スヌスムムリクの生々流転日記

過ぎ行く日々の風景(2012.5.4~)ご訪問ありがとうございます。

杉並区「永福町から明大前へ住宅街の寺社めぐり」

2014-10-25 21:30:00 | まち歩き

今日は京王井の頭線永福町駅周辺から明大前駅までを散策してみました。

なんといっても大宮八幡宮と私が個人的に好きな湧水地があるからです。

まずは大宮八幡宮へ行こうと思っていたのですが最初に気になったのが

こちらのお寺でした。

泉谷山大円寺

所在地:杉並区和泉3-52-18

概要

曹洞宗寺院の大円寺は、泉谷山と号し、慶長8年(1603)江戸赤坂溜池の辺りに徳川家康が開基となって創建しました。もと保善寺末です。寛永18年(1641)伊皿子(港区三田高輪辺)へ移転、寺号を大渕寺から大円寺へ改号しています。島津家の江戸菩提寺となった他、塔頭2院も大久保科・旗本五井・松平・本多・土方の諸家中等を檀徒として栄えました。明治維新後、寺院の発展を計り明治41年当地へ移転しました。

大円寺山門

山門の扉には葵の御紋が施されいます。控えおろう~(笑)。

大円寺本堂

大円寺から大宮八幡宮へ向かい、大宮八幡宮参道を歩いていると立派な松が一本、

視界に入ってきました。

鞍掛けの松

源頼義の子、頼家が欧州遠征のおり枝に馬の鞍をかけたという伝承が

残るそうです。なんか1本だけよく残しましたね~。

やっと大宮八幡宮に辿り着きました。時期的に七五三の家族連れで

賑わっていました。

それにしても立派な神社です。

武蔵国三大宮の一つで「多摩の大宮」とも呼ばれたそうです。

江戸時代は徳川家康から社領30石を寄進され、敷地は境内を除いて

6万坪に及んだという。それから下の画像の右側に少し写っていますが

杉並大宮菊展も開催され境内を彩っていました。10月22日(水)から

11月24日(月)まで開催だそうです。

あまりに立派なので単独で次の記事としてアップすることにしました。

大宮八幡宮の北側を善福寺川が流れ和田堀公園があります。

あ~、午後の陽射しが秋を感じさせます。

釣り堀や売店もありました。ムムッ、画像左の忍者のロボットのようなものは

いったい何?

近づいてみると・・・

「僕、じゃじゃ丸。僕の中から美味しいポップコーンがたくさん作れるよ~。

ポップコーンを食べると元気モリモリ。美味しいじゃじゃ丸ポップコーンだよ~。」

と話しかけてくるではないですか~。なんとポップコーンの自動販売機だったのです。

味はバター、塩、キャラメルとあり各200円でした。

とても気になったのですがポップコーンは食べる気がしなかったので今日は

やめておきました。しかし左胸の段ボール気になります・・・。

ちなみにこの宣伝文句は人が近づくと話しかけてくるセンサーなのかと

思いきやどうやら数分おきに流れているだけのようでした。

あっ、それからお口のところにテレ東のモヤモヤさまぁ~ず2の

シールが貼ってありますね。ひょっとしてテレビにご出演されたのかな~?

和田堀公園お池の噴水。中島があるお池です。

お池の周りを歩いてみるとカメラを構えた人だかりが・・・

おっ、この鳥はカワセミじゃないですか~。

比較的、池のほとりから近い枝にじっととまっていたので私も撮影してみました。

それにしてもきれいな青ですね~。 いいものを見ることができました。

その後、善福寺川沿いに東に歩き杉並郷土資料館へやってきました。

門は旧家の長屋門だそうです。

機織り機なども展示されていました。

資料館の中も見学しようかと思ったのですがお腹も空いてきたので

お昼にすることにしました。

お昼は永福町駅近くの「ラーメンレストラン味大将」そしてデザートを

大宮八幡入口の信号にあるほうじ茶の「CHASEN」でいただきましが食・グルメの

別枠でアップしたいと思います。

お昼をすませたら今度は神田川沿いに歩きます。

遍照山文殊院

所在地:杉並区和泉4-18-7

概要

当寺は、遍照山高野寺文殊院と号する高野山真言宗の寺院で、本尊は弘法大師像です。 寺伝では、開山に高野山興山寺の木食応其上人とされていますが、「文政寺社書上」によれば勢誉師が、慶長5年(1600)徳川家康の帰依を受けて駿府に寺地を拝領し、開創したと伝えています。開創時当時は、寺号を興山寺と称していました。 徳川氏の江戸開府に及び、寛永4年(1627)に応昌師が江戸浅草に寺地を賜り、駿府城北の丸の建物を拝領して移築しました。 その後、元禄9年(1696)麻布白金台町(現港区白金台)に移りました。その当時のようすが、「江戸名所図会」に「白金高野寺」として描かれています。そして、大正9年に区画整理のため現在地に移転してきました。 江戸期の当寺は、高野山在番所行人方触頭として真言宗では重要なお寺でした。また、宝暦年間(1751-1764)に御府内八十八ヶ所霊場打留の札所となりました。境内には、この大師信仰を示す八十八ヶ寺大師石像や「お砂踏の石」があります。 本尊の弘法大師坐像は、室町末期の作といわれ、「難産の女人を救い給う安産守護のご本尊」として信仰されており、多くの女性が安産祈願に参詣しました。弘法大師像は、区内においては大変めずらしいものです。 文化財としては、弁財天像・付近出土の板碑・百度石・文殊院文書などがあります。(杉並区教育委員会掲示より)

文殊院文殊堂

今度は神田川沿いを南下して行きます。

貴船神社

所在地:杉並区和泉3-22-22

概要

当社は和泉熊野神社の境外末社です。「新編武蔵風土記稿」は江戸時代の当社の姿を「除地、一段、村の北の方にあり、小祠を東向に立つ」と記しています
創建は社伝では文永年間(一二六四~七五)ともいわれますが、詳細は明らかではありません。
祭神は高�轗神です。この神は山・谷あるいは川にすむ雨水をつかさどる竜神で、雨乞・止雨に霊力があるといわれています。当社はこの水を支配し豊穣を約束する神として信仰されていた、山城国(現京都府)の貴船神社の祭神を勧請したものと伝えられています。
境内の池は”御手洗の小池”と呼ばれ、かつてはいかなる干天にも涸渇することがなく、村民の雨乞を行う場所であり、その豊富な湧水から”和泉”の地名は、この池に由来するともいわれています。また水質も大変良かったようで、”豊多摩神社誌”は「里人は往昔此井より清酒を湧出せしなど云伝ふ」との伝説を伝えています。この伝説は今日も語りつがれています。しかし、この湧水も神田川の改修工事や周辺の宅地化にともない、昭和四十年頃以後は水が涸れてしまいました。
当社は大正時代においても「木造茅葺、間口四尺、奥行三尺」という小祠にすぎませんでしたが、古くから和泉地域の人々の厚い信仰に支えられて今日に至っています。
なお、現在の神明造りの本殿は昭和三十六年の造営で、落成を記念した石碑も建てられています。
祭礼は五月五日です。(杉並区教育委員会掲示より)

雨乞いが行われていたそうです。境内の池は枯渇していました。

和泉熊野神社

所在地:杉並区和泉3-21-29

概要

当社は旧和泉村の鎮守で、現在も「和泉の鎮守さま」として、人々に親しまれています。祭神は天御中主命・伊弉諾命・伊弉冉命で、明治7年には村社となっています。
社伝によれば、文永4年(1267)に紀州に熊野神社の分霊を祀ったのが当社の創建で、弘安7年(1284)に社殿を修造し、その後北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも、大いに社殿を修めたと伝えられています。
江戸時代には寛永16年(1639)と元禄9年(1696)の両度にわたって社殿の改修をおこなったことが、棟札によってわかります。現在の社殿は文久3年(1863)の造営で、明治4年に修覆したものです。「新編武蔵風土記稿」は、江戸時代の当社について「除地300坪、村の北の方にあり、屋2間四方、本社5尺四方、拝殿2間半に2間、社前に木の鳥居を立」と述べています。
当社の境内からはかって縄文時代の土器・石斧・石棒、古墳時代の土師式土器なども出土しており、古い時代から人々が、この地で生活していたことがわかります。また境内には徳川家光が鷹狩りの途中に休息し、その時に手植えしたと伝えられる松の大木もそびえています。
例祭日は9月第2日曜日です。(杉並区教育委員会掲示より)

和泉熊野神社鳥居

和泉熊野神社神楽殿

和泉熊野神社拝殿

和泉熊野神社稲荷神社

和泉熊野神社境内末社

万歳山永福寺、当地名由来となった寺院です。

所在地:杉並区永福1-25-2

概要

万歳山永福寺は曹洞宗の寺です。本尊は十一面観音像で、脇侍の不動・毘沙門両像とともに、鎌倉期の仏師快慶の手になるものと伝えられています。
寺伝によれば、開創は大永2年(1522)で、開山は秀天慶実と伝え、村名もこの寺名によっています。
永福寺の名は永禄2年(1559)に北条氏康が作成した「小田原衆所領役帳」にも見え、開創は寺伝の伝える頃に近いものと思われます。小田原落城後、北条氏の家臣であった安藤兵部丞が、当寺の住職をたよってこの地に帰農し、永福寺の檀家となり、村の開発につとめたといわれます。
中興開基は幕府御馬預役加藤重勝で、下高井戸村に拝領地を持ち、当寺を菩提寺としました。
当寺は文禄2年(1593)・元文3年(1738)・昭和20年と三度災害をうけましたが、天正16年(1588)の「検地書出」をはじめ二十数点の文書が無事保存されており、永福寺村を知る貴重な資料となっています。
なお、この他の文化財も多く、境内には「子授け地蔵」の名で村人に信仰された正徳5年(1715)銘の地蔵菩薩石像等があり、また寺の西門脇には正保3年(1646)・天和元年(1681)銘の庚申塔、元禄4年(1691)銘の地蔵石像が安置されています。(杉並区教育委員会掲示より)

永福寺山門

永福寺本堂

永福寺鐘楼

永福寺から築地本願寺和田堀廟所まで移動するのに甲州街道に出て

甲州街道沿いを歩いたのですがこの間もお寺さんが5~6件ありました。

を築地本願寺和田堀廟所

所在地:杉並区永福1-8-1

概要

当廟所は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に所属する築地本願寺の分院で、阿弥陀如来が本尊として安置されています。
大正12年9月1日の関東大震災によって、築地本願寺は、寺中57の子院と共に焼失しました。その再建については、他に移転の議もありましたが、結局現地復興となり昭和10年インド様式の大本堂の完成を見ました。墓地については、他に移転することにしていたところ、陸軍省火薬庫跡であった当地が払下げられることになり、昭和4年出願が許可され翌5年当地を所有し、地名にちなんで和田掘廟所と名付けました。
12,000坪の広さを有し、富士が望める閑静な近代的公園墓地として注目されました。
ところが昭和20年5月25日、空襲により建物はことごとく焼失しました。しかし、幾多の困難の中バラック建の仮本堂を建てて宗教活動を続けました。ようやくにして同28年、本堂が再建され更に伝道会館や門信徒会館が建てられ今日に至っています。
墓地には樋口一葉・九条武子・伊東巳代治・藤原銀次郎・水谷八重子・古賀政男等著名人の墓があります。また明暦の大火で焼失した築地本願寺(当寺は浜町御坊)の再建に力を尽くした佃島の人々の墓地があり、その佃島の祖先33名の由来が書かれた石碑も建てられています。(杉並区教育委員会掲示より)

どうもいろいろと改築中のようでした。

築地本願寺和田堀廟所本堂

本家に比べると小さいですが同じくインド式建築です。

隣に明治大学があり甲州街道を渡ると明大前駅です。

いや~それにしても今日はよく歩きました。少しは痩せたかな~・


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