気分が良かったり、体調が悪くなったり・・・
父の変動が著しくて、対処するのに戸惑うことがある。
この数日間も、父は体調がすぐれず、ベッドから離れなかった。
それに、・・・何故か夜中に動悸が激しくなるようだ。
にわか医者の私は、ストレス性の心労と診断した。
体調が悪くなると、父は“自分の体力に自信がなくなり”、
どうしても“悪いことを考え過ぎてしまう”のではないかと推測した。
そのことによる“胸の痛み”・・・まさに“心のバランスを壊した状態”である。
今年5月(一人で帰省した四国で)、心筋梗塞を疑われて救急車騒動になったのだが、
その際にも「心労からのストレス」が原因だったことが(検査によって)明確になった。
いくつか質問を浴びせて、父の思いをはかってみると、明確な「意図」が見えてきた。
「死にたくない」
「出来るだけ長く生きていたい」
「今は、つらい」
「情けない」
「迷惑をかけてしまうが、勘弁してほしい」
「治らない病気だから、早く死にたい」
これらの気持ちが、今現在の父の心を(同時に)満たしているようだ。
まさに多くの矛盾が存在して、論理的思考と感情的思考が“せめぎあっている状態”だ。
父が、“一日でも長く生きたい”と思っていることに対して、私は「なるほど~」という
“発見感に満ちた感覚”を持ってしまった。
「そうなんだぁ~。そういう気持ちがあるんだネ」という“感嘆”に似た想いである。
元来、私の中には「現世に対する執着心がなく、いつ死んでもよい」という思いがあり、
父の根源的な欲求とは違っているからである。
だから余計に、新鮮な印象を抱いたのだろうと思う。
ニュアンスの違いはあるけれど、まだまだ生命力に満ちて、「生きたい」という願いが
あるうちは・・・“大丈夫”なのかもしれないと思った。
たとえ(どんなに)苦しくて、情けなくて、辛かったとしても、父の中に「光明の輝き」を
見つけることができるのかもしれないと・・・そんな印象を抱かせてくれた。
私にとっての「いつ死んでもいい」は、厭世的な気持ちから発生しているわけではない。
「いつ死ぬか分からない。それが自然界の摂理だから、それを受け容れよう」という、
“現実をありのまま受け取る”という感覚をイメージしている。
それは、これまでの人生の中で大きな影響を受けた“自然観”が、このような概念を
抱かせることになったのだと思う。
それに、何と言っても、「死」なんてものは、まるっきり分からない。
どういうものか、どういう感じがするのか・・・私には、全く想像できない。
分からないことがあって、いろいろと考えても“どうしても分からない”という場合は、
“無理して分かろうとしないほうが良い”・・・と、私は思っている。
・・・そのままにしておくのが、「まだマシかも」という気持ちがあるのだ。
結論を出そうと無理強いしたら、間違った考えに囚われたり、何かを思い込んだりして、
本来の姿が見えなくなってしまいそうだ。
だから、私にとっての「死」は・・・「分からないまま」なのだ。
しかし、父の「死にたくない」気持ちを知ってしまうと、「生への執着」という尺度では
“私よりも父の方が優っているのだろうか”などと考えてしまって・・・
忘れていたことを気づかせてくれたような、何かヒヤッとするような感じがした。
そうして、改めて「自分の人生観」について見直す“きっかけ”を与えてもらった。
私は、「生きる」ことに対して執着心が全然ないわけではない。
しかし、その反面、執着していないのも事実である。
スカスカの頭で、自分自身の想いを(順番を追って)めぐらせてみると・・・
「自分では死ねないから、死ぬまでは精一杯生きよう」――そういうシンプルな構図が
私の心の中にはあるようだ。(言葉を変えれば、それしか見えてこない)
「生」を意識的に操作したりすることなく、与えられたものであるならば“そのまま”を
「自分の価値基準でマットウしていく」・・・少なくとも「そう努力していく」ことが、
何よりも大切ではないかと思っている。
結局は、それだけのことなのだろう。
父の脳細胞と、感情の波から生まれいづる“生への思い”を、どう受けとめるのか。
父が人生を少しでも“楽”に生きられるようにするためには、何をどうすればよいのか。
今、私は・・・そういう漠然としたことを考えはじめている。
父の変動が著しくて、対処するのに戸惑うことがある。
この数日間も、父は体調がすぐれず、ベッドから離れなかった。
それに、・・・何故か夜中に動悸が激しくなるようだ。
にわか医者の私は、ストレス性の心労と診断した。
体調が悪くなると、父は“自分の体力に自信がなくなり”、
どうしても“悪いことを考え過ぎてしまう”のではないかと推測した。
そのことによる“胸の痛み”・・・まさに“心のバランスを壊した状態”である。
今年5月(一人で帰省した四国で)、心筋梗塞を疑われて救急車騒動になったのだが、
その際にも「心労からのストレス」が原因だったことが(検査によって)明確になった。
いくつか質問を浴びせて、父の思いをはかってみると、明確な「意図」が見えてきた。
「死にたくない」
「出来るだけ長く生きていたい」
「今は、つらい」
「情けない」
「迷惑をかけてしまうが、勘弁してほしい」
「治らない病気だから、早く死にたい」
これらの気持ちが、今現在の父の心を(同時に)満たしているようだ。
まさに多くの矛盾が存在して、論理的思考と感情的思考が“せめぎあっている状態”だ。
父が、“一日でも長く生きたい”と思っていることに対して、私は「なるほど~」という
“発見感に満ちた感覚”を持ってしまった。
「そうなんだぁ~。そういう気持ちがあるんだネ」という“感嘆”に似た想いである。
元来、私の中には「現世に対する執着心がなく、いつ死んでもよい」という思いがあり、
父の根源的な欲求とは違っているからである。
だから余計に、新鮮な印象を抱いたのだろうと思う。
ニュアンスの違いはあるけれど、まだまだ生命力に満ちて、「生きたい」という願いが
あるうちは・・・“大丈夫”なのかもしれないと思った。
たとえ(どんなに)苦しくて、情けなくて、辛かったとしても、父の中に「光明の輝き」を
見つけることができるのかもしれないと・・・そんな印象を抱かせてくれた。
私にとっての「いつ死んでもいい」は、厭世的な気持ちから発生しているわけではない。
「いつ死ぬか分からない。それが自然界の摂理だから、それを受け容れよう」という、
“現実をありのまま受け取る”という感覚をイメージしている。
それは、これまでの人生の中で大きな影響を受けた“自然観”が、このような概念を
抱かせることになったのだと思う。
それに、何と言っても、「死」なんてものは、まるっきり分からない。
どういうものか、どういう感じがするのか・・・私には、全く想像できない。
分からないことがあって、いろいろと考えても“どうしても分からない”という場合は、
“無理して分かろうとしないほうが良い”・・・と、私は思っている。
・・・そのままにしておくのが、「まだマシかも」という気持ちがあるのだ。
結論を出そうと無理強いしたら、間違った考えに囚われたり、何かを思い込んだりして、
本来の姿が見えなくなってしまいそうだ。
だから、私にとっての「死」は・・・「分からないまま」なのだ。
しかし、父の「死にたくない」気持ちを知ってしまうと、「生への執着」という尺度では
“私よりも父の方が優っているのだろうか”などと考えてしまって・・・
忘れていたことを気づかせてくれたような、何かヒヤッとするような感じがした。
そうして、改めて「自分の人生観」について見直す“きっかけ”を与えてもらった。
私は、「生きる」ことに対して執着心が全然ないわけではない。
しかし、その反面、執着していないのも事実である。
スカスカの頭で、自分自身の想いを(順番を追って)めぐらせてみると・・・
「自分では死ねないから、死ぬまでは精一杯生きよう」――そういうシンプルな構図が
私の心の中にはあるようだ。(言葉を変えれば、それしか見えてこない)
「生」を意識的に操作したりすることなく、与えられたものであるならば“そのまま”を
「自分の価値基準でマットウしていく」・・・少なくとも「そう努力していく」ことが、
何よりも大切ではないかと思っている。
結局は、それだけのことなのだろう。
父の脳細胞と、感情の波から生まれいづる“生への思い”を、どう受けとめるのか。
父が人生を少しでも“楽”に生きられるようにするためには、何をどうすればよいのか。
今、私は・・・そういう漠然としたことを考えはじめている。