またまた健さんである
健さんの事が知りたくて、出演DVDのみならず関係書籍も集めだした
その中の一冊に「南極のペンギン」と言う、健さん自身の著作がある
健さんの映画俳優人生のなか、世界中で出会った優しい心のぬくもりを綴った話にイラストが添えられた、まるで絵本のような本だ
作中の一遍「奄美の画家と少女」を読んで、泪が出て止らなかった
その一遍を此処に、簡潔且つ完璧に再現する力は僕には無いので、話の内容が知りたい方は、是非ご自身で読んで頂きたい
実際に出会ったこの話が心の琴線に触れて、このように書き記した健さんも素敵であるが、僕は健さんが次のように紹介したその画家の事ももっと知りたくなった
田中一村(たなかいっそん)というのがこの画家の名前だ。奄美でひたすら自分のかきたい絵をかきつづけた。絵をかくために、生まれてきたと自分を信じた。
生きているあいだ、彼の絵は世の中に認められなかった。それでも、絶望しなかった。貧しさにもまけなかった。そのはげしい生き方は、「アダンの画帖」に、くわしく書かれている。
一村が亡くなったあと、ぼくはその絵をはじめて見た。南の島のたくましい命があふれている。自分の命をけずって、絵の具にとかしたような絵だ。
(代表作の一つ 奄美の杜6 クワズイモとソテツ 83×157cm 絹本 昭和40年代)
早速「アダンの画帖」(現在の書名は「日本のゴーギャン田中一村伝」)を、購入して読んでみた
一村の一途で激しい生き方に、惰眠を貪っていた自分の心が揺さぶられる思いがしたので、簡単に紹介したい
明治41年栃木県に生まれた一村は、幼いころから画才を現し、7歳にして米邨(べいそん)と号し南画をよくした
大正15年上野の東京美術学校に入学、日本画科を専攻する
同期には、東山魁夷、橋本明治、加藤栄三らがおり、のちに日本画壇で「花の六年組み」(昭和六年卒)と称えられたほど英才が集まった期である
その中でも異才と言われた一村であったが、入学後僅か3ヶ月で結核に倒れ、父の病気も重なり中退せざるを得なかった
その後病で倒れた父に変り、一家を支えながら独学で画境を開拓し、戦後の昭和22年、第19回清龍展に初出品初入選を果すが、翌年主宰する川端龍子と意見を異にし、以後画壇との接触をほとんど断ってしまう
学閥や権威に一切頼らず、貧窮をものともせずただ自分の才能だけを信じ、ひたすら絵を描き続けた
生涯結婚もしなかった彼は、南の島の明るい光線と豊かな自然こそ自分が描きたい対象であると、50歳にして一人奄美に移り住む
5年間大島紬の工場で働き金を溜め、その金で3年間は絵に専念すると言う生活を繰り返し、「東京で個展を開き、絵の決着をつける」との夢を実現する前に、69歳で一人寂しく亡くなった
自らの才能を信じて聖のように生き、最後は絵に殉じた孤高の画家の不遇な生涯
世の中には全く凄い人が居るものだ・・・感動した!
一村の絵に直接触れるには、奄美に渡り「田中一村記念美術館」を訪ねるほか方法は無い
頭の中では、奄美へ行って絵を見る事と、奄美での釣り(何が釣れるのか、現在の所、全く情報は有りませんが)が渦巻いている
←奄美は遠すぎるけど・・・
健さんの事が知りたくて、出演DVDのみならず関係書籍も集めだした
その中の一冊に「南極のペンギン」と言う、健さん自身の著作がある
健さんの映画俳優人生のなか、世界中で出会った優しい心のぬくもりを綴った話にイラストが添えられた、まるで絵本のような本だ
作中の一遍「奄美の画家と少女」を読んで、泪が出て止らなかった
その一遍を此処に、簡潔且つ完璧に再現する力は僕には無いので、話の内容が知りたい方は、是非ご自身で読んで頂きたい
実際に出会ったこの話が心の琴線に触れて、このように書き記した健さんも素敵であるが、僕は健さんが次のように紹介したその画家の事ももっと知りたくなった
田中一村(たなかいっそん)というのがこの画家の名前だ。奄美でひたすら自分のかきたい絵をかきつづけた。絵をかくために、生まれてきたと自分を信じた。
生きているあいだ、彼の絵は世の中に認められなかった。それでも、絶望しなかった。貧しさにもまけなかった。そのはげしい生き方は、「アダンの画帖」に、くわしく書かれている。
一村が亡くなったあと、ぼくはその絵をはじめて見た。南の島のたくましい命があふれている。自分の命をけずって、絵の具にとかしたような絵だ。
(代表作の一つ 奄美の杜6 クワズイモとソテツ 83×157cm 絹本 昭和40年代)
早速「アダンの画帖」(現在の書名は「日本のゴーギャン田中一村伝」)を、購入して読んでみた
一村の一途で激しい生き方に、惰眠を貪っていた自分の心が揺さぶられる思いがしたので、簡単に紹介したい
明治41年栃木県に生まれた一村は、幼いころから画才を現し、7歳にして米邨(べいそん)と号し南画をよくした
大正15年上野の東京美術学校に入学、日本画科を専攻する
同期には、東山魁夷、橋本明治、加藤栄三らがおり、のちに日本画壇で「花の六年組み」(昭和六年卒)と称えられたほど英才が集まった期である
その中でも異才と言われた一村であったが、入学後僅か3ヶ月で結核に倒れ、父の病気も重なり中退せざるを得なかった
その後病で倒れた父に変り、一家を支えながら独学で画境を開拓し、戦後の昭和22年、第19回清龍展に初出品初入選を果すが、翌年主宰する川端龍子と意見を異にし、以後画壇との接触をほとんど断ってしまう
学閥や権威に一切頼らず、貧窮をものともせずただ自分の才能だけを信じ、ひたすら絵を描き続けた
生涯結婚もしなかった彼は、南の島の明るい光線と豊かな自然こそ自分が描きたい対象であると、50歳にして一人奄美に移り住む
5年間大島紬の工場で働き金を溜め、その金で3年間は絵に専念すると言う生活を繰り返し、「東京で個展を開き、絵の決着をつける」との夢を実現する前に、69歳で一人寂しく亡くなった
自らの才能を信じて聖のように生き、最後は絵に殉じた孤高の画家の不遇な生涯
世の中には全く凄い人が居るものだ・・・感動した!
一村の絵に直接触れるには、奄美に渡り「田中一村記念美術館」を訪ねるほか方法は無い
頭の中では、奄美へ行って絵を見る事と、奄美での釣り(何が釣れるのか、現在の所、全く情報は有りませんが)が渦巻いている
←奄美は遠すぎるけど・・・