サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

ベストな霊性修行とは

2016-11-06 00:00:35 | 日記
ものの名前を知れば、そのものを手に入れることが容易になります。
それゆえ、途切れることなく、ためらうことなく、御名を繰り返し唱えなさい。
御名を唱えていれば神への信愛が生じます。
信愛によって、神を瞑想することができ、信愛が心に根付くことによって、信愛よりなる神はあなたのものになります。
神を認識する道は数多くありますが、神の御名を休みなく唱えることより、易しい道は他にありません。
不正、不道徳、虚偽などの凄まじい悪が、カリユガの今、世界を毒しています。
それゆえ経典には繰り返し、熱意を込めて神の御名より他に救済の手段が無いことが、説かれているのです。DVJp56

ポニョ:昨日はイメージする力によって人は神聖な力を得る事ができると言ってたけれど、聖者ラーマクリシュナさんはそういう神秘的な力によって人は、エゴを膨らまし、神を忘れ去って、修行で得たせっかくの成果を失ってしまうことがよくあるって言われているぜよ。

ヨシオ:確かにその通りやな。普通の人には無い、そういう透視力やテレパシーなどの超能力を持てば、誰でもエゴが膨らんで来るよな。

ポニョ:「ちょっと君、今君は、おいらの事をポンポコ狸に似ていると思ったでしょう。それって当たっているけれど失礼ですよ。おいらは人の心が読めるんやから、今度から気をつけなさい。」なんて言ったら、相手の人は驚くやろな。ちょっと人より偉くなったような気になるぜよ。でもそういう霊性修行の危険性を避ける為にはどうすればええのかな。

ヨシオ:サイババさんは、このカリユガ期では神の名前を唱えるのが一番良い霊性修行やと言っておられるやろ。以前からこのブログで指摘しているように、人が肉食をするから、多くの牛や豚などの生き物を殺している為に、その生き物の霊が自分の生を全う出来ずに途中で肉体を離れてしまって、人の肉体を取っても人としての徳を持った行為が出来ない中途半端な、社会に迷惑を掛けるお邪魔虫人間になって生まれ変わってくるんや。だからポニョの周りの人たちを見回しても、徳を持ったまともな人って少ないやろ。半分狸かどうか分からん人もいるし。

ポニョ:あのね。さっきから失礼でヤンス。人の事をポンポコポニョ狸って呼ばないでくれますか。

ヨシオ:自分で呼んでいるんやないか。だから霊的に未熟な魂が人として生まれ変わっても、欲望だらけで、何をやるにも自己中で、モラルが無く、人の気持ちなんてほんの少しも考えた事が無いような人間もどきになって生まれ変わって来るんや。そういう人間もどきがワンサカいてる世界に俺たちは住んでいるんや。そのような人間もどきが霊性修行をしても、超能力を得る為だったり、お金を集める為で、動機が全く不純で、本来の霊性修行とは似ても似つかぬ事をやり始めるんや。

ポニョ:ところで、その事と神の御名を唱える事と何の関係があるんや。

ヨシオ:神の御名を唱える修行について話す前に、名前についてちょっと考えてみよか。人は誰でも名前を持っているよな。

ポニョ:名前が無い人でも、名無しの権兵衛さんという名前を持っているぜよ。

ヨシオ:人だけではなく、全ての物にも名前が付いているやろ。そしてその名前を言えば、人はたちどころにその物をイメージすることが出来る能力を持っているんや。でもそこに面白い法則が働いているんやで。例えばスイカと言えば、ポニョは一体何をイメージする?

ポニョ:スイカと言えば、ガブって食べた時に、あのサクサクとした気持ちの良い噛む感じとその後の甘い汁がいっぱい口の中に広がる爽快感やぜよ。そしてそれが渇いた喉を潤す時の快感によって人はエクスタシーを感じるんや。

ヨシオ:スイカを食べてエクスタシーを感じれるのはポニョだけや。人はスイカを見ると、個別のスイカの大きさとか、緑色の皮一面に描かれているのれんのような模様やら、いろいろ見えるけれど、個別のスイカを見ずに、スイカという名前を聞いただけで、自分が見た個別のスイカの特徴が無くなり、一般的なスイカのイメージだけが浮かんで来るやろ。例えば今、ポニョが言ったスイカをかじった時の甘いジューシーな味だとかサクサク感だとか。

ポニョ:でもスイカによっては熟れすぎてジュクジュクになっているのもあるぜよ。あれは不味いズラ。

ヨシオ:ポニョはスイカを食べる事ばっかり気になって、俺が話しているのを全然聞いてないやろ。俺が言いたいのは、スイカという言葉を聞いて、一個一個のスイカの大きさの違いだとか、表面の、のれんのような模様の差異だとか、種が多いとか少ないとか、スイカに亀裂入っていて、ある部分は少しカサカサして汁が無いとか、ある部分は熟れすぎてジュクジュクしてるとかは思い浮かばないやろって事なんや。普通、スイカという名を聞いたら、スイカの一般的な姿と共に、スイカの甘いジューシーな味をイメージ出来るんや。これが神の御名の効果なんや。つまり神の御名を聞いただけで、人は、自分が帰依してる神の御姿をイメージし、その優しくて慈愛がいっぱいの神さんをイメージすることが出来るんや。

ポニョ:なるへそ。それが神の御名を唱える効果なんや。

ヨシオ:そしてさっきポニョが言ったけれど、人は苦行やヨーガなどの霊性修行をする事によって神秘的な力を得る事が出来、その結果、神さんの方に近づくのではなく、エゴやプライドを膨らませてしまって、神さんから離れていってしまう人もいるけれど、この神の御名を唱える霊性修行は、そういう危険性が全く無いんや。でも人によって霊性修行をする動機が違うんや。

ポニョ:という事は神の御名を唱える修行は、神秘的な神の力を得ることが出来ないって事なんか。それって面白くないぜよ。

ヨシオ:だから一体何の為に霊性修行をしいるんですかってさっきから言っているんや。ヨーガとか苦行をすれば、人は超能力のような並外れた力を得る事が出来るんや。でも神を思い、神の御名を唱え、神を瞑想することは、並外れた神への信愛を得る事が出来るんや。このカリユガの世では、人間もどきがわんさか住んでいるから何をやっても全て金に結びつく事ばかりなんや。と言うのもそういう人間もどきは欲望が強くて物質欲や権力欲名誉欲などを満たそうと社会で暗躍しているんや。霊性修行をする為の組織にもそういう人間もどきがやって来て、悪い影響を与えるんやで。霊的な組織をコントロールしようと、権力志向型の人たちが、サイの名をビジネスに利用し、政治家、大企業のオーナーなどの有名人と関係を構築したりする為にサイの組織を使うんや。このようにいろんな動機を持った人たちがどこにでも紛れ込んで来るのがこのカリユガの世なんや。でも神の御名を唱える修行は、そんな人でも神の方に導いていく事が出来る程、強い力を持っているんや。しかも神への信愛を深めていけるし。

ポニョ:おいらは前からどのようにしてサイカレッジの学生さんたちは、サイババさんへの愛を培うのかなって疑問に思っていたんや。そうか。神の御名を唱えてたんか。

ヨシオ:神の御名を唱えるだけではなく、神への愛を培う方法はいろいろあるんや。でも何をやるにしても先ず自らのハートを綺麗にする努力をしないといけないんや。それには奉仕活動や神に感謝の気持ちを表す内観によってハートを綺麗に出来るんや。例えばポニョが自分の母親の事を愛しているのは、子供の頃から食事の世話やら色々と面倒を見てくれたから、感謝の気持ちを持っているからやろ。

ハートを清めるように努力しなさい。
それにはどうすればよいでしょうか?
一つ;神への瞑想によって。
二つ;社会奉仕によって。
この二つによってのみ、ハートを清めることが出来るのです。
神の愛を得ることが出来たなら何事も叶うことが出来ます。
あなたの内に神への信愛はあります。
それを用いて神の愛を得なさい。4/97

ポニョ:うちのおっ母は昔からとても忙しくて、父兄参観やら母子面談とかに来れなかったけれど、飯だけはしっかり作って食わしてくれたぜよ。おかげで体だけは無病息災やったぜよ。

ヨシオ:そのように、常に神さんに感謝の念を持ってありがとうと言い続けると、神への愛を得る事が出来るんや。でも自分や家族の身に何が起こっても全てを受け入れて、それらを神さんからの贈り物だと見做して感謝の気持ちを持つのはとても難しんや。

ポニョ:人は自分の都合の良い事にしか感謝の気持ちを持たないぜよ。自分の思い通りに行かなかったり、欲しい物が手に入らなかったり、何か不幸な出来事に遭ったりした時は神様を罵り始めるズラ。

神に信愛を持って礼拝しても、後に神に背く帰依者もいます。
この心変わりの理由は、神に関する考えに起因しています。
自分の祈りが応えられ、願望が叶えられると感じれば、彼らは神を崇めます。
しかし、願望が叶えられないと感じれば、ありとあらゆる言葉で神を非難するのです。
この種の信愛は私利私欲に基づいており、そこに神聖なものは何もありません。
純粋な信愛は、環境や運命の変化によって影響を受けることはありません。
真の愛は、いかなる条件に基づくものでもありません。
真の愛は、幸福な時も不幸な時も同一であり、運命の浮き沈みによって影響されるものではないのです。24/7/83

ヨシオ:そういう何事に対しても感謝の気持ちを持つ修行は難しいので、サイババさんは神の御名を唱える修行を勧めておられるんや。特にポニョはお腹が空いた時には人が変わったように不機嫌になるしな。

ポニョ:それは誰でもなるでヤンス。

ヨシオ:胃袋にチャクラがある人だけや。

神の御名と御姿は一つです。
しかし御名の持つ甘美さは、御姿をみることによっては味わえません。
例えばマンゴーという言葉を聞いて思い浮かべるのはその甘さです。
その個別の形や、皮、繊維、種子などは思い浮かびません。
神の御名と御姿にはこのような違いがあるのです。
御名には甘美さのエッセンスがあります。
御姿を見るときは、尊敬に恐れの念が混じることがあります。
そして、御名が御姿より慕われるのは、御名を唱えれば御姿が心に浮かぶという、御名という富の力です。
この富の力を着実に蓄積さえしておけば、神は瞑想によって容易に認識することが出来ます。
御名を唱えるもう一つの利点は、人はヨーガや苦行によって様々な神秘的な力を手にすることが出来ますが、その力ゆえに人はエゴを膨らまし神を忘れ去って、修行で得たせっかくの成果を失ってしまうことがよくあるのです。
しかし、御名、唱名、瞑想においてはこのような危険は全くありません。
それらは、神への親愛を強くし、それによって平安を得ることが出来ます。
ひとたび平安を得れたなら、その他の況位へはひとりでに到達することができます。
ヨーガと苦行は、人に並外れた力を与えます。
神を思い、名を唱え、瞑想することは、並外れた神への信愛を与えます。DVJp51~3