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天皇の軍隊と南京事件-もうひとつの日中戦争史-

2010年08月10日 | 読書日記など
『天皇の軍隊と南京事件-もうひとつの日中戦争史-』
   吉田裕・著/青木書店1986年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「日本軍はなぜ、あの想像を絶する戦争犯罪=南京大虐殺事件をおこしたのか?
戦争記録・戦史、外交・裁判資料、戦記・日記・回想なと膨大な資史料を渉猟して、上海攻略・追激戦・南京占領戦の実態を精細に辿り、〈皇軍〉の戦争観、軍指令官の無策や教唆を介して、兵士の敵愾心が、中国軍民に対する残虐行為へと暴走する過程を描く注目の戦争史研究!」



旧軍人グループ(旧陸軍将校の親睦組織・偕行社)の動向。雑誌『偕行』1984年~1985年。下「」引用。

「ただ、この連載で興味深いことは、連載の過程で編集者の意図に反して、捕虜などの虐殺を裏づける証言や記録がかなり出てきたことである。このため、連載終了後の『偕行』一九八五年三月号は、編集部名で「証言による南京戦史〈その総括的考察〉」を、いささか唐突とも思えるような形で掲載した。これは、虐殺をも含めた南京における日本軍の蛮行の存在を認め、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」との立場を明らかにしたものである。従来の南京事件=「まぼろし」説に比べれば明らかに一歩前進であり、そこには編集部の良識が感じられる。-略-」

「雨と泥と飢えの戦場」

「捕虜の惨殺」 下「」引用。

「上海戦線における捕虜の惨殺の事実は、各部隊の戦闘詳報からもその一端をうかがい知ることができる。第三師団歩兵第三四連隊の場合、大場鎮付近の戦闘で一二二名の中国軍兵士を捕虜としたが、「俘虜ノ大分ハ師団ニ送致セルモ一部ハ戦場ニ処分」している(歩兵第三四連隊「大場鎮附近戦闘詳報」)。-略-」

「捕虜問題と日本軍の体質」 下「」引用。

「「俘虜ノ待遇ニ関スル千九百二十九年七月二十七日ノ条約」は、捕虜に対する人道的取扱いをより厳格に義務づけた国際条約であったが、すでに述べたように日本政府はこの条約の批准をおこなわなかった。その理由は陸海軍がこれに反対したからである。海軍の場合、外務省の照会に対して、「帝国軍人の観念よりすれば譜りょょたること予期せざるに反し外国軍人の観念に於ては必ずしも然らず。従って本条約は……実質上は我方のみ義務を負ふ片務的なものなり」、「本条約の俘虜に対する処罰の規定は帝国軍人以上に俘虜を優遇しあるを以て海軍懲罰令、海軍刑法、海軍軍法会議法、海軍監獄令等諸法規の改正を要することとなるも右は軍紀維持を目的とする各法規の主旨に徴し不可なり」などの理由をあげて批准に反対している(「極東国際軍事裁判速記録」第二六一号)。-略-
 さらに付け加えるならば、中国軍捕虜に対する苛酷な取扱いの背景には中国人の人格そのものを認めようとしない根深い蔑視意識があったことは明白である。そもそも、戦闘詳報という軍の公的な文書報告のなかに捕虜の射殺が公然と記載されていること自体、その行為に何の罪の意識も感じていないことを端的に物語るものといわなければならないだろう。」

性急な決定で、自暴自棄の空気……。下「」引用。

「第一には、性急な南京攻略の決定が、上海派遣軍兵士たちの間の自暴自棄的な空気をいっきに加速させたことである。上海戦終了後、兵士たちの間には故国への帰還に対する期待が高まっていたが、南京攻略命令はこの期待を無惨にも打ち砕いたのである。当時上海派遣の一員であった曽根一夫は、「兵隊は内地に帰還出来る期待が大きかっただけに、よけいに落胆した」として、兵士たちの状況を次のように書いている。」

補給がなかった。下「」引用。

「第二には、充分な休息と準備のないままに南京への追撃を開始したため補給がこれに追いつかなかったことがあげられる。そもそも上海派遣軍の場合、当初の戦線不拡大方針を反映して上海周辺の戦闘だけを想定していたため各師団の兵站部隊が弱体であり、輸送のための鉄道部隊も同軍に配備されていなかった。-略-」

「徴発」=「掠奪」 下「」引用。

「また発行された場合でも日本軍によるその記入が全くデタラメであったため実際には用をなさなかったのである。この記入の問題に関しては、第九師団経理部の将校であった渡部卯吉が次のように回想している。
 然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見れば其記入が甚だ出鱈目である。例へば○○部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入していないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話では乃公(だいこう)〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である(渡部卯七『第九師団経理部将校の回想』)。」

「便衣狩り」に出くわした『東京日日』の従軍記者。下「」引用。

「掃蕩戦に参加した日本軍は、もはや、むき出しの敵愾心と殺意だけによって支えられた猛り狂う集団でしかなかった。『東京日日』の従軍記者であった前出の鈴木二郎は南京陥落後直後、中山路の功志社の建物で福島武四郎記者とともに休息をとっていた。-略-この二人は中国人にまちがわれて掃蕩中の日本軍により殺害されそうになるのである。-略-」

取調べは……。下「」引用。

「こうした「便衣兵狩り」で何らかの取調べがおこなわれた場合でも、それはせいぜい手にタコがあるか、あるいは額の上半分が日焼けしておらず帽子をかぶっていた跡があるか、といった程度のものにしかすぎなかった。前者は銃のタコであり、後者は軍帽を常用していた跡であって、いずれも軍人であった証拠であるというわけである。そして、このような形で「便衣兵」であると断定された者は、ただちに集団虐殺の現場に送りこまれることになったのである。-略-」








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