそんな事を言ってないでヤンス。

ヨシオ:その美容師さんは、透視能力が素晴らしく発達していて、遠くにいる友達の精神状態まですぐに分かるんや。とても優しくて愛がいっぱいでポジティブな女性なんやけれど、そういう性格をご主人が利用して、ご主人が浮気をしたり、ギャンブルで家の金を使い込んだりして、家庭は崩壊してるんや。それでも奥さんは決して怒らず、旦那さんを愛で包んでおられるんや。でも生活出来ないから、奥さんは知恵遅れの子供を抱えて美容師として一人頑張って生計を立てておられるんやけれど、そのなけなしの金さえも奥さんに暴力を振るって賭け事に使ってしまうんやで。

ポニョ:往々にしてそういう超能力者の家庭は、多分カルマかもしれないけれど、家庭が崩壊寸前とか、離婚家庭とか、家庭内暴力とか、普通の人では考えられない程の苦しい人生を歩んでいる人が多いぜよ。

ヨシオ:そういう超能力者は、世俗的な生き方が出来ないって言うか、前世がヨギとか苦行者で、世間に馴染めないのかもしれないな。それでさっきのイメージトレーニングの話に戻るけれど、俺が子供たちに使って成功した訓練は、百八回神様の名前を唱えるお祈りがあるやろ。

ポニョ:それなら知っているぜよ。綺麗なメロディーに合わせて百八回、サイババさんを讃えるんや。オーム スリーなんとかーやナマハ、オーム スリー なんとかーやナマハ、オーム スリーなんとかーや ナマハ、…とか言って。
https://m.youtube.com/watch?v=WKlq5CuPpV8
ヨシオ:なんとかーやは無いやろ。ナマハは帰依しますっていう意味やけれど、そこの「なんとかーや」のところをサティアヤサイババーヤという語に置き換えるんや。そしてその108の御名のメロディーに合わせて百八回同じ文句を唱えるんや。五回でワンセット終わるやろ。だから二十一セット唱えると、百五回になり、あと三回唱えれば百八回になるんや。でもそれを数で数えずに、心でイメージしながら唱えるんや。そのイメージする方法はさっきも言ったように、五回でワンセットを終えたらそれを大きなオームの形をした積み木のようにイメージして、サイババさんと二人で六つのオームで大きな輪を地面の上に作るんや。そして二段目は五個、三段目は四個と積み上げていって六段目はまで積み上げて行けば、綺麗な円錐形の建物が出来上がるやろ。そして一番最後にその頂上に立って、オーム スリーサッチャーサイババーヤナマハーと三回唱えると百八回唱えた事になるんや

ポニョ:オームを五回唱えて一つのオームの図形を作り、その数を数えずに四回続けるのも大変なのに、二十一回もやれってめちゃ難しいぜよ。それにそんな事をイメージ出来ないでヤンス。

ヨシオ:だから訓練をするんや。特にポニョのように映画やテレビ、コンピューターゲームをやり過ぎて、イメージする力を失っている人は、人一倍努力しないといけないやろな。俺の子供たちは、子供の頃から家にはテレビやコンピューターを充てがわず、絵本も想像力を壊すようなものを与えずに細心の注意を払って育てたから、そういうイメージを心の中で簡単に創る事が出来るで。この世界は物質だけで出来ていると思い込んで、子供が学校で良い点だけを取ったら喜んでいる親は失格や。人は肉体だけではなく、その肉体を支え、その肉体にエネルギーを与えている霊体を鍛えて養う教育をしなければいけないのに、そういう事に無頓着な親ばかりやから。

ポニョ:それは仕方が無いぜよ。だって親自身がそういう事を全く知らないんやから。それに日本では詰め込み教育で、どうしてだとか、なぜだとか、子供が疑問に思わないようにする教育をしているから余計やぜよ。

ヨシオ:以前、サイババさんがサイカレッジの学生たちと一緒にバスに乗った時に、物質化のレッスンをされたやろ。その時にサイババさんは、先ず、ダイヤモンドを物質化したかったら、ダイヤモンドを心でイメージすると、ダイヤモンドが物質化できると言ってデモンストレーションされたエピソードを覚えているか。

ポニョ:「皆さ〜ん。心でダイヤモンドをイメージして下さいね。しっかりと大きなダイヤモンドですよ。クズダイヤモンドではないですよ。それでは次にそのダイヤモンドが、自分の手のひらに現れるようにイメージしましょう。そうです。そうです。手をクルクル回しても良いですよ。さあ、どうですか?ダイヤモンドが出て来ましたか?」そんな事は誰も出来ないっちゅうに。

ヨシオ:現代人は心を五感、欲望のままにさせているから、そういう神の力っていうか、心でイメージしてそれを実現化する力を失いつつあるんや。いわゆる意志の力やな。もちろん物質化は、神の十六の力の内の十六番目の力で、いくらサイババさんがデモンストレーションをしても、今ポニョが言ったように人の力では物質化をする事は難しいんや。

ポニョ:でも何処からか物を引き寄せる事はヨギがよくやっているぜよ。

ヨシオ:物品移動って奴やな。サイババさんの教えに触れて、こういう神聖な力を取り戻すには、先ず、自分の生活態度を変えないといけないよな。まあ、俺がこれほど口を酸っぱくして言っても、映画ばっかり見ている帰依者もいるけどな。何が「シンゴジラ」とか「君の名は」や。ポニョが勧めてくれたから最近見たけれど、男と女の体が入れ替わるって、変態映画やないか。あの記事はボツにしとくからな。

ポニョ:あ〜あ。映画って面白いのにな。

どの家にもテレビがあります。
テレビは、金持ちの家には、各部屋に置かれています。
テレビが出現してから、人の心は汚染されました。
テレビの無かったころには心はそれほどは汚染されてはいませんでした。
暴力行為も、以前にはそれほど多くはありませんでした。
今日テレビはどの部屋にも置いてあります。
人々は食事を取りながらテレビを見ます。
その結果、テレビに映る下劣なことも(霊的身体にも取り入れて)消化します。
テレビに集中することは、見る者の世界観に影響を及ぼします。
テレビの見せる、感覚、思い、行為は見る人の心をいっぱいにします。
知らず知らずのうちに苛立ちと悪い思いが人々の心に入ります。
やがてそれらは心に根を張るでしょう。
それゆえ、食事をしながら恐ろしい事件を話題にすべきではありません。
心を興奮させる話題を食卓にのぼらしてはいけません。
食事をしている間は静粛にしなさい。
音響さえ心に侵入して影響を及ぼします。
食事の時はテレビを見てはいけません。
それは蜂蜜を塗った刃。
蜂蜜をなめるなら、刃は舌を切ります。
バラタのみではありません。
全世界がテレビの悪影響に犯されています。
世界には無秩序、不和、欲求不満が溢れています。
テレビを見ることを完全に止めなさい。
ことに食事中であれば尚のこと、仕事中であれば仕事に集中しなさい。15/1/1996


縫いぐるみで遊びたいな

2016-11-02 00:00:11 | 日記
子供は神の申し子と言われています。
子供のうちは、憎しみや怒りや嫉妬に駆られることはありません。
イエスは、子供にはどこにも悪いところが無いのだから、子供は神のようだと言っています。
子供のうちは、心にも身体にも何も悪いところはありません。
悪い心からおこる悪い感情が無いから、子供は美しいのです。
大きくなるにつれて、子供達に少しずつ悪い性質が身についてきます。
そうなると、子供の持っている美しいものが失われてしまいます。
悪い心は、悪い言葉と悪い行いとなって、子供の美しさを無くしてしまうのです。
人の持っている美しさは、少しずつ無くなっていきます。
そういったはかない美しさは、永遠の悦びを与えてくれません。
ロバだって生まれたばかりの時はかわいいものです。
それが大きくなってくると、腹が出てきて醜い姿になってしまいます。
悪いところが無いうちはどんなものでも美しく見えます。
ですからこの世界では、どんな人もどんなものも美しさは限られています。
ということはそこから生まれる悦びも限られているのです。
美しさと悦びはいつも一緒にやってきます。
美しいけれどつまらないものなどどこにも無いし、おぞましい姿の楽しいものも見ることはありません。
永遠に喜ばしく、永遠に美しいただ一つの摂理は何でしょう。
それはアートマです。
アートマは変わることも移ろうこともありません。
それどころか、アートマには何の姿も無いのです。
美しさと悦びが、アートマの姿です。SGc19

ポニョ:サイの学生さん達のお話を見ましたか?良かったやろ。

ヨシオ:見た見た。良かった。良かった。とても良かった。大変良かった。

ポニョ:二回づつ繰り返さんとってくれますか。

ヨシオ:七回シリーズやけれど、二回づつ見たから二回づつ繰り返して言ってるんや。学生さん達のサイババさんに対する愛が伝わって来てこちらも純粋な心になりそうやったな。

ポニョ:それは大変正直な感想ですな。純粋な心になりそうやったという事は、まだ純粋じゃないって事を認めている事になるぜよ。正直でよろしい。

ヨシオ:純粋な心を持っているんやったら。こんな仕事してないやろ。純真な心を持っていないから、また生まれ変わってややこしい記事を書いたり、毛布をめちゃたくさん買わないといけなくなるんや。

ポニョ:ああそうやったな。あんたは何万枚も毛布を買って保管してるもんな。いつ来るか分からない地球規模の大洪水に備えて。

ヨシオ:その話をすると長くなるから、今日はポニョが勧めてくれたyou tubeのstudent of Saiの話に戻ろうか。

ポニョ:おいらが面白かったエピソードは幾つかあるけれど、サイババさんが学生達を本当に愛しておられるなって分かるエピソードがとても良かったぜよ。例えば夜中にコダイカナルに到着して学生達が道中どうやったか心配して聞かれたり、十分ものを食べれたとか聞いておられて、学生達の部屋の横にサイババさんの部屋があるけれど、学生達を見る為に少しドアを開けてそこからよく顔を出されて学生達に気を使っておられた話が良かったぜよ。ああいうふうにサイババさんから愛をもらうと、自然にババさんへの愛も育まれるよな。

ヨシオ:帰依者と神の関係は愛なんや。その愛は、男女間の愛や親子や夫婦間の愛ではなく、純粋な見返りを求めない愛でないといけないんや。そういう意味で学生さん達の心は純真な心を持っているんやろな。今、ポニョが言った言葉で気になった言葉は、サイババさんから愛をもらうと、自然にババさんへの愛も育まれるってとこや。それは逆で、先ず神への愛があって、あの学生さんのような神からの恩寵をもらえるんや。逆じゃないんや。先ず自らの信愛の心を養うんや。恩寵が先ではないんや。

ポニョ:でもあのような恩寵をもらった学生さんのハートはとろけて神一色になり、神への愛が目覚めるぜよ。だから先ず神の恩寵が先にやって来るんや。

ヨシオ:いや、そうではないんや。ババさんは一人ひとりの霊的成長段階に合わせて恩寵を下さるんや。例えば、まだババさんを神だと受け入れるほどの準備が出来ていない霊的レベルが低い学生が、ババさんから指輪とか腕時計をもらっても、その人はババさんの奇跡を疑い、袖の中に隠し持っているに違いないとかと思うやろな。逆に充分に霊的レベルに達してる人は、ババさんがダルシャン会場を遠くから一目見ただけで、興奮し、神を悟る事が出来るんや。だから多くのサイの学生の中からコダイカナルへ連れて行ってサイの恩寵を受けた学生は、神の恩寵を受けるに値する霊的レベルに達した学生なんや。

ポニョ:以前、人がこの世で体験するいろんな事は、全て何の偶然も無いという話をしたよな。結局全てはなるべくしてなるって事なんやな。

ヨシオ:人の心は汚れが付いている鏡のようなもので、その汚れた部分というのは自分の欲望とかエゴなんや。人はこの世で似た者同士が集まるとか、似た者同士が友達になったりするやろ。それって他の人の鏡に付いている汚れが、自分の鏡の汚れによって自分の鏡に写らず見えないからなんや。でもババさんの鏡は一点の汚れも無いから、全ての人々の欠点や欲望やエゴが丸見えなんや。そういう意味でババさんの前で書く仕事なんて一切出来ないんや。

ポニョ:全ては読まれているんやな。恐ろしいな。

ヨシオ:なんでやねん。ポニョは何か隠し事でもあるんか?

ポニョ:別に何も無いけれど、ババさんがお若い頃に親しく交わった人は、ババさんと一緒にいることはとても難しいと言ってたよな。と言うのも、ババさんはガラスの陳列棚のように、人の心の中が透き通って見えるから、ほんの少しでもネガティブな事や、良からぬ事を心の中で思うだけで、ババさんはその事にとても傷つかれて、ひどい場合は二、三日ご自分の部屋にこもって出て来られなくなるって言ってたよな。だからババさんといる時は絶対にそういうネガティブな事を心の中でさえ思う事が出来ないんや。

ヨシオ:ババさんといる時だけではなく、遠くに離れていてもすぐにバレているんや。だから常に正しい事だけをし、自分がやりたい事や、欲しい物があってもそれを周りの人に分け与え、自分の貴重な時間であっても、出来るだけ自分の時間を自分自身にではなく、他の人々の為に使い、人生を神様に捧げて生き、全ての生きとし生けるものを神の顕われと見る霊性修行をやっていると、だんだんエゴや欲望が無くなって来て心の鏡に付いている汚れが取れて来るんや。すると不思議な事に、自分が普段接している人ばかりではなく、初めて会った人の心の中まで透き通るようによく見えるようになって来るんや。その人がどんな欲望を持っているとか、どのような傾向を持っている人だとか、心では思っていないのに言葉に出して言っているとか、お世辞を言ったり、嘘をついているとか、そういう事が全て分かるようになって来るんや。

ポニョ:自分の鏡の汚れが取れて行くに連れて、相手の心の鏡に付いている汚れが自分の鏡に写し出されて来るって事なんかな。

ヨシオ:そうなんや。だんだん霊性修行が進むに連れてそういう事が普通になって来るんや。これは神様からのプレゼントとであると同時に、その人がこの世にどれくらい忍耐を持って住んで行けるかという挑戦でもあるんや。だって少しでもそういうエゴや欲望、接した人たちが隠し持った欲望や陰謀が見え始めたら、その人と一緒にやってくのが難しいやろ。人間関係にとても辛い思いをするんや。だからだんだん人嫌いになって行くんや。それと同じ理由でさっきポニョが言ったように、ババさんが人のネガティブな心が100%読めるから、それにとても傷つきとても辛くて部屋に籠られたんや。霊性修行が進むに連れて人の心はまるで幼い子供のように小さな事で無邪気に喜び、小さな事でも傷つき、小さな生命にも愛を注げれるようになるんや。俺が昨夜、何時間もポニョが紹介してくれた動画を見て一番心に残ったシーンは、コダイカナルでババさんは、いろんな動物の縫いぐるみのプレゼントをもらったシーンや。

ポニョ:それってシリーズ第五回目のやつやぜよ。
https://m.youtube.com/watch?v=qhSUL3CgeVo

ヨシオ:そうやったかな。その縫いぐるみのプレゼントをもらった時は、それらの縫いぐるみを大きなテーブルに一列に並べて、一つひとつ手に取って見て子供のように楽しんでおられたんや。

夕食後、学生達と部屋でくつろいでおられた時に「あの縫いぐるみのおもちゃは誰が買ったんですか?」と聞かれたんや。買った人の名前を言うと「もう一度あの縫いぐるみの犬を見たいな」と言われたんや。それで急いでそれらの縫いぐるみを持って来るととても喜ばれて、小さい子供達にこれらの縫いぐるみをプレゼントしたいから呼んで来るように言われたんや。

そして子供達に「どれでも好きな縫いぐるみを取るように」と言われたんやけれど、虎の縫いぐるみを持っている子供に「君はその虎のようだね。」とか言ってからかって楽しんでおられたんやけれど、少し大きい子供が小さな縫いぐるみを選んだのを見て、「君はもう少し大きいのを選べば良いよ。そうそう。どれを選んだい?鹿さんか。隣にいる子と同じじゃないか。」とか言って、まるでご自分が縫いぐるみをもらったように喜んでおられたんや。神さんって完璧な役者で、この世にいる時は、その時々の状況に応じて自分の役柄を演じられるけれど、俺はその時のババさんに神さんの本当の姿、真の性質を見たと思ったな。

ポニョ:神さんに近づくって子供の心に近づく事と同じなんやろな。純真で、素朴で、心に一点の汚れも無く、天真爛漫で、愛に溢れている、そういう人に私はなりたい。

ヨシオ:それってポニョのキャラに限りなく近いやないか。どんな嫌な事があっても、オクラの天ぷらさえ食べてたらハッピーになるやないか。

ポニョ:神さんもオクラが好きなんか?

ヨシオ:誰もそんな事を言ってないやろ。

ハートは柔らかく、心は甘く、時間は神聖である、と言われています。
その状態の下で、一体どこから欠陥が生じるのでしょう?
あなたの心が神聖で、純粋で、柔らかく、甘い思いに満ちていることを確実にする必要があります。
偉大なサーダカでさえ、まず第一に優しいハートを育てるべきです。
神の贈り物である今回の人間としての生を無駄にすべきではありません。
神には神の計画があり、そのために神はあなた方全員に命を授けたのです。
神は、各人がそれぞれ他の人々の理想となることを意図しています。
あなたはその理想を知るよう努力すべきです。
その理想は、純粋かつ神聖です。
人間のハートの重要性は、ハートの純粋さと神聖さにあります。
不純な思いが入ってくると、ハートは不純になり、行動は邪道に陥ります。
あなたの想念や欲望はすべて全身に広がりませんか?
自分が言っていることと別の行動を取るのは正しいことですか?
言うことと考えることの出所は別ではありません。
体の各部へと向かう流動体の流れの源は一つであり、それはハートです。
ハートを愛で満たすなら、あなたの発言と行動は純粋で神聖なものになります。五つのインドリヤ〔五感〕は、主要タンクから給水される複数の蛇口のようなものです。
もし、主要タンクが純粋な思いという水で満ちていれば、どうして不純な思いや行動が生じることなどあるでしょう?
ハートが純粋な愛に満ちていれば、舌が不純な言葉を発することはなく、目が淫らなものを見ることもありません。
また耳は神聖さを汚す音を聞くことを避けるでしょう。24/11/00