ラヂオアクティヴィティ[Ra.] 第一部ブロック・バスター 065「繰り返しません……、過ちは……」 勇気は石碑の文字を読んだ。 「繰り返しません……、過ちは……」 「どういうことなんだよ」 弁護士は首を振った。 「どうしたの?」 弁護士は顔を真っ赤にしていた。 「殺したのは、アメリカ軍であって、広島の人たちじゃない。法的にはそうなる……」 「それは、インド人の法学者も主張したことなのです」 「そうだろうね。それが正しい法の精神だ」 「そう被爆死した子どもの親御さんも話しておられたわ。三歳の子どもにできることじゃないわね。でも、私たちは宇宙船「地球」号の乗組員なのよ」 と輝美は微笑んだ。 マイクたちは、献花が終わり、元の席に行く。 その様子を見ていたスタジオの連中は、 「彼らも神妙になっているな!式典だけで、感動してもらっていては困る……」 「そうですけど……、α作戦という隠し玉があるさ」 ディレクターは鼻の頭をかいた。 「この放送は、全世界に報道される……。しかし、年中行事としてね!」 髪をかきあげる夏八木。 少年たちは、“原爆の子の像”のところへ行く。 禎子の物語は昨夜ドラマで放送された。 その禎子がモデルになった像である。 見るからに、明るく元気な女の子、禎子が太陽、いや、平和を求めて今にも飛び立ちそうである。 その禎子は原爆の後遺症の白血病によって亡くなった。 それは、マイクたち参加者と同じ、十代の死であった。だけど、病気になっても禎子は明るく元気に振る舞おうと努力した。 それが、禎子の生きるということだった。そんな禎子は、多くの人に勇気をくれる。たとえばベルーシアのソーシアたち、同じ放射能の被害者にも、彼女の意志は引き継がれているのだ……。 禎子は二歳のとき、爆心から一・五キロメートル離れた楠木町一丁目で被爆したが奇蹟的に無傷であった。昭和二十九年小学校六年生の秋、体の調子が悪くなり、翌年二月に広島赤十字病院に入院、その年の十月二十五日に永眠したという。 白血病と診断された禎子はベッドの上で赤い薬の包み紙を使って、鶴を折りながら、毎週検査される自分の血球数をわら半紙に書きとめた。 その折り鶴は、今でも平和記念資料館に残っている。日本には、千羽鶴といって、千羽の鶴を折ると、元気になるという言い伝えがある。禎子は、苦るしくっても、震える手でも折り鶴を折った。そうして病気と闘ったのだ。 その話をきいた子どもたちが、“原爆の子”の像をたてる計画をたて全国の人に呼びかけたのだ。運動がはじまって、平和公園に標木が立てられた。それを知った湯川秀樹博士が像につける鈴をぜひ寄贈したいと申し入れた。 “原爆の子”の像は大きな折り鶴を持っているのは、禎子が千羽鶴を折っていたからだ。その像の下にはたくさんの折り鶴がある。毎年、毎年、子どもたちが、ここに贈ってくれるのだ。 平和を願って、禎子の願った平和を願って、ピカさえなければ、今でも、禎子は生きていたことだろう。 ディレクターは、 「本当なら、今日、ソーシアが千羽鶴を供えることになっていたのだが!」 残念そうだった。 彼女はホームスティ先である仙台の病院で、式典を見ていた。 「きっと、京都には行くからね……」 テレビカメラに向かってソーシアは話しかけた。 ベルーシアから同行している女医のイネッサが横で、折り鶴を折っていた。 カメラマンが、その表情を執拗に追っていた。 そばにいる看護婦が、 「元気になったら、行きましょうね」 ソーシアの手をとった。 「ええ!」 弱音を吐くのが大嫌いだった禎子が大好きなソーシアは、いつのまにか禎子のような女の子になっていた。 「そうだよ、その時には僕も一緒に行くからね」 カメラマンはカメラを下ろして、やさしい口調で話した。 「お願いね!」 ソーシアは、はにかんだ笑顔だった。 「きっと、よくなるよ!」 カメラマンは親指を立てていた。
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