京成本線は日暮里を出たあと、
大きくカーブを描きながらJR常磐線、山手線、京浜東北線と10本の線路を越え、
そのまま上野桜木付近から地下線に入っていく。
地下線の抗口には「東臺門」という扁額が掲げられている。
そしてトンネルを入ると直ぐに寛永寺坂という駅が設置されていた。
日暮里からは700mの距離であり、鉄道駅としては近い気がするが、
京成電鉄は終戦直前まで軌道法による軌道扱い、つまり路面電車の分類だった。
寛永寺坂駅は昭和に入った1933年に日暮里から上野公園が開業した時、
地下線の抗口を入って直ぐの場所に同時に設置された。
戦時中は一時休止したが1946年11月1日に営業を再開した。
しかしそれから1年と経たずに再び休止、1953年2月23日に正式に廃止された。
駅は廃止されたが駅舎の所有は現在でも京成電鉄であり、
今は“台東倉庫”という会社に貸し出されているものの、駅舎そのものは当時のまま残っている。
休日でシャッターが閉まっているのに多くのクルマが止まっている。
ここは近くの洋菓子店「depuis 2000 PATISSIER INAMURA SHOZO」の駐車場としても利用されているようだ。
また道との境に石柱があり、「国威宣揚」や「紀元二千六百年記念」、
そして「昭和十六年十二月八日 東櫻木町有志建之」などと書かれている。
これは国旗掲揚台の跡のようであるが、
本当に真珠湾攻撃があった日にこれがつくられたのか、
東桜木町の有志が真珠湾攻撃を知って初めてつくろうと思った日なのかは分からない。
駅名の由来となった寛永寺は言問通りを跨いで反対側にある。
寛永寺は天台宗の関東総本山で東叡山寛永寺円頓院が正式名称の寺院であり、
徳川将軍家の菩提寺になっていて徳川将軍15人のうち6人が眠る。
第3代将軍徳川家光が開基となっており、現在の上野公園ももともと寛永寺の敷地だった。
しかし1868年の上野戦争で主要伽藍が焼失、1875年に川越の喜多院の本地堂を移築して本堂とした。
本来の根本中堂は現在の博物館南側の大噴水広場にあったとされ、
住職の住む本坊は東京国立博物館の敷地となっている。
言問通りから寛永寺側にT字路を入り、東京国立博物館に向かって歩く。
この地下に京成線が走っていて、東京国立博物館の隅には、京成電鉄博物館動物園駅があった。
日暮里から上野までの地下線が完成した1933年に同時に開業した。
戦時中は一時休止されていたがその後再開、
しかし1997年4月1日に休止、2004年4月1日付けで正式に廃止された。
ホーム長が4両編成分しかなく、6両編成の車両が増えた京成電鉄では使用できる車両に制限があり、
また京成上野駅と900mの距離しかなく、利用客の減少したことが休止、廃止の理由だという。
しかし駅舎は廻りの建物に合わせるように西洋様式の建築物で、現在もそのまま保存されている。
都道452号線を超えて京成電鉄地下線の上の道を更に行く。
東京都美術館の前を抜け、上野動物園と進む。
高校では美術部に所属していたため、東京都美術館は高校時代に何度も訪れている。
上野動物園も幼稚園の頃から遠足できている場所だ。
そのまま進むと上野東照宮の入口に至る。
上野東照宮は藤堂高虎の屋敷の敷地内に創建された徳川家康、吉宗、慶喜を祭る神社で、
家光が改築した社殿は1651年に造られた。
境内の掲げられていた「東照宮略記」には以下のように書かれている。
祭神/徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜
縁起/元和二年二月見舞いのために駿府城にいた藤堂高虎と天海僧上は危篤の
家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言された
そこで高虎は家敷地であるこの上野の山に寛永四年(一六二七年)に本宮を造営した
その後将軍家光はこの建物に満足できず慶安四年現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。
参道の脇ではちょうどぼたん祭りが開かれていた。
更に行くと上野大仏がある高台が見えた。
これは顔だけの大仏で、もともとは身体もあったが関東大震災で首が落ち、
その後身体は解体され第二次世界大戦の時に供出された。
大仏の脇に掲げられていた「上野大仏略記」には以下のように書かれている。
寛永八年(一六三一年)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、
戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。
青銅大仏
明暦・万治の頃(一六五五~六〇年)木食僧浄雲師により銅佛に改められた。
仏殿
元禄十一年(一六九八年)露座の大仏に仏殿が建立された。
改鋳
天保十二年(一八四一年)火災に遭い、天保十四年、末孫堀丹波守直央公が大仏を新鋳しまた仏殿を再建した。
大正十二年関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、
その後佛体は解体され第二次世界大戦時に献納された。
昭和四七年春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り再建を計る一助とする。
昭和四十七年春彼岸
上野精養軒も見渡せる高台を降り、そのまま京成地下線に沿って進むと直ぐに京成上野駅である。
しかしここまで来たのだからと、不忍池まで足を伸ばす。
不忍池弁財天のある中島まで行って見る。
途中の参道には出店が多く出ていて賑わっていた。
弁天堂を見て再び上野公園に戻り、そのまま京成上野駅の入口に辿り着く。
結局西郷隆盛像は拝まずに京成上野駅に辿り着いてしまった。
開業当時から地下駅として誕生した京成上野駅は京成スカイライナーの乗車駅として、
新型スカイライナーに合わせて看板が掛け替えられていた。
ここでこの散歩の旅は終わりである。
日暮里駅の京成口を出たのが0:53p.m.、京成上野駅辿り着いたのが2:49p.m.だった。
途中の谷中霊園での寄り道も含めて1時間56分の散歩旅であった。
取材日:2014年5月3日
区間:京成日暮里駅-旧・寛永寺坂駅-旧・博物館動物園駅-京成上野駅
大きくカーブを描きながらJR常磐線、山手線、京浜東北線と10本の線路を越え、
そのまま上野桜木付近から地下線に入っていく。
地下線の抗口には「東臺門」という扁額が掲げられている。
そしてトンネルを入ると直ぐに寛永寺坂という駅が設置されていた。
日暮里からは700mの距離であり、鉄道駅としては近い気がするが、
京成電鉄は終戦直前まで軌道法による軌道扱い、つまり路面電車の分類だった。
寛永寺坂駅は昭和に入った1933年に日暮里から上野公園が開業した時、
地下線の抗口を入って直ぐの場所に同時に設置された。
戦時中は一時休止したが1946年11月1日に営業を再開した。
しかしそれから1年と経たずに再び休止、1953年2月23日に正式に廃止された。
駅は廃止されたが駅舎の所有は現在でも京成電鉄であり、
今は“台東倉庫”という会社に貸し出されているものの、駅舎そのものは当時のまま残っている。
休日でシャッターが閉まっているのに多くのクルマが止まっている。
ここは近くの洋菓子店「depuis 2000 PATISSIER INAMURA SHOZO」の駐車場としても利用されているようだ。
また道との境に石柱があり、「国威宣揚」や「紀元二千六百年記念」、
そして「昭和十六年十二月八日 東櫻木町有志建之」などと書かれている。
これは国旗掲揚台の跡のようであるが、
本当に真珠湾攻撃があった日にこれがつくられたのか、
東桜木町の有志が真珠湾攻撃を知って初めてつくろうと思った日なのかは分からない。
駅名の由来となった寛永寺は言問通りを跨いで反対側にある。
寛永寺は天台宗の関東総本山で東叡山寛永寺円頓院が正式名称の寺院であり、
徳川将軍家の菩提寺になっていて徳川将軍15人のうち6人が眠る。
第3代将軍徳川家光が開基となっており、現在の上野公園ももともと寛永寺の敷地だった。
しかし1868年の上野戦争で主要伽藍が焼失、1875年に川越の喜多院の本地堂を移築して本堂とした。
本来の根本中堂は現在の博物館南側の大噴水広場にあったとされ、
住職の住む本坊は東京国立博物館の敷地となっている。
言問通りから寛永寺側にT字路を入り、東京国立博物館に向かって歩く。
この地下に京成線が走っていて、東京国立博物館の隅には、京成電鉄博物館動物園駅があった。
日暮里から上野までの地下線が完成した1933年に同時に開業した。
戦時中は一時休止されていたがその後再開、
しかし1997年4月1日に休止、2004年4月1日付けで正式に廃止された。
ホーム長が4両編成分しかなく、6両編成の車両が増えた京成電鉄では使用できる車両に制限があり、
また京成上野駅と900mの距離しかなく、利用客の減少したことが休止、廃止の理由だという。
しかし駅舎は廻りの建物に合わせるように西洋様式の建築物で、現在もそのまま保存されている。
都道452号線を超えて京成電鉄地下線の上の道を更に行く。
東京都美術館の前を抜け、上野動物園と進む。
高校では美術部に所属していたため、東京都美術館は高校時代に何度も訪れている。
上野動物園も幼稚園の頃から遠足できている場所だ。
そのまま進むと上野東照宮の入口に至る。
上野東照宮は藤堂高虎の屋敷の敷地内に創建された徳川家康、吉宗、慶喜を祭る神社で、
家光が改築した社殿は1651年に造られた。
境内の掲げられていた「東照宮略記」には以下のように書かれている。
祭神/徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜
縁起/元和二年二月見舞いのために駿府城にいた藤堂高虎と天海僧上は危篤の
家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言された
そこで高虎は家敷地であるこの上野の山に寛永四年(一六二七年)に本宮を造営した
その後将軍家光はこの建物に満足できず慶安四年現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。
参道の脇ではちょうどぼたん祭りが開かれていた。
更に行くと上野大仏がある高台が見えた。
これは顔だけの大仏で、もともとは身体もあったが関東大震災で首が落ち、
その後身体は解体され第二次世界大戦の時に供出された。
大仏の脇に掲げられていた「上野大仏略記」には以下のように書かれている。
寛永八年(一六三一年)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、
戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。
青銅大仏
明暦・万治の頃(一六五五~六〇年)木食僧浄雲師により銅佛に改められた。
仏殿
元禄十一年(一六九八年)露座の大仏に仏殿が建立された。
改鋳
天保十二年(一八四一年)火災に遭い、天保十四年、末孫堀丹波守直央公が大仏を新鋳しまた仏殿を再建した。
大正十二年関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、
その後佛体は解体され第二次世界大戦時に献納された。
昭和四七年春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り再建を計る一助とする。
昭和四十七年春彼岸
上野精養軒も見渡せる高台を降り、そのまま京成地下線に沿って進むと直ぐに京成上野駅である。
しかしここまで来たのだからと、不忍池まで足を伸ばす。
不忍池弁財天のある中島まで行って見る。
途中の参道には出店が多く出ていて賑わっていた。
弁天堂を見て再び上野公園に戻り、そのまま京成上野駅の入口に辿り着く。
結局西郷隆盛像は拝まずに京成上野駅に辿り着いてしまった。
開業当時から地下駅として誕生した京成上野駅は京成スカイライナーの乗車駅として、
新型スカイライナーに合わせて看板が掛け替えられていた。
ここでこの散歩の旅は終わりである。
日暮里駅の京成口を出たのが0:53p.m.、京成上野駅辿り着いたのが2:49p.m.だった。
途中の谷中霊園での寄り道も含めて1時間56分の散歩旅であった。
取材日:2014年5月3日
区間:京成日暮里駅-旧・寛永寺坂駅-旧・博物館動物園駅-京成上野駅