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『唯識(下)』多川俊映、第10回 第八阿頼耶識をめぐって②:「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識することだ!

2023-02-06 11:09:31 | 日記
『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第10回 第八阿頼耶識をめぐって②
(20)-5 「受」の心所について、第八識に相応するのは「捨受」であり、認識の対象つまり《一切の種子(シュウジ)群、有根身(ウコンジン)(身体)、その受け皿の器界(自然・環境)》をただそのまま「それは、そういうものだ」と受けとめる! 
E  第六意識(「わが心」)はほとんどコトバと連動する。また第六意識という心王(心の主体;識体)に相応する心所(心のはたらき)は、五十一心所のすべてだ――つまり善と不善という矛盾するものが同居する複雑怪奇なものだ。(80頁)
E-2  これに対し(根本識体の)第八阿頼耶識という心王に相応する心所は、五十一心所のうちもっとも基本的な「遍行」の五心所だけだ。(80頁)
E-2-2 「遍行」の五心所:(1)触(ソク)「心を認識対象に接触させる」、(2)作意(サイ)「心を起動させる」、 (3)受(ジュ)「認識の対象を苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める」、 (4)想(ソウ)「受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる」、(5)思(シ)「認識対象に具体的に働きかける」。(80頁)
E-2-3 この中の(3)「受」の心所について、第八識に相応するのは「捨受」であり、認識の対象つまり《一切の種子(シュウジ)群、有根身(ウコンジン)(身体)、その受け皿の器界(自然・環境)》をただそのまま「それは、そういうものだ」と受けとめる。Cf. これに対しわが心の第六意識の「受」は、自己の身体や相貌について苦とか楽、憂とか喜などと受けとめるので、何かと悩ましい。(80-81頁)

《感想》 (1) 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」は、小宇宙としての「モナド」である。「本識」たる第八阿頼耶識は(a)「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)(※知識在庫)のみでなく、(b)有根身(ウコンジン)(身体)も(c)「器界」(自然など)も、《そのもの》として含む。つまり多くのモナド(八識という構造を持つ「心王」)が存在し、それぞれが小宇宙であり、それらモナド(小宇宙)(八識という構造を持つ「心王」)は《触覚の世界としての「物」(身体を含む)の領域》をも、つまり《 (b)有根身(ウコンジン)(身体)と(c)物世界としての「器界」(自然など)》をも、《そのもの》として含む。
《感想(続)》(2) なお《 (c)物世界としての「器界」(自然など)》および《「器界」にとりまかれた(「物」であるかぎりでの)(b)有根身(ウコンジン)(身体)》は、多くのモナド(小宇宙)に同一の共有されたものとして、それぞれの小宇宙つまりそれぞれの「モナド」(八識という構造を持つ「心王」or超越論的主観性)のうちに《そのもの》として出現する。

E-3  識体の心王(心の主体)とそれに相応する心所(心のはたらき)の関係については、心王は認識対象の「総相」(ソウソウ)(概要、大体)をとり、心所はその総相に加えて「別相」(ベツソウ)をとって、認識の精度を高める。(81頁)
E-3-2 「総相」と「別相」は、古来、絵屋の親方と弟子の関係に例えられる。「総相」(心王)が親方で大まかな構図・構想を示し、「別相」(心所)が弟子で、親方の指揮の下、細部を仕上げていく。(81-82頁) 

(20)-6 第八識(心王)が、触(ソク)(心を認識対象に接触させる)および作意(サイ)(心を起動させる)の心所と相応して、有根身および器界(自然・環境)を生じさせる!ここに、第八阿頼耶識は有根身および器界を認識の対象とする!  
F   第八阿頼耶識(※超越論的主観性)は、(a)「種子」(シュウジ)(過去の行為行動の情報・残存気分)(※類型的知識の在庫)、(b)「有根身」(ウコンジン)(身体)、(c)「器界」(器世間)(有根身の受け皿;自然など)を所蔵(管轄)する深層の根本識体だ。(82頁)
F-2  なお有根身の「根」とは五識(眼ゲン・耳ニ・鼻ビ・舌ゼツ・身シン)に対応する五つの感覚器官(五根)のことで、「有根身」とは五根を有する身体のことだ。(82頁)
 
《参考1》根本識体の第八阿頼耶識という心王に相応する心所は、五十一心所ののうちもっとも基本的な「遍行」の五心所、(1)触(ソク)・(2)作意(サイ)・(3)受(ジュ)・(4)想(ソウ)・(5)思(シ)だけだ。(80頁)
《参考1-2》「遍行」の五心所:(1)触(ソク)「心を認識対象に接触させる」、(2)作意(サイ)「心を起動させる」、という心所、(3)受(ジュ)「認識の対象を苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める」、という心所、(4)想(ソウ)「受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる」、(5)思(シ)「認識対象に具体的に働きかける」。(80頁)
《参考2》この(5)「思(シ)」の心所の具体的な内容が、②「別境」(ベッキョウ)(5心所)、③「善」(11心所)、④「煩悩」(6心所)、⑤「随煩悩」(ズイボンノウ)(20心所)、⑥「不定」(フジョウ)(4心所)の、46心所のはたらきだ。(上130-131頁)

F-3   第八識(心王)が、触(ソク)(心を認識対象に接触させる)および作意(サイ)(心を起動させる)の心所と相応して、「有根身」を生じさせる。同時に有根身を取り巻く受け皿の「器界」を生じさせる。(82頁)
F-3- 2 ここに、第八阿頼耶識は「有根身」および「器界」(自然・環境)を認識の対象とする。(82頁)《感想》「認識の成立」において、「相分」は《そのもの》として「現象」している。

《感想1》 (1) 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」は、小宇宙としての「モナド」である。「本識」たる第八阿頼耶識は(a)「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)(※知識在庫)のみでなく、(b)有根身(ウコンジン)(身体)も(c)「器界」(自然など)も、《そのもの》として含む。つまり多くのモナド(八識という構造を持つ「心王」)が存在し、それぞれが小宇宙であり、それらモナド(小宇宙)は《触覚の世界としての「物」(身体を含む)の領域》を、つまり《 (b)有根身(ウコンジン)(身体)と(c)物世界としての「器界」(自然など)》を、《そのもの》として含む。
《感想1-2》(2) なお《 (c)物世界としての「器界」(自然など)》および《「器界」にとりまかれた(「物」であるかぎりでの)(b)有根身(ウコンジン)(身体)》は、多くのモナド(小宇宙)に同一の共有されたものとして、それぞれの小宇宙つまりそれぞれの「モナド」(八識という構造を持つ「心王」or超越論的主観性)のうちに《そのもの》として出現する。
《感想2》E. フッサールは『デカルト的省察』第55節「モナドの共同化と、客観性の最初の形式としての相互主観的自然」において、「動物」は「人間性(※「超越論的主観性」としての人間)の・・・・変様態」であると述べている。
《感想2-2》おそらく、すべての生命が「識体」(心)(※超越論的主観性)である。細菌の「識体」、植物の「識体」、動物の「識体」も考えうる。なお無生物は「識体」でない。
《感想2-3》「識体」(心)(※超越論的主観性)においては、世界(宇宙)そのものが「現象」=「自体分」として出現し、それが「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化し、認識が成立する、つまり意識化される。つまり「認識の成立」において、「相分」は《そのもの》として「現象」している。
《感想2-4》「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」=「自体分」である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ。「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものだ。

《参考1》(16)認識の仕組み「四分(シブン)義」:未分化の識「自体分」が、認識される「相分」と 認識する「見分」に分化し、「自証分」が認識の成立を自覚し、さらにそれを再確認するのが「証自証分」だ!
M  このように日本の唯識仏教である法相宗は認識の仕組みを「四分(シブン)義」に基づいて説明する。「四分」は心の4つの領域で、「相分ソウブン」「見分ケンブン」「自証分ジショウブン(自体分ジタイブン)」「証自証分ショウジショウブン」である。(上110-111頁)
M-2  唯識仏教は「識のはたらき」(認識の成立)をこれら4つの要素によって考察する。(上110-111頁)
M-2-2  この四分(4つの要素)は、八識の心王(識体)それぞれに、またそれらに相応する心所にもある。(上111頁)
M-2-3-2 未分化の心王(識体)(「自体分」)が、認識される領域の「相分」(※ノエマ)と 認識する領域の「見分」(※ノエシス)に分化し、いちおう認識の成立を見る。(上111頁)[感想]「認識の成立」において、「相分」は《そのもの》として「現象」している。
M-2-3-3 そして「自体分」はその認識の成立を自覚する。これが「自証分」である。(上112頁)
[感想]「自証分」はフッサールにおける「受動的なレベルで行なわれている総合(受動的総合)」に相当する。
M-2-3-4 その「自証分」のはたらきを、さらに自覚し再確認するのが「証自証分」だ。(上113頁)
[感想]「証自証分」はフッサールにおける「能動的なレベルで行なわれている総合(能動的総合)」に相当する。

《参考2》「対象は、受動的経験の総合の中で、《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている。対象は、能動的把握作用とともにはじまる《精神的な》はたらきに対して,既成の対象として、あらかじめ与えられている。」(E. フッサール『デカルト的省察』第38節「能動的発生と受動的発生」中央公論社『世界の名著51』259頁)
[感想1]「心」(※超越論的主観性)において「対象」(もの・ことがら)は「《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている」。これは言い換えれば、「対象」《それ自身》が「心」(※超越論的主観性)において出現するということだ。「心」(※超越論的主観性)において出現するこの「対象」《それ自身》が「現象」と呼ばれる。
[感想2]この「心」(※超越論的主観性)において「現象」として「《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられ」る「対象」(もの・ことがら)の意味的規定=意味構成物(※ノエマ)(「相分」=「影像ヨウゾウ」)は、「心」(※超越論的主観性)の受動的総合と能動的総合によって構成される。

(20)-7 第八阿頼耶識は有根身および器界を認識の対象とする!物質である肉体(「有根身」ウコンジン)も絶えず変化し、ついに老病死の終末となる!「有根身」が消え去れば、身(シン)識は消え、触(ソク)境(キョウ)(「物」あるいは「物世界」)は認識対象でなくなるつまり《そのもの》として「現象する」ことがなくなる! 
F-3-3  第八阿頼耶識は有根身および器界(自然・環境)を認識の対象とすると、それ以降、いわゆる寿命のある限りは、第八阿頼耶識は無間断(ムケンダン)に(とぎれなく)、接触(「触」ソク)・起動(「作意」サイ)し続け、また「受」(捨受)(苦でも楽でもなく、また憂でも喜でもなく、ただそのまま大きく受け止める)・「想」(受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる)・「思」(シ)(認識対象に具体的に働きかける)の三心所もそれぞれはたらき続ける。(82-83頁)
F-3-3-2 しかし物質である肉体(「有根身」ウコンジン)も絶えず変化し、ついに老病死の終末となる。(83頁)
F-3-3-3 「有根身」(ウコンジン)の死とは、「(※識体である)第八識およびそれに相応する心所」がその「はたらきを止める」ことだ。(83頁)
F-3-3-4 かくて《「有根身」と「器界」》(※したがって「物」および「物世界」)は、認識対象でなくなる。(※《そのもの》として「現象」することがなくなる。)(83頁)

(20)-8 「有根身」の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)(《本識》である第八阿頼耶識)の消滅も生じる!「意識」の感覚器官(「意根」)は「有根身」における「脳神経」である!(評者の見解)
《感想1》「有根身」の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)(《本識》である第八阿頼耶識)の消滅も生じる。(評者の見解)
《感想1-2》そもそも《「物」あるいは「物世界」》(触境ソクキョウ)は、身(シン)根と不可分だ。身根と触(ソク)境(キョウ)が相互に触れあうことによって、身根と触(ソク)境の境界面に「物」が出現する。「有根身」の消滅は、同時に《「物」あるいは「物世界」》(触境を根本とする前五識の境の世界)の消滅だ。
《感想1-3》唯識仏教は、感覚器官(五根)がない意識を「第六意識」と呼ぶ。「第六意識」は倶舎仏教では、単に「意識」と呼ばれる。「意識」(「第六意識」)の認識対象は「法(ホッ)境」である。「法」とはものごと・ことがらであり、「意識」の認識対象は、「五識」のように感覚器官(感官)によって限定されない。あらゆること(一切法)を広く認識しうるし、かつ現在のみならず、過去にさかのぼり、未来を展望する。(上46頁)(※第六識は「広縁の識」だ!)
《感想1-3-2》「意識」の感覚器官(「意根」)といっても、実は「意識」(心)には感覚器官がないので、多川俊映師は、端的に「現代風には『意根』とは脳神経かもしれない」と言う。(上46頁)
《感想1-3-3》「有根身」の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)(《本識》である第八阿頼耶識)の消滅も生じる!「意識」の感覚器官(「意根」)は「有根身」における「脳神経」である!(評者の見解)

《参考1》(唯識を体系化する以前の)世親(ヴァスバンドゥ)が著わした『倶舎(クシャ)論』!
I-4 倶舎仏教は「心」が、心の主体(「心王」)(※主観性)と心のはたらき(「心所」)によって、つまり「心心所」(シンシンジョ)によって、「対象」のいかなるものであるかを認知すると考える。(上43-44頁)
I-4-2  倶舎仏教は「心王」(※主観性)を「六識」(※6領野の主観性)とする。(上45頁)
I-4-2-2 「六識」は根(感覚器官)と境(認識対象)の違いによって、眼(ゲン)識(眼ゲン根・色シキ境)、耳(ニ)識(耳ニ根・声ショウ境)、鼻識(鼻根・香境)、舌識(舌根・味境)、身(シン)識(身根・触境ソクキョウ)(※唯識の前五識に相当する)、さらに意識(意根・法ホッ境)(※唯識の第六意識に相当する)からなる。(上45頁)
I-4-2-3 「意識」の感覚器官(「意根」)といっても、「意識」(心)には感覚器官がない。かくて倶舎仏教は、現在の《認識の直前に滅した眼識ないし意識》を「意根」とみなした。(現代風には「意根」とは脳神経かもしれない。)(上46頁)
I-4-2-4 「意識」の認識対象は「法(ホッ)境」であるが、「法」とはものごと・ことがらの意味である。「意識」の認識対象は、「五識」のように感覚器官(感官)によって限定されるものでない。あらゆること(一切法)を広く認識しうるし、かつ現在のみならず、過去にさかのぼり、未来を展望する。(上46頁)(※第六識は「広縁の識」だ!)
I-5  倶舎論(倶舎仏教)の「心」(六識)の「対象」(「境」キョウ)は、いずれも外界に実在するものである。(上46頁)
I-5-2  倶舎論においては、認識の成立は、まず外界に実在するものがあり、それを私たちの「六識」という「心」が認めるという順序だ。(上47頁)
J 唯識仏教は認識の仕組みに関し、外界実在論を否定する。(上47頁)

《参考2》世親『唯識三十頌(ジュ)』は、「六識」(五感覚の「前五識」と自覚的な「第六意識」)を表面領域とし、その意識下にうごめく自己愛・自己中心性を「第七末那識」(マナシキ)と名づける。そして「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として、最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)を配置し、私たちの心を重層的に捉える。つまり世親は「阿頼耶識(アラヤシキ)縁起」(頼耶縁起)(ラヤエンギ)を提唱した。私たちは、私たち一人ひとりの「心のはたらき」(「心所」)によって知られたかぎりの世界に住む!(21-22頁)

(20)-9 「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ!「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものだ!(評者の見解)
《感想2》「識体」(心)(※超越論的主観性)とは、すなわち、「現象」としての世界(宇宙)《そのもの》(「自体分」)が、「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化する、これが認識の成立、意識化、意識の成立である。「自体分」はその認識の成立を自覚する。これが「自証分」である。(上112頁)「自証分」はフッサールにおける「受動的なレベルで行なわれている総合(受動的総合)」に相当する。
《感想2-2》「自証分」のはたらきを、さらに自覚し再確認するのが「証自証分」だ。(上113頁)証自証分」はフッサールにおける「能動的なレベルで行なわれている総合(能動的総合)」に相当する。
《感想2-3》その「自証分」のはたらきを、さらに自覚し再確認するのが「証自証分」だ。(上113頁)「証自証分」はフッサールにおける「能動的なレベルで行なわれている総合(能動的総合)」に相当する。

《感想3》おそらく、すべての生命が「識体」(心)(※超越論的主観性)である。細菌の「識体」、植物の「識体」、動物の「識体」、人間の「識体」が考えうる。無生物は「識体」でない。
《感想3-2》「識体」(心)(※超越論的主観性)とは、世界(宇宙)そのものが「現象」として出現し(「自体分」)、それが「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化し、認識が成立する、すなわち意識化が生じる、意識の成立という出来事そのものだ。
《感想3-3》「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ。「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものだ。
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『唯識(下)』多川俊映、第9回 第八阿頼耶識をめぐって①(続):種子(シュウジ)は未来の自己を作り出す!「有漏(ウロ)種子」と「無漏(ムロ)種子」!「俱生神」(グショウシン)!「浄頗梨の鏡」!

2023-02-03 17:21:06 | 日記
『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第9回 第八阿頼耶識をめぐって①(続)
(20)-2 種子(シュウジ)は「生果(ショウガ)の功能(クウノウ)」といわれる!また「種子生現行(シュウジショウゲンギョウ)」であり、今日と明日、そして未来の自己を作り出す!
D  種子(シュウジ)は「生果(ショウガ)の功能(クウノウ)」といわれる。また「種子生現行(シュウジショウゲンギョウ)」のフレーズで示されるように、種子(シュウジ)は自果を生ずる因、つまり今日と明日、そして未来の自己を作り出すものだ。(62頁)
D-2  種子は「本識(ホンジキ)(※第八阿頼耶識)中の自果を生ずる親因(※主要な原因)」である。(65頁)

《参考1》「種子」(シュウジ)はファイルされた過去の行動情報であるだけでなく、その後、類似の行動(「現行」)を生み出す潜勢力である。これが「生果(ショウガ)の功能」である。(功能とははたらきの意。)(41頁)
《参考1-2》 種子が現行を生起させる過程は「種子(シュウジ)生(ショウ)現行(ゲンギョウ)」と言われる。(41頁)
《参考1-3》 ただし因としての「種子」(シュウジ)が「現行」(ゲンギョウ)という果を生む(「種現因果」シュゲンインガ)といっても、「種子」にはたらきかける「衆縁(シュエン)」(さまざまな要素や条件)が整わなければ、「種子」は「現行」化しない。(これを「待衆縁」タイシュエンと言う。)(42頁・44-45頁)

《参考2》第八阿頼耶識は、日常の行動(現行)の情報(のすべて)を(一切)種子(シュウジ)として保持する「一切種子識」である。(40頁)
《参考2-2》そして「現行」がその種子を第八識に送り込む心的メカニズムが、「現行熏種子」(ゲンギョウクンシュウジ)と呼ばれる。(41頁)

D-2-2  「種子」(シュウジ)に関する心的機制(メカニズム)は「種子生現行(シュウジショウゲンギョウ) 現行熏種子」(ゲンギョウクンシュウジ) 三法展転(サンボウチンデン) 因果同時」といわれる。(69頁)
D-2-2-2 「三法」(3つのもの)とは①「種子」、②「現行」、③「種子」である。一連の心の動き(展転)の中、第一法(①種子)と第三法(③種子)はなにほどか相異する。(69-70頁)

D-3  「諸行無常」・「諸法無我」だから、種子(シュウジ)も第八阿頼耶識の中で「種子生(ショウ)種子」と消滅変化を繰り返す。ただしその消滅変化の中で、種子はその性質が《一類に相続》される。つまり第八識に送り込まれた種子は経年劣化しない。(64-65頁)
D-3-2  ただし、こうした種子(シュウジ)は「阿羅漢位捨」(阿羅漢の位に捨す)(世親『唯識三十頌(ジュ)』)と言われる。つまり阿羅漢という清浄な境地に至れば、種子(シュウジ)は消滅する。(65頁)
D-3-2-2 なお阿羅漢とは《自己愛に徹する第七末那識》を滅し、自我に対する執着を除去した清浄の境地に至った人のことだ。(65頁)

(20)-3 「有漏(ウロ)種子」と「無漏(ムロ)種子」:「本有」(ホンヌ)か「新熏」(シンクン)か?
D-4  鎌倉時代の解脱上人貞慶(ジョウケイ)(1155-1213)は『愚迷発心集』(グメイホッシンシュウ)の中で「善は 嬾 (モノウ)く悪は好ましく、名を求め利を貪(ムサボ)る」(善いことは気が進まず、悪いことはたちまち実行、名誉・評価をひたすら求め、利をひたすら求める)と日常生活について述べる。(67頁)
D-4-2  「不善心に誘導された愚迷の状況」また「不善の煩悩」は、「漏」(ロ)または「有漏」(ウロ)という。(68頁)
D-4-3  この日常では「種子」(シュウジ)も「現行」(ゲンギョウ)も概ね、「有漏」(ウロ)である。(68頁)
D-5  だが仏教の唯識説の立場が求めるのは「有漏といういわば汚れた日常」からの「離脱」だ。めざすべきは「覚(サトリ)」の境地だ。(68頁)
D-5-2  かくて「有漏(ウロ)種子」でなく「無漏(ムロ)種子」というものがめざされる。(68頁)
D-5-3  「有漏」・「無漏」の2種子について、「本有」(ホンヌ)(私たちの中に本来備わったもの)か「新熏」(シンクン)(行為の変容などによって新たに熏習クンジュウされたもの)なのか古来、さまざまに論じられてきた。(68頁)

《参考》「種子(シュウジ)」は、過去の行為・行動(「現行」ゲンギョウ)の情報(印象・気分なども含む)が深層の第八意識に送り込まれ・植え付けられ・蓄積されたものだ。この心的メカニズムは「熏習」(クンジュウ)(移り香)と呼ばれる。(34-35頁)
《参考(続)》こうした過程は「現行熏種子(ゲンギョウクンシュウジ)」と呼ばれる。「現行」(ゲンギョウ)は済めばその「種子」(シュウジ)(行動情報)を第八阿頼耶識に「熏習」(クンジュウ)する。第八阿頼耶識には「種子」(シュウジ)がプールされる。かくて第八識は「一切種子識」とも言われる。(35頁)

D-5-4 法相宗(ホッソウシュウ)は、「有漏」・「無漏」の2種子について、護法論師(530-561)の《「本有」(ホンヌ)もあり「新熏」(シンクン)もある》との折衷説を採用している。

(20)-4 第八阿頼耶識の具象化:「俱生神」(グショウシン)!閻魔王庁の「浄頗梨(ジョウハリ)の鏡」(「浄玻璃の鏡」)!
D-6  貞慶(ジョウケイ)(1155-1213)は『愚迷発心集』(グメイホッシンシュウ)の中で「浄土」は特定の場所でなく、求めるべきは「わが心の浄(土)化」だと言う。これは「唯心浄土」と呼ばれる。(72頁)
D-6-2 これに対し西の方角などを指さして、その彼方に理想世界を想定する浄土観を「指方立相(シホウリッソウ)の浄土」という。(72頁)
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映画『ドライブ・マイ・カー』(2021、日本):「音を責めるべきだった。やり過ごしてはいけなかった」、「僕は強くなかったので、音を責めなかった」、「今、音に会いたいが、もう遅い」と家福が言う!

2023-02-02 19:32:57 | 日記
 村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」に収録された短編「ドライブ・マイ・カー」を濱口竜介監督・脚本により映画化。
(1)
《家福悠介(カフク・ユウスケ)》は、成功した俳優・舞台演出家。妻の《音(オト)》も脚本家。二人には娘がいたが、幼いころ肺炎で亡くし、以後は二人だけで暮らす。
(2)
夫婦の間には二人だけの習慣があった。一つは家福が舞台の台詞を覚えるときの方法:家福は、相手役の台詞部分だけを音がカセットテープに録音し、それに自分の台詞で答えながら愛車「サーブ900ターボ」の中でテープを聞き台本を覚えてゆく。もう一つの習慣は、夫婦のセックスの最中、音が頭に浮かぶ物語を語り、家福がそれを書きとめ音の脚本作りに活かすこと。この二つの習慣は、子供を失ったあとずっと続く。
(3)
ある時、家福が空港から家に戻ると、妻の音は、居間のソファで誰かと激しく抱き合っていた。(妻の不倫・情事。)それを見た家福は物音を立てぬよう、そっと家を出た。
(4)
家福はこれまでの夫婦の生活を守ることを優先させた。音は家福が情事を目撃したことを知らず、家福も音の情事を目撃したことを明かさなかった。自動車の中で台本を暗記する習慣も、変わらず続いた。いま家福が取り組んでいるのは、チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』。家福は「仕方ないの、生きていくほかないの。…長い長い日々と、長い夜を生き抜きましょう」というチェーホフの台詞を聞き続ける。
(5)
そしてある日、音が急死する。それは音から「帰宅したら話したいことがある」と言われた日の夜だった。死亡診断書は「クモ膜下出血」だった。《感想》音はおそらく自分の情事を告白する意図だった。だが彼女はやりきれなくなって自殺したのかもしれない。 
(6)
二年後。ワーニャを演じ名声を得た家福は、舞台演出家として広島で行われる国際演劇祭へ招聘される。自分で車を運転し広島へ着いた家福は、事務局から「事故のトラブルを避けるため、専属のドライバーをつけさせてほしい」という申し出を受ける。やってきたドライバーが《渡利みさき》だった。こうして、みさきの運転するサーブで家福が劇場へ通い、車内で『ワーニャ伯父さん』のカセットテープが流される日々が始まった。
(7)
オーディションには日本のほか、台湾・フィリピンなど各国から俳優が集まった。『ワーニャ伯父さん』で重要な役割を果たす「ソーニャ」は韓国から参加した《イ・ユナ》で、耳はきこえるが台詞は手話を使う俳優だった。
(8)
ワーニャ役に、家福は《高槻耕史》を選出した。高槻は、音が脚本を書いた作品にも出演していた若い俳優で、家福は妻の情事の相手が高槻ではないかと疑っていた。高槻は過去に音に連れられて家福の出演した『ゴドーを待ちながら』を観劇し深い感銘を受けたので、高槻は、オーディションの告知を見て即座に応募したという。
(9)
家福は高槻への感情を押し殺し、多国語での稽古が始まる。俳優たちは風変わりな演出と、台本を棒読みさせるだけの稽古にとまどうが、しかし次第にお互いの感覚が鋭敏さを増してゆくと感じる。
(10)
渡利みさきが運転する車で、家福は宿舎と劇場を往復する。走る車の中で、音が吹き込んだチェーホフの台詞「真実はそれがどんなものでもそれほど恐ろしくない。いちばん恐ろしいのは、それを知らないでいること…」が響きつづける。
(11)
車での移動がつづくうち、寡黙だった渡利みさきが、家福にこれまでの人生を語る。みさきは北海道の小さな集落で、母親一人に育てられた。水商売をしていた母親は、中学生のみさきに車を運転させ仕事場へ通った。しかし、あるとき大雨で地滑りが起き、自宅が土砂に呑み込まれ母親は亡くなった。一人になったみさきはあてがないまま、車で家を離れ、ひたすら西をめざした。たまたま車が故障した広島で、そのまま新しい生活を始めた。
(12)
ある時、家福は、高槻に夫婦の秘密を明かす。「妻の音には、別に男がいた。音との日々の暮らしは、とても満ち足りたものと自分は思っていた。しかし妻は夫を裏切っていた。夫婦は誰よりも深くつながっていたのに、妻の中には夫が覗き込むことのできない『黒い渦』があった。」さらに家福は「音はドラマの主人公たちと次々と情事を繰り返していたかもしれない」と言う。
(12)-2
かつてワーニャ役で名声を得ながら俳優としてのキャリアを家福が中断したのは、「チェーホフの戯曲が要求する《自分を差し出すこと》に耐えられなくなったからだ。」家福は、そう高槻に話した。
(13)
この告白をきいて、《高槻》も《音(オト)》から聞いた物語を語る。それは、音がセックスのさなかに語った物語の続きだった。しかし、《家福》が知っていたより陰惨で不思議な内容だった。「恐ろしいことが起きたのに、しかもそれは自分の罪なのに、世界は穏やかで何も変わっていないように見える。でも実はこの世界は禍々しい何かへと、確実に変わってしまった。」
(14)
演劇祭は準備期間を終え、ようやく劇場での最終稽古が始まった。しかし高槻が上演直前になって舞台を去った。高槻が傷害致死で逮捕されたのだ。事務局は家福に「すべてを中止する」か、あるいは「家福が高槻のワーニャ役を引き継いで上演する」かの選択を迫る。猶予は二日間。
(15)
大きな衝撃を受ける家福。「どこか落ち着いて考えられるところを走りたい」と家福。そして渡利みさきに、家福は「君の育った場所を見せてほしい」と伝える。みさきは休みなく車を走らせ、二人は北海道へ向かう。
(16)
やがて、車の中で家福は妻の情事について、みさきに語った。みさきは黙って聞いていた。やがて、かつてみさきが住んでいた生家の跡地に着き、静まりかえる雪原の中に立ったとき、家福は「妻から大きな傷を受けた」のに自分がそれに目をそむけてきた事実を直視した。
(17)
その時、「わたし、母を殺したんです」とみさきが言った。「私は母を見捨てた。助けを呼びに行かなかった」とみさき。家福が「君は悪くない」と言った。
(17)-2 
みさきがさらに語る。「母には別人格があった。少女の『さち』だ。母が私に暴力をふるった時に限って、母の中から別人格の『さち』が現れた。わたしは『さち』と遊び、『さち』は自分のたった一人の友達となった。『さち』は母の精神の病いであり、あるいは同時に母の願望だった。それは母が地獄を生きるすべだった。」「あの地滑りの日、私は『さち』を失うのを知っていたが、母を助けなかった」とみさきが言った。
(18)
音の情事につて、「音さんは矛盾しない。」「家福を愛し、同時に他の男性も愛したはずだ」とみさきが言った。
(18)-2
「僕は、音を責めるべきだった。やり過ごしてはいけなかった。」「僕は強くなかったので、音を責めなかった。」「今、音に会いたいが、もう遅い」と家福が言った。
(18)-3
「生き残った者は死んだものを考え続ける。そうやって生きていく」と家福がみさきに言う。「ぼくたちは大丈夫だ」と家福がみさきをハグする。

※タイトルの「Drive My Car」(ビートルズの楽曲名)は「性交」の意を持つ古いブルースの隠語で、ポール・マッカートニーも古いブルースの隠語として使用したことを明かしている。

《感想1》原作者の村上春樹氏は「他人を全部知ることは出来ない」ことが問題だと主張する。
《感想1-2》だが「他人を全部知ることは出来ない」のは当然であって、問題ではない。「他人を全部知る」ことを求めるのは高慢・傲慢・僭越だ。「他人を全部知る」ことが出来なくても、それがそれでいいのだ。問題ではない。
《感想1-3》もし愛する「他者」なら、その「他者」が喜び・嬉しさを「表現」すれば、そしてそのように「表現」した「他者」を知って自分が喜び・嬉しいなら、それがその状況において「他者を全部知った」ことに相当する。
《感想2》みさきが「煙草」を吸う。煙草を吸うのが「かっこよかった」時代だ。
《感想3》「生きることの意味」を家福(or村上春樹氏)は、深刻に考える。
《感想3-2》だが「生きることの意味」をそんなに深刻に考える必要などない。
《感想3-3》まず「人並みに食べて」いければ、あるいは「人並みに生活して」いければ、それでいいのだ。人生の最大の問題は、大方のひとびとにとって、いかに「人並みに食べていけるか、人並みに生活していけるか」だ。「家福も音も食べていける」!たいていは、それだけで十分なはずだ。
《感想3-4》この世に生まれてきたのは「運命」であり、運命に理由はない。この世は「幻」にすぎない。「生きること」は、「運命」として生じた「幻」だ。この「幻」は意味なく生じた。「意味なく」生じた「運命」の「幻」に関して、それ以上「生きることの意味」を問うことは、無用だ。「人並みに食べ、人並みに生活できる」ことで「幻」は十分「幸福な幻」だ。家福(or村上春樹氏)は欲深い。
《感想4》「女房(女)の浮気が分かったら、別れる。」それが夫(男)としては一番わかりやすい。もし家福のように「妻(「音」)が好きなら、妻を《許し》、別れなければよい」。
《感想4-2》「見て見ぬふり」は無理があったと家福は言うが、「たとえ知っていても妻の秘密(情事)を問わない」という選択肢があってもよい。「家福は《狭量》だ」と言ってもよい。
《感想5》みさきは結局、「母を憎んでいた」のだ。母のDVに、中学生のみさきは「耐えられなかった」のだ。だから「見殺し」にした。
《感想6》家福(or村上春樹氏)は「自己」意識過剰だ。
《感想6-2》そもそも「自己」とは実は日常の場面では明瞭だ。自己とは、「今生きるこの身体につながる自己」であり、「今の欲望」、「今の感情」、「今の意志」であって、問うまでもなく、その場面では明瞭だ。(ただしこの「身体」が明瞭である点が前提だ。この「身体」が不明瞭だと「自己」は曖昧となる。)
《感想6-3》たいていの場合、この「身体」は明瞭だから、「自己」も明瞭だ。「自己」は、「今生きるこの身体につながる自己」として、ひたすら「今の欲望」、「今の感情」、「今の意志」に生きる。「自己」を疑い問うことはない。「自己」は自明だ。
《感想6-4》ましてその「自己」が、「人並みに食べ、人並みに生活する」ことができないなら、「自己」は「人並みに食べ、人並みに生活する」ことを実現することだけに必死となる。「自己」を疑い問うことはない。「自己」は自明だ。
《感想6-5》「自己」の根拠を、問うのは「人並みに食べ、人並みに生活する」ことがすでに実現されている場合、つまり「安楽に生活でき、経済的に余裕がある」場合の「閑暇」の結果にすぎないかもしれない。
《感想7》「人の世」は不思議だ。「私」は謎だ。「他者」も謎だ。にもかかわらず人々の間の心の交流は可能だ。「笑顔」、「わかった」、「楽しい」と解釈できるような「表現」を双方が提示し、その「表現」を双方が受け入れるなら、それで「私」と「他者」の交流状況は「幸福」な相互了解そのものになる。
《感想7-2》どんな「内面」・「本音」・「陰謀」が推定されようと、双方の「表現」による「幸福」な相互了解があれば、それ以上「覗き込むことのできない『黒い渦』」のようなものを問う必要はない。
《感想8》家福(or村上春樹氏)の世界は「自己なるもの」が肥大化している。実はそもそも「この世」は曖昧で、「自己」もあいまいで、「他者」もあいまいだ。「この世」全体が「茫洋」としている。この世は「夢」or「幻」だ。「夢」or「幻」を現実と思い、「自己」という曖昧なものを、無理矢理「実体」であるかのようにとらえようとするのは、破綻する企て、あるいは無用の企てにすぎない。
《感想8-2》この世でもっともあいまいでなく、「茫洋」としていないもの、「夢」or「幻」でないものは「今生きるこの身体」の「(肉体的)苦痛」だ。「自己」は、「今生きるこの身体、とりわけその(肉体的)苦痛につながる自己」として、ふつう、疑われることがない。

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『唯識(下)』多川俊映、第9回 第八阿頼耶識をめぐって①:第八識は「異熟識」で私たちは「無記」というスタートラインに立つ!第七識は「有覆無記」だが、第八識は「無覆無記」だ!

2023-02-01 12:58:02 | 日記
『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第9回 第八阿頼耶識をめぐって①
(20)第八阿頼耶識は「異熟識」であり、私たちはつねに「無記」というスタートラインに立つ!
次の瞬間、善にも不善にも行く!  
E 善行や不善行の情報を結果として受けとめる果相としての阿頼耶識それ自体は、善・不善のどちらでもない「無記」の性質だ。これを「因是善悪(インゼゼンナク)、果是無記(カゼムキ)」という。(54-55頁)
E-2  こうした因果関係は「異熟因異熟果」という。つまり因と果の性質が異なり、異なって熟する。(55頁)
E-2-2  なお善因善果・悪因悪果の因果関係は、「同類因等流(トウル)果」という。(55頁)
E-3  私たちを根底から支える第八阿頼耶識は「異熟識」(因と果の性質が異なり、異なって熟する)であり、私たちはつねに「無記」というスタートラインに立つ。次の瞬間、善にも不善にも行く!(55-56頁)
E-3-2  わが心の第六意識は、「無記」の第八識から転変した転識(テンジキ)だから、その時々の状況(※「縁」)で、時に「善」の心所と相応し、また時には不善の「煩悩」や「随煩悩」の心所と相応する。(57頁)
E-3-3  『今昔物語集』本朝部巻第十九「讃岐の国の多度(タド)の郡(コオリ)の五位(ゴイ)、法を聞きてすなわち出家せる語(コト)」は、極悪人の「五位の源大夫」という男が劇的に変貌して出家する話だ。(57-59頁)
E-3-3-2 つまり源大夫の心(心王の第六意識)においては、それまで相応して活発だった不善の「煩悩」や「随煩悩」の心所はみな後方に脱落し、今や「善」や「別境」の心所が大きく相応している。(59-60頁)
E-3-3-3 このような劇的な変貌も、第六意識の基盤たる第八阿頼耶識が「無記」の性質であればこそだ。(60頁)

(20)-2 第七末那識は「有覆(ウフク)無記」(基本的には善・不善のどちらでもないが、不浄の方向性を帯びている)だが、第八阿頼耶識は「無覆(ムフク)無記」(無色透明で、善でも不善でもない)である! 
E-4  ただし「無記」には二種ある。第七末那識は「有覆(ウフク)無記」の性質で、第八阿頼耶識は「無覆(ムフク)無記」だ。(61-62頁)
E-4-2  この「有覆(ウフク)」と「無覆(ムフク)」の違いは、相応する心所の違いによる。(61頁)
E-4-3 第七末那識に相応する心所は、主には(ア)「四煩悩」と「八随煩悩」だ。(下記《参考3》参照。)さらに第七識にはどのような認識にもはたらく(イ)「遍行(ヘンギョウ)」の5心所、そしてまた「自己愛・自己執着には厳しい自我・他我の択び分けが必要」なので「別境」に分類される(ウ)「慧(エ)」の心所がはたらく。(61頁)

E-4-4  一方、第八阿頼耶識に相応する心所は、もっとも基本的な「遍行」(ヘンギョウ)の5心所、すなわち触(ソク)・作意(サイ)・受(ジュ)・想(ソウ)・思(シ)だけで、これらの心的作用には第八識を汚す要素はなにもない。(61頁)
E-4-4-2 そのさい中心的にはたらく「受」の心所だが、第八阿頼耶識の場合、認識対象を「捨受(シャジュ)」すると言われる。「捨受(シャジュ)」とは、認識の対象を「苦でも楽でもなく、また憂でも喜でもなく、ただそのまま大きく受け止める」ことだ。(62頁)

《参考1》(17)-4-2 「六位五十一心所」一覧!①「遍行」(ヘンギョウ)(5心所)!
R-3 ★五十一心所①「遍行」(ヘンギョウ):どのような認識にもはたらく基本的な心所(5心所)!(上81頁)
(1)触(ソク):「心を認識対象に接触させる」という心所。
(2)作意(サイ):「心を起動させる」という心所。
(3)受(ジュ):「認識の対象を苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める」という心所。
(4)想(ソウ):「受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる」という心所。
(5)思(シ):「認識対象に具体的に働きかける」という心所。
R-3-2 「遍行」(ヘンギョウ)の5心所:先ず(2)「作意(サイ)」の心所に相応して認識する心が起動し、次に(1)「触(ソク)」の心所に相応して認識対象を認める。そしてこの認識作用のとっぱなに早くも(3)「受(ジュ)」の心所が相応してはたらく。つまり、その認識の対象が自分にとって苦か楽か、憂いをもたらすものか喜びか、あるいはそのどちらでもないものなのかと受け止める。(上130頁)
R-3-2-2 さらに(4)「想(ソウ)」の心所が相応してはたらき、受け止めたものを「自己の枠組み」(※類型的知識在庫or種子)にあてはめる。(上130頁)
R-3-2-3 こうした(2)「作意(サイ)」・(1)「触(ソク)」・(3)「受(ジュ)」・(4)「想(ソウ)」という4心所は一連のもので瞬時にして働く。その上で、認識対象に具体的に関わっていく(5)「思(シ)」の心所が発動していく。(上130頁)
R-3-2-4 この(5)「思(シ)」の心所の具体的な内容が、②「別境」(ベッキョウ)(5心所)、③「善」(11心所)、④「煩悩」(6心所)、⑤「随煩悩」(ズイボンノウ)(20心所)、⑥「不定」(フジョウ)(4心所)の、46心所のはたらきだ。(上130-131頁)

《参考2》(17)-4-3 「六位五十一心所」一覧!②「別境」(ベッキョウ)(5心所)!
R-3-3 ★五十一心所②「別境」(ベッキョウ):特別な対象(境)だけにはたらく心所(5心所)!(上81頁)
(6)欲(ヨク):(認識対象を)「希求する」という心所。
(7)勝解(ショウゲ):(認識対象を)「深く了解する」という心所。
(8)念(ネン):(認識対象を)「記憶する」という心所。
(9)定(ジョウ):(認識対象に)「集中する」という心所。
(10)慧(エ):(認識対象を)「択び分け、正邪を判断する」という心所。
R-3-3-2  ②「別境」(ベッキョウ)の5心所は、いちおう別立てになっている。しかし仏教は元来、「覚」(サトリ)の世界を志向するものなので、その観点から通常、「別境」(ベッキョウ)の5心所は、③「善」の枠で扱う。(上130頁)

《参考3》(18)-3-2 末那識の性質(続):第七末那識の「無記」は「有覆(ウフク)」であり「無色だが薄汚れていて透明感に欠ける」! 第七識に相応する「煩悩」の4心所と「随煩悩」の8心所!
C 第七末那識(マナシキ)は第八識の阿頼耶識(アラヤシキ)を「不変で実体的な実我として執着する」ので「不善」「悪」ともいえるが、実は末那識の基本的な性質は、どこまでも「無記」(善でも不善でもない性質)とされる。(上147頁)
C-2  ただし第七末那識(マナシキ)の「無記」は「有覆(ウフク)無記」といわれる。「有覆(ウフク)無記」とは、基本的には善・不善のどちらでもないが、不浄の方向性を帯びていることだ。(上147頁)
C-2-2 第七末那識は「染汚意」(ゼンマイ)ともいわれる。それは「無記」だが「有覆」(ウフク)であり、結果的に「我執」(ガシュウ)(自我に対する執着)を生む。(上147頁)
C-2-3 第八識の「無覆(ムフク)無記」がいわば「無色透明」であるのに対し、第七識の「有覆(ウフク)無記」は「無色だが薄汚れていて透明感に欠ける」ということだ。(上147頁)

C-3  第七末那識(マナシキ)が、「無記」だが「有覆」(ウフク)なのは、第七識に相応してはたらく心所(心のはたらき)が五十一心所の④「煩悩」(6心所)のうちの4心所と⑤「随煩悩」(20心所)のうちの8心所であることによる。(上147-148頁)
C-3-2  第七末那識に相応する④「煩悩」の4心所は(24)「我癡(ガチ)」(「癡」)(真理・道理に暗い)・(27)「我見」(「悪見」アッケン)(誤った見解に立つ)・(25)「我慢」(「慢」)(自己を恃み、他をあなどる)・(22) 「我愛」(「貪」トン)(むさぼる)である。これら4煩悩「我癡(ガチ)」「我見」「我慢」「我愛」によって第七識が汚染されるので、第七識は「染汚意」(ゼンマイ)ともいわれる。(上147-148頁)

C-3-2-2  (22) 「貪」(トン)(「我愛」)(むさぼる)は貪欲・貪愛ともいい、認識の対象(第七末那識にとっては第八阿頼耶識)を愛着するはたらきだ。(上148頁)
C-3-2-3 自己に愛着すれば(25)「慢」(「我慢」)(自己を恃み、他をあなどる)もおのずから作用していく。(上148頁)
C-3-2-4 また(27)「悪見」(アッケン)(「我見」、不正見とも)(誤った見解に立つ)は、「不変でも実体的でもない第八阿頼耶識」を誤認して、「不変で実体的な実我」と思いこむ生得的で無間断(ケンダン)のはたらきだ。(上148頁)
C-3-2-5 こうした心作用の大本に(24)「癡(チ)」(「我癡」、愚癡・無明ムミョウとも)(真理・道理に暗い)の存在を想定するのが、仏教の最も基本的な考え方だ。(上148-149頁)
C-3-2-6 これら4煩悩  (22) 「貪」(トン)・(25)「慢」・(27)「悪見」(アッケン)・(24)「癡(チ)」に、「我」を付け(22) 「我愛」・(25)「我慢」・(27)「我見」・(24)「我癡(ガチ)」と呼ぶのは、第七末那識のはたらきが徹頭徹尾、自己中心だからだ。(上149頁)

C-4  「(当面の)自己」である第六意識は、自分が幼年、少年、青年、壮年へと変化してきたことを認め、同時にそのような変化する自分の中に「変化しない自分」があると思う。(上149頁)
C-4-2  こうした第六意識の思いを、深層領域から「第七意識が第八識を恒審思量して」バックアップしている。(上149頁)
Cf. 深層領域では、第七末那識が「本来の自己そのもの」の第八阿頼耶識を認識の対象とし、これに執着して、これぞ実我(不変で実体的な自己だ)と審(ツマビ)らかに思量して止まない。第七末那識の「恒審(コウシン)思量」!(上143-144頁)

C-5  第七末那識(マナシキ)に相応してはたらく心所(心のはたらき)には、上述の④「煩悩」(6心所)うちの4心所(上述)のほかに、⑤「随煩悩」(20心所)のうちの8心所がある。(上149頁)
C-5-2  第七末那識に相応する「随煩悩」の8心所:(42)「不信」(フシン)真理を顧みない、(43)「懈怠」(ケダイ)なまける、(44)「 放逸」(ホウイツ)欲望のままにふるまう、(41)「昏沈」(コンジン)気持ちが深く沈む、(40)「 掉挙」(ジョウコ)気持ちが騒がしく浮き立つ、(45)「失念」(シツネン)記憶を失う、(47)「不正知」(フショウチ)誤って理解する、(46)「散乱」(サンラン)集中を欠いて乱れる。(上149-150頁)
C-5-2-2 これら 第七末那識に相応する「随煩悩」の8心所は、もとより、どれもみな第八阿頼耶識をめぐってはたらく。第七末那識は、「不変かつ実体的なものとしての第八識」こそ是であり、どこまでも「自己中心性」にかまけて(44)「 放逸」(ホウイツ)する、つまり欲望のままにふるまう。(上150頁)
C-5-2-3 五十一心所③「善」(ゼン)(11心所)のうちの(11)「信」(シン)(自己を真理に委ねる)の心所は私たちの心を浄化する力を持っているので、(42)「不信」(フシン)(真理を顧みない)の心所が第七末那識に相応して働けば、第七識の「無記」の性質もいよいよ「有覆」(ウフク)の意味を深くしていく。(上150頁)
Cf. 第七末那識(マナシキ)の「無記」は「有覆(ウフク)無記」といわれる。「有覆無記」とは、基本的には善・不善のどちらでもないが、不浄の方向性を帯びていることだ。(上147頁)
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