『DISCOVER the 90's”第9弾アーティストとして、”大塚利恵”のサブスク全曲配信』を記念して、オリジナルソングの歌詞と解説を、一曲ずつご紹介していきたいと思います♫
歌詞や曲の話はもちろん、レコーディングのことや、その頃のことでふと思い出したことなど、徒然に。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
まずは、
1998年7月18日リリース
デビューマキシシングル タイトル曲「いいよ。」です。
配信特設サイトでは、ライターの兵庫慎司さんが、この曲のことを中心に素敵に紹介してくださっていますので、ぜひご覧ください。
初回なので、ちょっと長いですがお許しを。
「いいよ。」
作詞作曲歌:大塚利恵
編曲:土方隆行 大塚利恵
ストリングス編曲:笹路正徳
僕が消えた朝
天使の羽が生えて
鏡見て笑ったよ
似合わない おかしいね
行きつけの喫茶店
なつかしい保育園
仲良しの肉屋さん
あたたかい僕の家
かなわなかった願いさえも
切ない位同じ姿で
僕に手を振っているよ
悲しみは悲しみのまま
喜びは喜びのまま
僕だけがいない
僕が消えた朝
愛しいかけら達が
僕の手さえ握らず
泣いている気がした
聞き飽きたメロディーや
叱られた時の声
好きだった噴水の
思い出と水の音
恋人は恋人のまま
友達は友達のまま
僕だけがいない
僕がつむいだ
大切なかけら達が
僕と一緒に夢になるよ
かなえられた望みだけが
相変わらず僕を照らして
星のように舞っているよ
幸せは幸せのまま
優しさは優しさのまま
僕だけがいない
もう一度生まれ変わっても
僕はもう僕じゃないから
忘れてもいいよ
デビュー曲を選んだのは私ではなく、会社の会議で決まったんです。
当時の事務所フェイスと、アンティノスレコードのスタッフの皆さんで選んでくれたのだと思います。
私、自分のこともよくわかってない、会議とかとても出られないタイプの子だったので、呼ばれなかったのだと思います笑。
デビュー曲のテーマが「死」というのは結構攻めてたと思うけど、本当にこの曲でよかったと思います。
死を真剣に考えることは、生を真剣に考えること。
死を思いながら、生を目一杯描くこと。
私が一番大事にしてることだから。
「いいよ。」を書いたのは東京音大作曲科映画放送音楽コース1年生の時だったと思う。
池袋の、大学のすぐそばの音大生用マンションに住んでいました。
管理人のおじさんがすっごく変で、留守中部屋に入られたことがあったりして、2年で引っ越したんですけどね。
引っ越しの時にも、ゴミを置いて行かせてくれなくて、意地悪されたなあ。
当時、ソニーのプロデューサーさんのところに定期的に新曲を聞いてもらいに行っていて、音大の宿題も過酷だったので、徹夜ばかりしていて、大学の近くに住んでいたのはとても便利でした。
念願の一人暮らしで、自炊もやたら張り切っていて、マンションのすぐそばにあった肉屋さんでよくお肉を買っていたんです。
お弁当や惣菜の美味しいお店で、音大の友達もよく買っていたので、私が生肉を買うのを肉屋のおじさんは不思議に思っていたみたい。
その方が、歌詞に出てくる「仲良しの肉屋さん」のモデルです。
豪快で明るい、声の大きな肉屋さん。お元気かなあ。
この曲は、当時できたばかりだった「フレッシュネス・バーガー」で、ほとんどの歌詞を書きました。
東池袋が確か2号店だったのかな。衝撃の美味しさにハマってました。
家の近くだったから、よく早朝の誰もいない時間に行って、ベーコンオムレツバーガーをぱくつき、コーヒーが冷めたことにも気付かず、何時間も鼻息を荒くして書いていました。
私は、オリジナルソングの場合は、ほとんど歌詞を先に作ります。
かっちりではなく、ぐちゃぐちゃに思い浮かぶままに書いて、どこが出だしでどこがサビとかも全く決めずに。
テーマと対峙して、潜って潜って会話していくみたいに。
そして、ある程度手応えを感じたら、ピアノに向かって曲と同時進行で作ってゆきます。
例外もあるけど、ほとんどそのパターンです。
当時のマンションの部屋にはレンタルのアップライトピアノがあって、書きなぐった歌詞のメモを見ながら、コードとメロディを探していきました。
よく、特に昔の私の曲は「ファンタジック」と言われるのですが、確かにそういう表現が多い(この曲も天使の羽が生えますしね。)けれど、自分で意識していたわけではありません。
歌は「心のノンフィクション」だと思っているのですが、それを追求していくと、ファンタジックな方が表現しやすかったように思います。
現実って、そのまま書くと感情が抜け落ちたり、そのまま書いてるはずなのに全然違ったりするじゃないですか。
さて、私がソニーのオーディションを受けたのは93年、デビューは98年なので、ずいぶん時間がかかりました。
デビュー前に、実はものすごい時間と予算を使って、死ぬほどレコーディングしてたんです。
同じ曲を何度もやり直したり、違うアレンジ、違うミュージシャンで。もちろん、私の権限じゃないですよ笑。
その時のプロデューサーさんの試行錯誤だったので、私自身はもう何が何だかわからず言われるままだったんです。
私めちゃくちゃ耐性が強いので、辛かったけど受け入れて我慢しちゃったのだと思います。
もっとスルッと、10代でリリースした方が健全だったと思うのですが。
でも、誰かを恨むことはもちろん、しっかりしていなかった自分を責めることももうしないと決めています。
そういう自分だからこそ、作ることができた楽曲たちだと思うので。
そんなわけでノイローゼ気味でのデビュー笑。
あんまり、嬉しい!とか、やった!という感情はなかったと思います。
関わってくれる人、応援してくれる人への感謝を伝える余裕すらなかった。
病んでましたね、嫌な思いをさせた方がいたら、本当に申し訳なく思います。
デビュー前は、ソニーの出版社預かりの立場だったんですけど、レコード会社へのプレゼンライブがあって、10社か11社だったかな?すごくたくさん手をあげていただいて。
でも、色々諸事情ありまして(言えない話が多いから割愛(^^))
出版社の目の前にあった、同じソニーのアンティノスレコードからデビューが決まりました。
事務所も決まり、デビューに向け準備が進んでいたのですが、、
またまた、なかなか音源が仕上がらなくて。
ある日、事務所の社長さんに呼ばれました。
「ねえ、りえぞー、ちょっと気分転換にさ、違う人とレコーディングしてみる?」
「あ、、はい。」(朦朧)という感じで、デモテープを録るつもりでスタジオへ。
そこで録ったのが、そのままデビュー音源となりました。
騙されたのではなく笑、うまく誘導してもらえたと思っています。
いろんな人間関係が絡んでいたし、周りにいる誰をも失いたくなかった。そして流されるままの私一人ではどうにもならなかったと思います。
ディレクターをしてくれた熊谷さんは、同じ事務所の大先輩 エレファントカシマシのディレクターさんでした。
超多忙な中、いつも歌舞伎揚の袋を小脇に抱え、ものすごいスピードでキレッキレのディレクションをしてくれました。
でもすごく的確で、ありがたかった。
色々あったけれど、リリースしたものすべてを今でも心から誇れるのは、ほんと、熊さんのおかげが大きくて、感謝しています。
この曲のアレンジャーは、ギタリストの土方隆行さん。
クレジットを見てもらえればと思うのですが、すんごいメンバーのレコーディングで。
私は「これまた豪華なデモ録りだな〜」とぼんやり思っていました。
「いいよ。」だけじゃないんですが、私の曲のアレンジは、イントロ、間奏、曲中も、もともとピアノで弾いていたフレーズをそのまま取り入れて生かしてもらっているのがほとんどです。メインのフレーズに関しては。
でも、「いいよ。」のストリングスを初めて聞いた時は、わあ!っと思いました。
元の世界観はそのままに、笹路正徳さんが徹底的に感情に寄り添い、本当に素敵に膨らませてくださって。
特に間奏の、サワサワとクレッシェンド&デクレッシェンドするところがとっても好きです。
こんなアプローチがあるんだ、、と感激した記憶があります。
ストリングスの譜面をいただいて帰りました。
実は最初は、ストリングスは違うアレンジャーさんが書いてくださったんです。
でもレコーディングで実際聴いて、熊さんと目を合わせ、「違うね」となってしまって。
そういう時って、決してアレンジャーさんが悪いわけじゃないのだけど、(それだけは強調しておきたい)
何か、パズルのピースが違った!となってしまう時があるんですよね。
どうしようか、、となっていたその時、たまたま同じスタジオの別室でレコーディング作業をしていた笹路さんが、遊びにきてくださいました。
盟友の土方さん、熊さんもいたので、興味を持ってくださったのかも。
そこで「いいよ。」を聞いて、気に入ってくださいました。
「僕、書くよ。」とその場でスケジュール帳を開いて、予定入れてくださって。
そうして出来あがったのがこの曲です。
その後、笹路さんにも土方さん同様、がっつり関わっていただくことになったのですが、その話はまた他の曲の回で。
あと、歌詞の話ですが、「僕」という人称については、インタビューでかなり聞かれることが多かったです。
なぜ私が女性なのに「僕」なのか問題ですね。
他にも僕/君を使った曲は多々あります。
私/あなたのものもあります。
でも、正直あまり考えてそうしたわけじゃなかったと思います。
主人公の設定が変わるから、とかでもなく。(提供する歌詞ならそうなのですが)
曲やテーマがそれを求めたから、という感じかなあ。
でも、「私」でも「俺」でもなく「僕」が一番中性的で、人物の性に焦点が当たりにくく、テーマに集中できる、というのはあったかも。
当時は本当に、何も考えずに衝動に突き動かされて書いていたという感じでした。
そういえば、「いいよ。」には「君」が出てきません。
大切な存在は確かにいるのだけど、二人称が直接出てこない歌は意外と少ないかも。
「死」がテーマの、この曲を愛してくださっている方から、思いがけないお話を聞くことがあります。
昔、旦那様を事故で亡くした方。
私はそれを知らずに、彼女のヨガのクラスが好きで通っていたのですが、何年も経って再会して、初めてお茶をした時に打ち明けられたんです。
実はずっと辛くて辛くて、どうしていいかわからず生きていた時期があった。
この歌をもっと早く知っていればよかった、って。
本当に辛い別れをした方が、この歌をどう捉えるのかは私にははかりしれなかったけれど、新たに出会った旦那様と娘さんに恵まれ、一緒にこの歌を聞いてくれていると知って本当に嬉しかった。
死を考えることは生を考えること。逃げずに向き合うことで前を向けるということ。
多分、、私は何も変に思い巡らせることなく、純粋に自分ごととして書いた歌だから、ちゃんと真意が伝わったのかなと思います。
何人かの友達が、子供に私の歌を聞かせると泣き止むと報告してくれたことがあります。
謎!だけど、「歌声が子供の泣き声みたい」って言われたことがあるから、周波数がちょうどいいのかな??
テーマがなんであっても、もっとその奥にある波動だけで感じ取ってもらえるなんて、嬉しいし興味深いなーと思いました。
「いいよ。」を書いた時の私が、それまでの人生で経験した身近な人の死は、二人。
私が中学生の時に亡くなったおじいちゃんと、ピアノの先生です。
二人の死を強く思いながら書いた記憶があります。
死はもちろん普遍的なテーマだけれど、今の時代にはどう響くんでしょうね、この曲。
配信が決まって、自分でも久々にじっくり聞きました。
いい曲だよね?笑






★追記8/21;
ジャケットのこととPVのことを書くのを忘れてました。
この丸いピアノは見るとびっくりされるのですが(ですよね)音は出ません。大道具です。
撮影当日、現場で鍵盤を大道具さんがセットしてくれたのを目の前で見ていて、とても楽しかったです。
この白鍵は、実は透明なんですよ。
ジャケットのデザインはタイクーングラフィックスさん。
ね、すっごいでしょ?!笑
ピアノ弾き語りで素朴だから「ナチュラル系」、みたいな捉え方は大嫌いだったので、タイクーンさんが歌を聞いて提案してくださったこのぶっ飛んだデザインはとても嬉しかったです。1stアルバムもそうだけど、今でもすごく好き。
後ろに写っている赤いメトロノームが欲しかったんだけど、気づいた時には倉庫が整理されて捨てられていて、残念でした。
もしもらっていたら、宝物だっただろうな。
今はデジタルメトロノームも、アプリもあるけど、アナログのメトロノームが一番いい。
拍と拍の間が目で見えるって、とても大事なことだと思うんです。音楽的だし。
時計もそうですよね。秒と秒の間の、確かにある時の流れを、自分の感覚から抜け落ちさせないこと。
話が逸れました。
ヘアメイクは中野明美さん。やはり当時から売れっ子で、今や神。
魔法のように魅力を引き出してくれるメイクで、鏡を見て本当にびっくりしました。
何をどう塗ったらこうなるんだ?!って。
当時はうまく話もできない子だったので、ちゃんとその感動を伝えられず、支離滅裂になってしまって、後悔したものです。
あ、今も別に話はうまくないけれど笑。
プロモーションビデオの撮影は、早朝でした。
池袋から引っ越して、梅ヶ丘のマンションに住んでいたのですが、マネージャーさんたちが車で迎えにきてくれて、3時くらいだったかな。
二子玉川の河川敷(広場かな?)に行って。
そこになんとグランドピアノをどーんと置き、ピアノは私ではなく男性のピアニストが弾いて、私は寝ぼけ眼で、確かサッカーゴールの前に置かれた椅子に座って歌いました。
だんだん明るくなってくると、散歩中の皆さんやワンちゃんたちに見られて、恥ずかしかった。
もうビデオテープ(データじゃなかったので)もどこに行ったかわからず、20年以上見ていないので記憶違いがあるかもですが。
PVの中で、大サビの「僕がつむいだ〜」のところは、撮影時の生歌だったんです。
PVはそこだけ音が差し替えられて。
あとで笹路さんがそれを見て「CDもそういう風にしたのかと思って、画期的だと思ったよ。」と言ってくださったのを覚えています。
でも声も起きてなくて眠そうだったし、私は、マジで、これで大丈夫なの?!と思った。それが生っぽくてよかったのかもしれないですけどね。
PVのデータ、どこかに残ってないかな。
っていうか、そういう大切なビデオテープの在り処もわからなくなっている私のずさんな管理。。
当時は自分の、特に過去になってしまったものを大切にすることができなかったのです。
雑誌の記事も、写真も、ほとんどとっていなくて。
捨ててしまって後悔したものも数知れず。
でも逆に、今みたいになんでもデータでとっておける方が幸せかというと、わからないですけどね。
そう言えば、レーベル名のアンティノスAntinosって、「アンチ・ソニー」(後ろから読むとソニー)ってことだったんですよ。
ソニーのレーベルだったけど。
若い社長だった坂西伊作さんは、PVの名監督でもあって。「いいよ。」の監督も伊作さんです。
のちに、50代の若さで、訃報を聞いた時には驚きました。
やっぱ探さなきゃダメだな、ビデオテープ。
歌詞や曲の話はもちろん、レコーディングのことや、その頃のことでふと思い出したことなど、徒然に。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
まずは、
1998年7月18日リリース
デビューマキシシングル タイトル曲「いいよ。」です。
配信特設サイトでは、ライターの兵庫慎司さんが、この曲のことを中心に素敵に紹介してくださっていますので、ぜひご覧ください。
初回なので、ちょっと長いですがお許しを。
「いいよ。」
作詞作曲歌:大塚利恵
編曲:土方隆行 大塚利恵
ストリングス編曲:笹路正徳
僕が消えた朝
天使の羽が生えて
鏡見て笑ったよ
似合わない おかしいね
行きつけの喫茶店
なつかしい保育園
仲良しの肉屋さん
あたたかい僕の家
かなわなかった願いさえも
切ない位同じ姿で
僕に手を振っているよ
悲しみは悲しみのまま
喜びは喜びのまま
僕だけがいない
僕が消えた朝
愛しいかけら達が
僕の手さえ握らず
泣いている気がした
聞き飽きたメロディーや
叱られた時の声
好きだった噴水の
思い出と水の音
恋人は恋人のまま
友達は友達のまま
僕だけがいない
僕がつむいだ
大切なかけら達が
僕と一緒に夢になるよ
かなえられた望みだけが
相変わらず僕を照らして
星のように舞っているよ
幸せは幸せのまま
優しさは優しさのまま
僕だけがいない
もう一度生まれ変わっても
僕はもう僕じゃないから
忘れてもいいよ
デビュー曲を選んだのは私ではなく、会社の会議で決まったんです。
当時の事務所フェイスと、アンティノスレコードのスタッフの皆さんで選んでくれたのだと思います。
私、自分のこともよくわかってない、会議とかとても出られないタイプの子だったので、呼ばれなかったのだと思います笑。
デビュー曲のテーマが「死」というのは結構攻めてたと思うけど、本当にこの曲でよかったと思います。
死を真剣に考えることは、生を真剣に考えること。
死を思いながら、生を目一杯描くこと。
私が一番大事にしてることだから。
「いいよ。」を書いたのは東京音大作曲科映画放送音楽コース1年生の時だったと思う。
池袋の、大学のすぐそばの音大生用マンションに住んでいました。
管理人のおじさんがすっごく変で、留守中部屋に入られたことがあったりして、2年で引っ越したんですけどね。
引っ越しの時にも、ゴミを置いて行かせてくれなくて、意地悪されたなあ。
当時、ソニーのプロデューサーさんのところに定期的に新曲を聞いてもらいに行っていて、音大の宿題も過酷だったので、徹夜ばかりしていて、大学の近くに住んでいたのはとても便利でした。
念願の一人暮らしで、自炊もやたら張り切っていて、マンションのすぐそばにあった肉屋さんでよくお肉を買っていたんです。
お弁当や惣菜の美味しいお店で、音大の友達もよく買っていたので、私が生肉を買うのを肉屋のおじさんは不思議に思っていたみたい。
その方が、歌詞に出てくる「仲良しの肉屋さん」のモデルです。
豪快で明るい、声の大きな肉屋さん。お元気かなあ。
この曲は、当時できたばかりだった「フレッシュネス・バーガー」で、ほとんどの歌詞を書きました。
東池袋が確か2号店だったのかな。衝撃の美味しさにハマってました。
家の近くだったから、よく早朝の誰もいない時間に行って、ベーコンオムレツバーガーをぱくつき、コーヒーが冷めたことにも気付かず、何時間も鼻息を荒くして書いていました。
私は、オリジナルソングの場合は、ほとんど歌詞を先に作ります。
かっちりではなく、ぐちゃぐちゃに思い浮かぶままに書いて、どこが出だしでどこがサビとかも全く決めずに。
テーマと対峙して、潜って潜って会話していくみたいに。
そして、ある程度手応えを感じたら、ピアノに向かって曲と同時進行で作ってゆきます。
例外もあるけど、ほとんどそのパターンです。
当時のマンションの部屋にはレンタルのアップライトピアノがあって、書きなぐった歌詞のメモを見ながら、コードとメロディを探していきました。
よく、特に昔の私の曲は「ファンタジック」と言われるのですが、確かにそういう表現が多い(この曲も天使の羽が生えますしね。)けれど、自分で意識していたわけではありません。
歌は「心のノンフィクション」だと思っているのですが、それを追求していくと、ファンタジックな方が表現しやすかったように思います。
現実って、そのまま書くと感情が抜け落ちたり、そのまま書いてるはずなのに全然違ったりするじゃないですか。
さて、私がソニーのオーディションを受けたのは93年、デビューは98年なので、ずいぶん時間がかかりました。
デビュー前に、実はものすごい時間と予算を使って、死ぬほどレコーディングしてたんです。
同じ曲を何度もやり直したり、違うアレンジ、違うミュージシャンで。もちろん、私の権限じゃないですよ笑。
その時のプロデューサーさんの試行錯誤だったので、私自身はもう何が何だかわからず言われるままだったんです。
私めちゃくちゃ耐性が強いので、辛かったけど受け入れて我慢しちゃったのだと思います。
もっとスルッと、10代でリリースした方が健全だったと思うのですが。
でも、誰かを恨むことはもちろん、しっかりしていなかった自分を責めることももうしないと決めています。
そういう自分だからこそ、作ることができた楽曲たちだと思うので。
そんなわけでノイローゼ気味でのデビュー笑。
あんまり、嬉しい!とか、やった!という感情はなかったと思います。
関わってくれる人、応援してくれる人への感謝を伝える余裕すらなかった。
病んでましたね、嫌な思いをさせた方がいたら、本当に申し訳なく思います。
デビュー前は、ソニーの出版社預かりの立場だったんですけど、レコード会社へのプレゼンライブがあって、10社か11社だったかな?すごくたくさん手をあげていただいて。
でも、色々諸事情ありまして(言えない話が多いから割愛(^^))
出版社の目の前にあった、同じソニーのアンティノスレコードからデビューが決まりました。
事務所も決まり、デビューに向け準備が進んでいたのですが、、
またまた、なかなか音源が仕上がらなくて。
ある日、事務所の社長さんに呼ばれました。
「ねえ、りえぞー、ちょっと気分転換にさ、違う人とレコーディングしてみる?」
「あ、、はい。」(朦朧)という感じで、デモテープを録るつもりでスタジオへ。
そこで録ったのが、そのままデビュー音源となりました。
騙されたのではなく笑、うまく誘導してもらえたと思っています。
いろんな人間関係が絡んでいたし、周りにいる誰をも失いたくなかった。そして流されるままの私一人ではどうにもならなかったと思います。
ディレクターをしてくれた熊谷さんは、同じ事務所の大先輩 エレファントカシマシのディレクターさんでした。
超多忙な中、いつも歌舞伎揚の袋を小脇に抱え、ものすごいスピードでキレッキレのディレクションをしてくれました。
でもすごく的確で、ありがたかった。
色々あったけれど、リリースしたものすべてを今でも心から誇れるのは、ほんと、熊さんのおかげが大きくて、感謝しています。
この曲のアレンジャーは、ギタリストの土方隆行さん。
クレジットを見てもらえればと思うのですが、すんごいメンバーのレコーディングで。
私は「これまた豪華なデモ録りだな〜」とぼんやり思っていました。
「いいよ。」だけじゃないんですが、私の曲のアレンジは、イントロ、間奏、曲中も、もともとピアノで弾いていたフレーズをそのまま取り入れて生かしてもらっているのがほとんどです。メインのフレーズに関しては。
でも、「いいよ。」のストリングスを初めて聞いた時は、わあ!っと思いました。
元の世界観はそのままに、笹路正徳さんが徹底的に感情に寄り添い、本当に素敵に膨らませてくださって。
特に間奏の、サワサワとクレッシェンド&デクレッシェンドするところがとっても好きです。
こんなアプローチがあるんだ、、と感激した記憶があります。
ストリングスの譜面をいただいて帰りました。
実は最初は、ストリングスは違うアレンジャーさんが書いてくださったんです。
でもレコーディングで実際聴いて、熊さんと目を合わせ、「違うね」となってしまって。
そういう時って、決してアレンジャーさんが悪いわけじゃないのだけど、(それだけは強調しておきたい)
何か、パズルのピースが違った!となってしまう時があるんですよね。
どうしようか、、となっていたその時、たまたま同じスタジオの別室でレコーディング作業をしていた笹路さんが、遊びにきてくださいました。
盟友の土方さん、熊さんもいたので、興味を持ってくださったのかも。
そこで「いいよ。」を聞いて、気に入ってくださいました。
「僕、書くよ。」とその場でスケジュール帳を開いて、予定入れてくださって。
そうして出来あがったのがこの曲です。
その後、笹路さんにも土方さん同様、がっつり関わっていただくことになったのですが、その話はまた他の曲の回で。
あと、歌詞の話ですが、「僕」という人称については、インタビューでかなり聞かれることが多かったです。
なぜ私が女性なのに「僕」なのか問題ですね。
他にも僕/君を使った曲は多々あります。
私/あなたのものもあります。
でも、正直あまり考えてそうしたわけじゃなかったと思います。
主人公の設定が変わるから、とかでもなく。(提供する歌詞ならそうなのですが)
曲やテーマがそれを求めたから、という感じかなあ。
でも、「私」でも「俺」でもなく「僕」が一番中性的で、人物の性に焦点が当たりにくく、テーマに集中できる、というのはあったかも。
当時は本当に、何も考えずに衝動に突き動かされて書いていたという感じでした。
そういえば、「いいよ。」には「君」が出てきません。
大切な存在は確かにいるのだけど、二人称が直接出てこない歌は意外と少ないかも。
「死」がテーマの、この曲を愛してくださっている方から、思いがけないお話を聞くことがあります。
昔、旦那様を事故で亡くした方。
私はそれを知らずに、彼女のヨガのクラスが好きで通っていたのですが、何年も経って再会して、初めてお茶をした時に打ち明けられたんです。
実はずっと辛くて辛くて、どうしていいかわからず生きていた時期があった。
この歌をもっと早く知っていればよかった、って。
本当に辛い別れをした方が、この歌をどう捉えるのかは私にははかりしれなかったけれど、新たに出会った旦那様と娘さんに恵まれ、一緒にこの歌を聞いてくれていると知って本当に嬉しかった。
死を考えることは生を考えること。逃げずに向き合うことで前を向けるということ。
多分、、私は何も変に思い巡らせることなく、純粋に自分ごととして書いた歌だから、ちゃんと真意が伝わったのかなと思います。
何人かの友達が、子供に私の歌を聞かせると泣き止むと報告してくれたことがあります。
謎!だけど、「歌声が子供の泣き声みたい」って言われたことがあるから、周波数がちょうどいいのかな??
テーマがなんであっても、もっとその奥にある波動だけで感じ取ってもらえるなんて、嬉しいし興味深いなーと思いました。
「いいよ。」を書いた時の私が、それまでの人生で経験した身近な人の死は、二人。
私が中学生の時に亡くなったおじいちゃんと、ピアノの先生です。
二人の死を強く思いながら書いた記憶があります。
死はもちろん普遍的なテーマだけれど、今の時代にはどう響くんでしょうね、この曲。
配信が決まって、自分でも久々にじっくり聞きました。
いい曲だよね?笑






★追記8/21;
ジャケットのこととPVのことを書くのを忘れてました。
この丸いピアノは見るとびっくりされるのですが(ですよね)音は出ません。大道具です。
撮影当日、現場で鍵盤を大道具さんがセットしてくれたのを目の前で見ていて、とても楽しかったです。
この白鍵は、実は透明なんですよ。
ジャケットのデザインはタイクーングラフィックスさん。
ね、すっごいでしょ?!笑
ピアノ弾き語りで素朴だから「ナチュラル系」、みたいな捉え方は大嫌いだったので、タイクーンさんが歌を聞いて提案してくださったこのぶっ飛んだデザインはとても嬉しかったです。1stアルバムもそうだけど、今でもすごく好き。
後ろに写っている赤いメトロノームが欲しかったんだけど、気づいた時には倉庫が整理されて捨てられていて、残念でした。
もしもらっていたら、宝物だっただろうな。
今はデジタルメトロノームも、アプリもあるけど、アナログのメトロノームが一番いい。
拍と拍の間が目で見えるって、とても大事なことだと思うんです。音楽的だし。
時計もそうですよね。秒と秒の間の、確かにある時の流れを、自分の感覚から抜け落ちさせないこと。
話が逸れました。
ヘアメイクは中野明美さん。やはり当時から売れっ子で、今や神。
魔法のように魅力を引き出してくれるメイクで、鏡を見て本当にびっくりしました。
何をどう塗ったらこうなるんだ?!って。
当時はうまく話もできない子だったので、ちゃんとその感動を伝えられず、支離滅裂になってしまって、後悔したものです。
あ、今も別に話はうまくないけれど笑。
プロモーションビデオの撮影は、早朝でした。
池袋から引っ越して、梅ヶ丘のマンションに住んでいたのですが、マネージャーさんたちが車で迎えにきてくれて、3時くらいだったかな。
二子玉川の河川敷(広場かな?)に行って。
そこになんとグランドピアノをどーんと置き、ピアノは私ではなく男性のピアニストが弾いて、私は寝ぼけ眼で、確かサッカーゴールの前に置かれた椅子に座って歌いました。
だんだん明るくなってくると、散歩中の皆さんやワンちゃんたちに見られて、恥ずかしかった。
もうビデオテープ(データじゃなかったので)もどこに行ったかわからず、20年以上見ていないので記憶違いがあるかもですが。
PVの中で、大サビの「僕がつむいだ〜」のところは、撮影時の生歌だったんです。
PVはそこだけ音が差し替えられて。
あとで笹路さんがそれを見て「CDもそういう風にしたのかと思って、画期的だと思ったよ。」と言ってくださったのを覚えています。
でも声も起きてなくて眠そうだったし、私は、マジで、これで大丈夫なの?!と思った。それが生っぽくてよかったのかもしれないですけどね。
PVのデータ、どこかに残ってないかな。
っていうか、そういう大切なビデオテープの在り処もわからなくなっている私のずさんな管理。。
当時は自分の、特に過去になってしまったものを大切にすることができなかったのです。
雑誌の記事も、写真も、ほとんどとっていなくて。
捨ててしまって後悔したものも数知れず。
でも逆に、今みたいになんでもデータでとっておける方が幸せかというと、わからないですけどね。
そう言えば、レーベル名のアンティノスAntinosって、「アンチ・ソニー」(後ろから読むとソニー)ってことだったんですよ。
ソニーのレーベルだったけど。
若い社長だった坂西伊作さんは、PVの名監督でもあって。「いいよ。」の監督も伊作さんです。
のちに、50代の若さで、訃報を聞いた時には驚きました。
やっぱ探さなきゃダメだな、ビデオテープ。