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「人間としての父」

2005年10月03日 | 雑感 -
父の体力が落ちている。
週末からずっと体調がすぐれず、自分の思い通りに動けないようである。
何をするにも辛そうに見える。だから、つい手を出したくなってしまう。
私が「介助をする」ということは、もちろん時間が短縮できるし、父としては楽に“こと”が終わるわけで、当然悪いことではない。
しかし、そのことで“(父の)やる気”を削いでしまっているような印象を持つときがある。
それは、父が、私の手助けを待つようになってしまったからだ。
本来、一人で“自分の身の周りのことをやろうとすること”は、非常に大切なことで、
脳細胞や身体のリハビリにもなるはずだ。
すぐには手を出さず、まずは“努力させることも必要ではないか”と思い至り、
・・・今は状況にあわせて対応するようにしている。

父は今、(状態の悪いとき)きちんとズボンがはけない。ちゃんと衣服が着られない。
どうにか“一人でもはける”が、かなりの時間を必要とするようになってしまった。
ショーツ、インナーウェア、靴下・・・身につけるものが裏返しになってしまう。
上着も、パンツも、表側と裏側を反対にして着てしまう。
認識から行動に移すときにイメージがすりかわってしまうのか、表と裏の識別が出来なくなってしまったのか、・・・・・とにかく、数ヶ月前には出来ていたことが“今はできない”。
一年前、すんなりと一人でやれていたことを、“今は(一人で)やろうとしない”。

今日も、トイレの柱につかまって、じっと動かなかった。
“次の行為”をすぐには判断できないようで、しばらくの間じっとたたずんでいる。
1分、2分・・・ぴくりとも動かないので、私も固まってしまう・・・。
その“しばらくの間”が、私にとっては“長い時間に思えてしまう”。
本当に、せつないのだ。
手を出したいと思う自分の気持ちと葛藤しながら、父の動向を見守る。
しばらくすると、トイレのノブを動かして、水を流した。
それを確認して、そっと胸をなでおろす。
こんな何でもないことに、時々、涙がこぼれそうになる時がある・・・。

今日は、判断できたが・・・いつもできるわけではない。

ほんの数ヶ月前には、フツーにできていたのに・・・今は、できないことも多い。
フツーのことが、フツーにできなくなった。

たとえば、ご飯を食べるときに、うまくお箸を使えなくなってきた。
注意力や集中力が低下して、ぼろぼろと胸や太ももに食べ物をこぼしてしまう。
TBSドラマ「寺内貫太郎一家」では、西城秀樹扮する孫が、祖母役の悠木千帆に「ばあちゃん!きたねぇなぁ~~」と叫んでいたが、私はあんな風に指摘することはできないョ。
ただ、その様をじっと見つめているだけである。

以前は、早食いだった父に太刀打ちできなかったのに、今は私の方が早い。
終えた後は、じっと父の食事風景を凝視する。
“今このときの状態”を、記憶にとどめるかのように・・・私は、じっと見ているのだ。
この記憶が、おそらく数ヵ月後には一つの指標となってくれるかのように・・・。

ぼろぼろと胸に食べ物を落としても、父の表情は変わらない。
大きな固まりが膝に落ちたとき、指でつまんで口に運んでいたが、それ以外はほとんど何事もなかったかのように“淡々と”表情を変えずに食事をしている。
それは、「食事を楽しむ」というよりも、「ただ食う」「飢えたから喰う」というイメージである。

その光景を見ながら、いつも「尊厳」という二文字が頭をもたげてくる。
「人間らしい」と言いづらくなった“父の食事風景”を見ながら、それでも「人間としての父」を
確認するかのように・・・。

アフリカでは、三秒に一人の子供たちが、その“生”を奪われている。
飢餓状態に苦しむ彼らにも、豪華な食べ物を平然と残すハイクラスの人々にも、同じ「尊厳」と「人権」が存在するのであれば、当然我が父にも存在するべきものである。
そんな当然のことを「当然だ」と思いながら、それでも当然のように確認していくことで、
私の中に確固としてある“父の存在価値”が、決してゆがめられないように――ただ、ひたすら踏ん張っている自分自身を感じている。

結局、「人間らしさ」・・・なんてものは、
一つのレッテルに過ぎないのではないか・・・と、そんな気がする。
人間社会が植えつけた道理や、自分自身が思い込んだ“モノの見方”が、
いろいろなレッテルをつくり上げていくんだ。
「人間らしさ」も、「父らしさ」も、「私らしさ」も、本来は存在しないもので、
「その時々の自分自身を、出発点とするだけで良いんじゃないのかなぁ」・・・なんて・・・そんな“楽な考え方”を意識しながら、「現実」を見据えていこうと思っている。
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