「阿波踊り」の悲哀

2009年08月15日 | 自分 -

四国:徳島で長期入院していた母は、まるで「阿波踊り」のお囃子と賑わいが、
落ちつくのを待っていたかのように、息を引きとった。

母の命日は、8月16日(午前中に逝去)である。


忘れもしないあの日は休日開けで・・・
前日の15日まで、街は「阿波踊り」に熱狂的になっていた。
大学病院内でも、阿波踊り連をつくり、患者を癒す目的か何か知らないが・・・
浮かれ気分で、お囃子を鳴らし、病院内を踊りながら、教授連中を筆頭に、
楽しそうな笑顔で、街にくりだして行った。
(観覧者はほんのわずかで、内科の軽い患者さんだけであった)
当時の私は、その光景を見ながら、「のんきなものだ!」と、嘆いていた。
随分と前のことではあるが・・・・・あの感覚は、今も忘れることはない。
おそらく、患者の気持ちを慮らない「デリカシーのなさ」に落胆したのだと思う。
(踊るのであれば、病院内ではなく、街中で踊ってほしいものである)




私の母は「病院の不手際で亡くなった」と、今も(確信を持って)思っている。
当時、私に、相当なる財力があって、現在のように「疑わしきは罰す」という、
裁判姿勢に流れていれば、確実に(私は)「医療裁判」を起こしていただろう。
それだけ“胸をかきむしられるような病院との確執”があったことを、まずは、
ここに記しておきたい。
私は、全く納得できない状態のまま、母を逝かせてしまった・・・。


詳しくは、書きたくないし、書くにおよばず・・・・・
「過去」の事実として、私の中で(すでに)受け容れられてはいるが・・・
当時の現実は、あまりにも悲惨で、病院側の一方的な状況だったと思う。
(母のカルテさえ、みせてもらう事はできなかった)
私は、親友の東京の大学病院で働く医師と常に連絡をとり、相談しながら、
現地の病院で専門的な言葉と状況を確認しながら、かなり攻撃的な姿勢で、
より明確で詳しい説明を(母の主治医に)求め続けていたことを思い出す。

当時、退職届がすぐに受理されず、仕事を途中で放り出せなかった私は、
(最初の数ヶ月は)毎週末に「東京⇒徳島」間の日帰りを繰り返した。




当時の現状を思い出して、非常に悔しいのは・・・
弱い者が守られる環境(機関)はなく、人間的な配慮をもった説明もなされず、
私の人生に「重要な問いかけ」を残したまま・・・母は逝った・・・・・と
いうことだけである。




当時の母が入院していた病院の「医療現場」は、確実に “すさんでいた”。
ICU:集中治療室の真横で、術後患者や重病患者が臥せっているのに・・・
教授回診があるからという理由で、夜中にドタバタと掃除を始めるナース達。
(うるさくて、患者は寝ることができない・・・)
「いったい何を優先しているのか」と、疑問に感じることばかりだった。
研修医の経験の場とはいえ、1度や2度ではなく、何度も何度も静脈にハリを
刺される母を見るのは非常に辛いものである。(本人も、確実に痛がっていた)
母は実験台ではなく、生きた人間なのだから・・・。
大学病院という独特な環境は、そういうことが許されるのだろうか。
現在の大学病院も、当時と同じような価値基準のもとで稼動しているのだろうか。
(変わっていてほしいと、切に願う・・・)



母が入院していた(当時の)大学病院では・・・・
「手術をしてからの生存率の統計をとること」を最優先として、常に医師は
このような言い方をして、(同じ病室の)患者に接していた。
「手術をしないと、あぶないですよ。任せて下さい。手術しますから・・・」
まるで、「本人の意思など関係ない」というような説明の仕方である。
「手術」も「投与される薬」も、すべてが、医師の“いいなり”になっていて、
その効果・効能・副作用などについても、何の説明も受けてはいなかった。
(患者にとってみれば、一番頼れるのは、医師しかいないのに・・・)
自分の身体の状況の確実な把握もできず、ただ主治医にすべてをゆだねるだけの
人生の選択しかできない人ばかりだった・・・。
実際、担当医に懐疑的な質問をしたり、自分の意見を言う人など、皆無だった。

その後「インフォームドコンセント」という医療姿勢が主張され、社会の認識も
変わってきたが・・・私の母の時代は、まだまだ患者の同意や意志が優先される
状況ではなかったと思い出す。

      ★インフォームドコンセント 【informed consent】
         医師が患者に診療の目的・内容を十分に説明して、
         患者の納得を得て治療すること。




私の母は、「愛子」と言う。その名前のごとく、愛情にあふれた人だった。
地元の町内では有名人で、ボランティアに明け暮れ、社会貢献を続けてきた
母の最期にしては、非常にすっきりとしない死因だった。
本当に、無念な、納得のいかない流れで、数ヶ月に及ぶ入院生活が続いた。
(私は会社を辞め、母のベッドの脇で、終日、八ヶ月にわたって看病した)
私自身としては、失ったものは多かったが、得たものも多かった経験になった。
しかし、母は社会貢献を続けてきたからだろうか・・・管一本にも繋がれず、
おだやかに(苦しむことなく)最期を看取れたことは何よりだと思っている。



しかし、このようなことを書いては、誤解を招いてしまうかもしれないが・・・
休日の8月15日中(深夜)に亡くなった人の多いのが、非常に不思議だった。
偶然にしては、あまりにも偶然過ぎるぐらいの数だった。
(母の病室は6人部屋だったが、その内の2人が亡くなった)
1Fの談話室や、自動販売機が連なる休憩室では、多くの家族が“葬儀”について
話し合っている光景を目にした。夜中も夜中、深夜のことである・・・。
重苦しい雰囲気が伝わってくる中、私自身もまた、数時間もたたない間に、
同じ気持ちと状況を、突然に抱えることになってしまった。

当然のことながら、翌日の月曜日からは、慌しく病室の模様替えが施され、
新しい入院患者を迎える準備で、大忙しの病棟だった・・・・。
まるで“流れ作業”のように、葬儀屋さんを紹介され、母の遺体は病院から
追い出されるように、実家に移送された。
病院関係者の見送りもない事務的な大学病院(病棟)との別れ・・・
私は、実家に着くまで、母の遺体にすがりついて、泣き崩れていた。
私のナミダが涸れることはなく、私の隣で母を抱きしめていた父の嗚咽も、
決して途絶えることはなかった・・・。
長期入院していた病院から、「一緒に帰ろうね」と、常に母に声をかけながら、
吉野川を渡り、実家へと母の魂を導いていった。
あまりにも、切なく、悔しく、悲しい時間だった・・・。



あれ以来「阿波踊り」は・・・
私にとって、楽しい記憶から、哀しい記憶を呼び起こすものとなってしまい、
本当に残念でならない。
地元をあげて楽しむ「盆踊り」であり、徳島を代表する観光の期間なのに・・・。
今も、ちょっとだけ・・・ほんのちょっとだけ・・・母の闘病生活を思い出す。

「時間」は、すべてのことを洗い流してくれるが、中途半端な納得のいかない
結果をかかえたままの現実は、完全に洗い流すことができないものだと悟った。
ただ、自分の中で、現実を受け容れるだけである。
そして、受けとめた現実から派生する、新しい「自分の感覚」との出会いを
待つだけなのだ。
それは、自分自身が毎年変わるように、出会える「感覚」も毎年変わる・・・。
そして、出会えたら・・・また、その「感覚(感情)」を受け容れるだけである。
毎年、その繰り返しだ。



このブログには、我が父と母が共に、「病院とのトラブル」が要因となり、
この世から去っていった事実を明記している。
これは、私が経験した事実であると同時に、重要な「社会的課題」であると
心から感じている。
勿論、病院で働いている人を、決して責めているわけではない。
「病院」と言っても、本当に様々な病院があって、一言では片付けられないし、
また、現状の医療体制に問題があり、多くの不備があることも判っている。
(そして、常にトラブルが絶えることがないことも、いつもチェックしている)
ただ、それを「理由」にはしてほしくないし、「言い訳」にはできないだろう。
だから、より多くの人に考えてほしい。
少なくとも・・・・・私は、常に考えている。
たとえ生が尽き果てるまで「答え」がでなくても、考え続けるだろう。
せめて、あの頃よりも、そして、今よりも、
        人々が“より良い医療環境”を手に入れるために・・・・。