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【小倉百人一首】96:入道前太政大臣

2020年02月22日 23時14分31秒 | 小倉百人一首
入道前太政大臣

花さそふ嵐の庭のゆきならでふりゆくものは我が身なりけり

本名は西園寺公経。
西園寺家は藤原道長の叔父・公季から始まる藤原氏閑院流の流れを組み、氏の由来は公経が現在の金閣寺のあたりに西園寺を建立したことにちなむ(後にその地を足利義満に譲り移転)。
家業のひとつに琵琶があり、歴代天皇は西園寺家から琵琶を教わっている。
閑院流は平安末期に苡子(堀川天皇女御)や璋子(鳥羽天皇皇后)など国母を輩出しているが、この公経の代がもっとも栄華を極め、鎌倉時代は西園寺家から中宮をだすのが慣例となる。
また、妻の全子は源頼朝の姪にもあたることから、鎌倉幕府との結びつきも強く、外孫からは摂家将軍も誕生した。

┏源頼朝
┗坊門姫
  ||━━全子
一条能保 ||   道家
     ||   ||━┳頼経(4代将軍)━頼嗣(5代将軍)
     ||━┳━倫子┗二条良実(関白)
     || ┃
     || ┣━━━━━━━━成子
     || ┗実氏━姞子    ||
     公経┓    ||┳亀山  ||
       ┃ 後嵯峨 ┗━━後深草
       ┃   || 
       ┗━━公子

1221年の承久の乱のときには幽閉されていたが、朝廷の計画を幕府に密告し、勝利に貢献した。
乱の後は太政大臣に昇り、藤原道家とともに朝廷の実権を握る。
位人身を極めたまま、74歳で天寿をまっとうするが、幕府べったりの姿勢は当時から奸臣と陰口をたたかれていた。

孫の姞子は後嵯峨天皇の中宮となり、亀山・後深草両天皇を生んでいる。
後嵯峨は後深草に譲位し鎌倉幕府管轄のもとでの院政を開始する。のちに後深草に対して、亀山へ譲位するよう要請し、亀山天皇が誕生。さらに生後8か月の亀山の子(のちの後宇多)を立太子した。
ちなみに亀山天皇の系統を大覚寺統、後深草の系統を持明院統と呼ぶ。
無理やり退位させられた後深草は当然不満だったわけだが、後嵯峨は次代の治天の君(朝廷の最高権力者)を誰にするかは幕府に丸投げして崩御したため、幕府も困惑。結局亀山の子が8歳にして後宇多として天皇位を継ぎ(元寇が起きたのはこの時代)、亀山が治天の君となるも、持明院統寄りだった西園寺家の働きかけにより、その次の天皇は持明院統であり後深草の子である伏見になる。以降、持明院・大覚寺が交互に天皇を輩出する(両統迭立)。

しかし鎌倉時代後期に即位した後醍醐天皇(大覚寺統)は、自分の天皇位は甥(邦良親王)が成人するまでの中継ぎに過ぎなく、自分の子孫に皇統を継がせられないことに不満をもったため、それを容認する幕府を倒そうと企画する。これが最終的には成功して建武の新政につながる。
建武の新政が3年で崩壊した後、吉野にうつった大覚寺統は南朝、京で足利尊氏が擁立した持明院統は北朝と後に呼ばれ、南北朝時代が始まる。
この状態は足利義満の時代に統一(明徳の和約)されるまで続き、以降、現代まで持明院統からしか天皇はでていない。
しかし、南朝は正当な皇統の証である三種の神器を保持していたため、歴代天皇として北朝の天皇はカウントされないところが歴史の妙味というべきか。


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