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【小倉百人一首】62:清少納言

2014年07月22日 01時15分37秒 | 小倉百人一首
清少納言

夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ

以前にも書いたとおり清原元輔の娘。
この歌の背景は『枕草子』の百三十六段に記述されている。藤原義孝の息子で三蹟の一人・藤原行成(本文では”頭の弁”)とおしゃべりしていたら夜も更けてきたために行成は帰宅したのだが、その翌日に行成から「名残惜しかったが鶏の声が聞こえてきたので」という弁明の手紙がきた。
それに対して清少納言からも返事がきて、その流れで送った歌がこの歌。
二人のやりとりの中でも触れられてるのだが、この歌の元ネタになっているのは『史記』孟嘗君列伝にあるエピソード。

中国の戦国時代(紀元前403~紀元前221)。当時の中国の情勢は、名君が続き、天才軍師・孫臏の補佐よってトップクラスの国力を誇っていた斉、商鞅の変法により富国強兵に大成功し、さらに宰相の強烈なリーダーシップと白起という常勝将軍によって勢力の拡大を続けていた秦の二強時代で、それに食い込んでいたのが胡服騎射という軍事改革によって勢力を伸張させていた趙。他に魏・韓・楚・燕などの王国があったがこの時代の主役にはなっていない。
秦の君主である昭穣王はある時、斉の王族であり賢人として知られた孟嘗君(本名は田文)の評判を聞き、秦の宰相として招いた。が、趙の武霊王が秦に送り込んでいた謀臣の楼緩は、秦と斉の紐帯が強くなると間に挟まれた趙の不利になると考え、昭穣王に孟嘗君を殺害するよう献策した。これをすぐに実行しようとするのだから昭穣王の人間性を疑いたくなるが、ともかくそれを察知した孟嘗君は食客たちに助けられながら急いで秦を脱出しようとした。
秦の東側の国境に行く途中には函谷関という難攻不落の関所(というか要塞)があり、この関所は鶏の鳴き声が聞こえるまで開かない規則になっていた。背後から追っ手が迫る中、函谷関が開くのを待っていた孟嘗君。そこで物まねが得意な食客が鶏の鳴き声を真似して関所を開かせることに成功し、無事に秦から脱出できた、というのがこの歌の元ネタになった故事。函谷関とは違い、逢坂の関所は鶏の鳴き声くらいではあけてくれませんよ、という歌である。

ちなみに孟嘗君はこの後に魏・韓と連合軍を組んで秦に攻め込み、この函谷関を破っている。戦国時代に函谷関を突破したのは孟嘗君のみで、戦国時代終盤に秦が驚異的なスピードで魏の領土を侵食している時、趙に亡命していた魏の名将・信陵君が5カ国連合軍を結成して秦を破ったがそのときは函谷関の手前で引き返している。


長々と脱線したので清少納言の話題に戻ると、清少納言の名が後世に残った最も大きな要因はやはり『枕草子』の著者だったからだろう。清少納言の”清”は姓の清原氏が由来と思われるが少納言の由来はわかっていない。近親者に少納言に就任している人物がいないためだ。
また、『枕草子』の題名の由来も実はわかっておらず、直接には「献上された紙に何を書こうか?」と藤原定子から下問をうけた清少納言が「枕にこそは侍らめ」と答えたことがきっかけなのはわかっているのだが、この枕が何を指しているのかいまだに解明されていない。

経歴について触れると最初の結婚が失敗に終わった後(当時の結婚に書類手続きのようなものはなく通い婚だったため自然に縁が切れたといったほうが適切だが)、中宮・藤原定子に仕えた。『枕草子』を読むと、宮中に仕え始めた当初は殿上人とのやりとりに非常に緊張してこそこそ隠れていたようなことが書かれているが、徐々にその雰囲気に慣れてくると、逆に貴族たちを当意即妙なやりとりでうまくかわすようになってきた。納言のこの当意即妙なやりとりというのは教養に裏打ちされた非常に機知に富んだやりとりだったため、これが評判になり、ついには納言とのやりとりだけを楽しみにくる貴族も多くなった。
また、元来非常にプライドが高かったらしく、みんなの前で「一番でなければいや。二番三番は死んでもいや」とまで公言するようになった。とはいえ天皇や摂関家など上級貴族に対してはつつましい態度をとっており自身の能力をいかんなく発揮できた宮廷生活の賛美者であったのは間違いない。逆に自分より目下の人間に対しては容赦なくこきおろしている。
彼女が仕えた中宮定子が西暦1000年に25歳の若さで夭折すると、納言の宮廷生活も終わり(ちょうど入れ違いで紫式部が中宮彰子に仕える)晩年は落ちぶれた生活を送ったと伝えられている。


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