素盞雄神社から歩き出すと円通寺の前を通りかかりせっかくなのでよって行きました。
所在地:荒川区南千住1-59-11
延暦10年(791)、坂上田村麻呂が開創した と伝える。また、源義家が奥州を鎮定した とき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋 めて塚を築いたので、このあたりと小塚原 とよぶようになったという。 江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の入谷鬼子 母神真源寺とともに「下谷の三寺」とよば れた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音 像を安置した観音堂があったことから「百 観音」の通称で親しまれたが、観音堂は安政二年(1855)の大地震で倒壊した。 境内には、石像七重塔、彰義隊士の墓、永仁四年(1296)銘をはじめとする板碑四基 (区指定文化財)などがある。(荒川区教育委員会)
円通寺山門
お寺さんなのになぜか狛犬があります。
円通寺本堂
寺号額は榎本武掦の書だそうです。
三代将軍家光鷹見の松
家光が鷹狩を行った際に境内に鷹が止まったことから名付けられる。
首塚・七重の塔
八幡太郎義家奥羽征伐して賊首四十八をこの地に埋め 四十八塚(首塚)を築く、これにより、この地が小塚原と 呼ばれる事となった。
首塚の上に建っているのが、この寺の由緒「重興圓通 寺記幵塔銘」が刻んである、七重の石塔である。
旧寛永寺の黒門 戊辰戦争唯一の記念物
慶応四年(1868)五月十五日上野東台に於て、彰義隊と官軍の激戦が展開された。 その中心地に建っていたのが、黒門である。 明治四十年十月帝室博物館より特に当寺に下賜せ られたものである。
しかし銃のあとがよく残っています。数年前に訪れた時とまったく変わっていません。
よく保存されています。
彰義隊士のお墓
また、慶応四年(1868)五月十五日上野の山内にて戦死した、彰義隊の遺体は「賊軍」がゆえ、戦場に散乱放置したままで在ったのを、当寺二十三世「大禅佛磨大和尚」が、上野の山に出向き、斬首覚悟で供養していた。勿論、官軍に 拘束されるが、幸いにも当寺に埋葬供養を許すという官許をいただけた。 これが、逆に明治時代に唯一「賊軍」の法要が、おおっぴらに出来る寺として、旧幕臣の信仰を集める結果となっ た。 「彰義隊戦死者」は義商「三河屋幸三郎」の助力をえて、現在の西郷銅像の後方にて火葬(現在でも記念碑があるが、 火葬場所で墓では無い) 遺骸266体を当寺に埋葬す。
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