名古屋するめクラブ

~名古屋発くうみるあそぶ~

司馬遼太郎著 「街道を行く ~韓(から)のくに紀行~」

2007年05月17日 23時01分50秒 | 読む

「現在のこの国をゆくことは、はげしく怒号する韓国紳士のごとき人がそうであるばかりでなく、眼にふれるさまざまな風物が、かつての日本の侵略を思わすと共に、今の厳しい関係を考えさせる、苦しく、せつない旅である。」

先生が韓国を訪れたのは、1971年。「租をたずねゆく旅」。まだまだ日本に対し、「無限の不快さと怨恨」があふれる時代。

旅中盤で立ち寄った慶州・仏国寺近く、掛陵(けりょう)という古墳を訪れた際、たまたま『野遊び』に来ていた「白い韓服を着た7人の老農夫」に出会う。老農達は、韓酒を囲み輪になって座り、1人ずつ立ち上がっては、体で拍子をとりつつ即興の詩を歌う。日本の万葉人がそうであったように、口をついた詩を詠い、それを受け他の者が詩を詠いつないでいく。

息をのむ程美しい掛陵の前で太古そのままの風貌を持った老農が詩を歌う姿に、「上代にまぎれこんだ」ような錯覚を覚えた一同に、最長老の翁が、口ひげの間から絶え間なくきれいな笑い声を上げ、唯一彼の知る日本語で話しかけた。

「イルボン(日本)、ウレシイ。」

その瞬間、司馬先生は「危うく涙がこぼれそうに」なる。

33年後の2004年1月、ようやく韓国で日本文化(映画・CD)が全面開放される。それに伴いゴスペラーズも、「音楽を通じ日韓の文化交流促進に一翼を担う」べく訪韓、プロモーションを行う。

全イベント終了後、号泣したリーダーの村上君。

果たして涙の意味は何だったのか?

リーダーの涙と、司馬先生の涙。

「せつない旅」の後の「熱い」涙?

「中世以来国家というこの対外的拒絶反応のみが強い存在が人間を支配するようになってから、人間どもの世界意識がゆがみ、特に東アジアにあっては、朝鮮と日本が妙なものになったが、『国家』という面倒なものがないに等しかった古代を、われわれはこの洋上の街道(博多湾~釜山)をゆくとき懐かしまざるを得ない。」

街道をゆく (2)
朝日新聞社
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PS.博多から釜山までカーフェリーで行って、持ってった日本車でそのまま韓国を旅できるらしいけど、ほんと?誰か、一緒に試してみない(笑)?