DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

『唯識(下)』多川俊映、第10回 第八阿頼耶識をめぐって②:「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識することだ!

2023-02-06 11:09:31 | 日記
『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第10回 第八阿頼耶識をめぐって②
(20)-5 「受」の心所について、第八識に相応するのは「捨受」であり、認識の対象つまり《一切の種子(シュウジ)群、有根身(ウコンジン)(身体)、その受け皿の器界(自然・環境)》をただそのまま「それは、そういうものだ」と受けとめる! 
E  第六意識(「わが心」)はほとんどコトバと連動する。また第六意識という心王(心の主体;識体)に相応する心所(心のはたらき)は、五十一心所のすべてだ――つまり善と不善という矛盾するものが同居する複雑怪奇なものだ。(80頁)
E-2  これに対し(根本識体の)第八阿頼耶識という心王に相応する心所は、五十一心所のうちもっとも基本的な「遍行」の五心所だけだ。(80頁)
E-2-2 「遍行」の五心所:(1)触(ソク)「心を認識対象に接触させる」、(2)作意(サイ)「心を起動させる」、 (3)受(ジュ)「認識の対象を苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める」、 (4)想(ソウ)「受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる」、(5)思(シ)「認識対象に具体的に働きかける」。(80頁)
E-2-3 この中の(3)「受」の心所について、第八識に相応するのは「捨受」であり、認識の対象つまり《一切の種子(シュウジ)群、有根身(ウコンジン)(身体)、その受け皿の器界(自然・環境)》をただそのまま「それは、そういうものだ」と受けとめる。Cf. これに対しわが心の第六意識の「受」は、自己の身体や相貌について苦とか楽、憂とか喜などと受けとめるので、何かと悩ましい。(80-81頁)

《感想》 (1) 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」は、小宇宙としての「モナド」である。「本識」たる第八阿頼耶識は(a)「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)(※知識在庫)のみでなく、(b)有根身(ウコンジン)(身体)も(c)「器界」(自然など)も、《そのもの》として含む。つまり多くのモナド(八識という構造を持つ「心王」)が存在し、それぞれが小宇宙であり、それらモナド(小宇宙)(八識という構造を持つ「心王」)は《触覚の世界としての「物」(身体を含む)の領域》をも、つまり《 (b)有根身(ウコンジン)(身体)と(c)物世界としての「器界」(自然など)》をも、《そのもの》として含む。
《感想(続)》(2) なお《 (c)物世界としての「器界」(自然など)》および《「器界」にとりまかれた(「物」であるかぎりでの)(b)有根身(ウコンジン)(身体)》は、多くのモナド(小宇宙)に同一の共有されたものとして、それぞれの小宇宙つまりそれぞれの「モナド」(八識という構造を持つ「心王」or超越論的主観性)のうちに《そのもの》として出現する。

E-3  識体の心王(心の主体)とそれに相応する心所(心のはたらき)の関係については、心王は認識対象の「総相」(ソウソウ)(概要、大体)をとり、心所はその総相に加えて「別相」(ベツソウ)をとって、認識の精度を高める。(81頁)
E-3-2 「総相」と「別相」は、古来、絵屋の親方と弟子の関係に例えられる。「総相」(心王)が親方で大まかな構図・構想を示し、「別相」(心所)が弟子で、親方の指揮の下、細部を仕上げていく。(81-82頁) 

(20)-6 第八識(心王)が、触(ソク)(心を認識対象に接触させる)および作意(サイ)(心を起動させる)の心所と相応して、有根身および器界(自然・環境)を生じさせる!ここに、第八阿頼耶識は有根身および器界を認識の対象とする!  
F   第八阿頼耶識(※超越論的主観性)は、(a)「種子」(シュウジ)(過去の行為行動の情報・残存気分)(※類型的知識の在庫)、(b)「有根身」(ウコンジン)(身体)、(c)「器界」(器世間)(有根身の受け皿;自然など)を所蔵(管轄)する深層の根本識体だ。(82頁)
F-2  なお有根身の「根」とは五識(眼ゲン・耳ニ・鼻ビ・舌ゼツ・身シン)に対応する五つの感覚器官(五根)のことで、「有根身」とは五根を有する身体のことだ。(82頁)
 
《参考1》根本識体の第八阿頼耶識という心王に相応する心所は、五十一心所ののうちもっとも基本的な「遍行」の五心所、(1)触(ソク)・(2)作意(サイ)・(3)受(ジュ)・(4)想(ソウ)・(5)思(シ)だけだ。(80頁)
《参考1-2》「遍行」の五心所:(1)触(ソク)「心を認識対象に接触させる」、(2)作意(サイ)「心を起動させる」、という心所、(3)受(ジュ)「認識の対象を苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める」、という心所、(4)想(ソウ)「受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる」、(5)思(シ)「認識対象に具体的に働きかける」。(80頁)
《参考2》この(5)「思(シ)」の心所の具体的な内容が、②「別境」(ベッキョウ)(5心所)、③「善」(11心所)、④「煩悩」(6心所)、⑤「随煩悩」(ズイボンノウ)(20心所)、⑥「不定」(フジョウ)(4心所)の、46心所のはたらきだ。(上130-131頁)

F-3   第八識(心王)が、触(ソク)(心を認識対象に接触させる)および作意(サイ)(心を起動させる)の心所と相応して、「有根身」を生じさせる。同時に有根身を取り巻く受け皿の「器界」を生じさせる。(82頁)
F-3- 2 ここに、第八阿頼耶識は「有根身」および「器界」(自然・環境)を認識の対象とする。(82頁)《感想》「認識の成立」において、「相分」は《そのもの》として「現象」している。

《感想1》 (1) 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」は、小宇宙としての「モナド」である。「本識」たる第八阿頼耶識は(a)「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)(※知識在庫)のみでなく、(b)有根身(ウコンジン)(身体)も(c)「器界」(自然など)も、《そのもの》として含む。つまり多くのモナド(八識という構造を持つ「心王」)が存在し、それぞれが小宇宙であり、それらモナド(小宇宙)は《触覚の世界としての「物」(身体を含む)の領域》を、つまり《 (b)有根身(ウコンジン)(身体)と(c)物世界としての「器界」(自然など)》を、《そのもの》として含む。
《感想1-2》(2) なお《 (c)物世界としての「器界」(自然など)》および《「器界」にとりまかれた(「物」であるかぎりでの)(b)有根身(ウコンジン)(身体)》は、多くのモナド(小宇宙)に同一の共有されたものとして、それぞれの小宇宙つまりそれぞれの「モナド」(八識という構造を持つ「心王」or超越論的主観性)のうちに《そのもの》として出現する。
《感想2》E. フッサールは『デカルト的省察』第55節「モナドの共同化と、客観性の最初の形式としての相互主観的自然」において、「動物」は「人間性(※「超越論的主観性」としての人間)の・・・・変様態」であると述べている。
《感想2-2》おそらく、すべての生命が「識体」(心)(※超越論的主観性)である。細菌の「識体」、植物の「識体」、動物の「識体」も考えうる。なお無生物は「識体」でない。
《感想2-3》「識体」(心)(※超越論的主観性)においては、世界(宇宙)そのものが「現象」=「自体分」として出現し、それが「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化し、認識が成立する、つまり意識化される。つまり「認識の成立」において、「相分」は《そのもの》として「現象」している。
《感想2-4》「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」=「自体分」である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ。「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものだ。

《参考1》(16)認識の仕組み「四分(シブン)義」:未分化の識「自体分」が、認識される「相分」と 認識する「見分」に分化し、「自証分」が認識の成立を自覚し、さらにそれを再確認するのが「証自証分」だ!
M  このように日本の唯識仏教である法相宗は認識の仕組みを「四分(シブン)義」に基づいて説明する。「四分」は心の4つの領域で、「相分ソウブン」「見分ケンブン」「自証分ジショウブン(自体分ジタイブン)」「証自証分ショウジショウブン」である。(上110-111頁)
M-2  唯識仏教は「識のはたらき」(認識の成立)をこれら4つの要素によって考察する。(上110-111頁)
M-2-2  この四分(4つの要素)は、八識の心王(識体)それぞれに、またそれらに相応する心所にもある。(上111頁)
M-2-3-2 未分化の心王(識体)(「自体分」)が、認識される領域の「相分」(※ノエマ)と 認識する領域の「見分」(※ノエシス)に分化し、いちおう認識の成立を見る。(上111頁)[感想]「認識の成立」において、「相分」は《そのもの》として「現象」している。
M-2-3-3 そして「自体分」はその認識の成立を自覚する。これが「自証分」である。(上112頁)
[感想]「自証分」はフッサールにおける「受動的なレベルで行なわれている総合(受動的総合)」に相当する。
M-2-3-4 その「自証分」のはたらきを、さらに自覚し再確認するのが「証自証分」だ。(上113頁)
[感想]「証自証分」はフッサールにおける「能動的なレベルで行なわれている総合(能動的総合)」に相当する。

《参考2》「対象は、受動的経験の総合の中で、《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている。対象は、能動的把握作用とともにはじまる《精神的な》はたらきに対して,既成の対象として、あらかじめ与えられている。」(E. フッサール『デカルト的省察』第38節「能動的発生と受動的発生」中央公論社『世界の名著51』259頁)
[感想1]「心」(※超越論的主観性)において「対象」(もの・ことがら)は「《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている」。これは言い換えれば、「対象」《それ自身》が「心」(※超越論的主観性)において出現するということだ。「心」(※超越論的主観性)において出現するこの「対象」《それ自身》が「現象」と呼ばれる。
[感想2]この「心」(※超越論的主観性)において「現象」として「《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられ」る「対象」(もの・ことがら)の意味的規定=意味構成物(※ノエマ)(「相分」=「影像ヨウゾウ」)は、「心」(※超越論的主観性)の受動的総合と能動的総合によって構成される。

(20)-7 第八阿頼耶識は有根身および器界を認識の対象とする!物質である肉体(「有根身」ウコンジン)も絶えず変化し、ついに老病死の終末となる!「有根身」が消え去れば、身(シン)識は消え、触(ソク)境(キョウ)(「物」あるいは「物世界」)は認識対象でなくなるつまり《そのもの》として「現象する」ことがなくなる! 
F-3-3  第八阿頼耶識は有根身および器界(自然・環境)を認識の対象とすると、それ以降、いわゆる寿命のある限りは、第八阿頼耶識は無間断(ムケンダン)に(とぎれなく)、接触(「触」ソク)・起動(「作意」サイ)し続け、また「受」(捨受)(苦でも楽でもなく、また憂でも喜でもなく、ただそのまま大きく受け止める)・「想」(受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる)・「思」(シ)(認識対象に具体的に働きかける)の三心所もそれぞれはたらき続ける。(82-83頁)
F-3-3-2 しかし物質である肉体(「有根身」ウコンジン)も絶えず変化し、ついに老病死の終末となる。(83頁)
F-3-3-3 「有根身」(ウコンジン)の死とは、「(※識体である)第八識およびそれに相応する心所」がその「はたらきを止める」ことだ。(83頁)
F-3-3-4 かくて《「有根身」と「器界」》(※したがって「物」および「物世界」)は、認識対象でなくなる。(※《そのもの》として「現象」することがなくなる。)(83頁)

(20)-8 「有根身」の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)(《本識》である第八阿頼耶識)の消滅も生じる!「意識」の感覚器官(「意根」)は「有根身」における「脳神経」である!(評者の見解)
《感想1》「有根身」の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)(《本識》である第八阿頼耶識)の消滅も生じる。(評者の見解)
《感想1-2》そもそも《「物」あるいは「物世界」》(触境ソクキョウ)は、身(シン)根と不可分だ。身根と触(ソク)境(キョウ)が相互に触れあうことによって、身根と触(ソク)境の境界面に「物」が出現する。「有根身」の消滅は、同時に《「物」あるいは「物世界」》(触境を根本とする前五識の境の世界)の消滅だ。
《感想1-3》唯識仏教は、感覚器官(五根)がない意識を「第六意識」と呼ぶ。「第六意識」は倶舎仏教では、単に「意識」と呼ばれる。「意識」(「第六意識」)の認識対象は「法(ホッ)境」である。「法」とはものごと・ことがらであり、「意識」の認識対象は、「五識」のように感覚器官(感官)によって限定されない。あらゆること(一切法)を広く認識しうるし、かつ現在のみならず、過去にさかのぼり、未来を展望する。(上46頁)(※第六識は「広縁の識」だ!)
《感想1-3-2》「意識」の感覚器官(「意根」)といっても、実は「意識」(心)には感覚器官がないので、多川俊映師は、端的に「現代風には『意根』とは脳神経かもしれない」と言う。(上46頁)
《感想1-3-3》「有根身」の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)(《本識》である第八阿頼耶識)の消滅も生じる!「意識」の感覚器官(「意根」)は「有根身」における「脳神経」である!(評者の見解)

《参考1》(唯識を体系化する以前の)世親(ヴァスバンドゥ)が著わした『倶舎(クシャ)論』!
I-4 倶舎仏教は「心」が、心の主体(「心王」)(※主観性)と心のはたらき(「心所」)によって、つまり「心心所」(シンシンジョ)によって、「対象」のいかなるものであるかを認知すると考える。(上43-44頁)
I-4-2  倶舎仏教は「心王」(※主観性)を「六識」(※6領野の主観性)とする。(上45頁)
I-4-2-2 「六識」は根(感覚器官)と境(認識対象)の違いによって、眼(ゲン)識(眼ゲン根・色シキ境)、耳(ニ)識(耳ニ根・声ショウ境)、鼻識(鼻根・香境)、舌識(舌根・味境)、身(シン)識(身根・触境ソクキョウ)(※唯識の前五識に相当する)、さらに意識(意根・法ホッ境)(※唯識の第六意識に相当する)からなる。(上45頁)
I-4-2-3 「意識」の感覚器官(「意根」)といっても、「意識」(心)には感覚器官がない。かくて倶舎仏教は、現在の《認識の直前に滅した眼識ないし意識》を「意根」とみなした。(現代風には「意根」とは脳神経かもしれない。)(上46頁)
I-4-2-4 「意識」の認識対象は「法(ホッ)境」であるが、「法」とはものごと・ことがらの意味である。「意識」の認識対象は、「五識」のように感覚器官(感官)によって限定されるものでない。あらゆること(一切法)を広く認識しうるし、かつ現在のみならず、過去にさかのぼり、未来を展望する。(上46頁)(※第六識は「広縁の識」だ!)
I-5  倶舎論(倶舎仏教)の「心」(六識)の「対象」(「境」キョウ)は、いずれも外界に実在するものである。(上46頁)
I-5-2  倶舎論においては、認識の成立は、まず外界に実在するものがあり、それを私たちの「六識」という「心」が認めるという順序だ。(上47頁)
J 唯識仏教は認識の仕組みに関し、外界実在論を否定する。(上47頁)

《参考2》世親『唯識三十頌(ジュ)』は、「六識」(五感覚の「前五識」と自覚的な「第六意識」)を表面領域とし、その意識下にうごめく自己愛・自己中心性を「第七末那識」(マナシキ)と名づける。そして「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として、最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)を配置し、私たちの心を重層的に捉える。つまり世親は「阿頼耶識(アラヤシキ)縁起」(頼耶縁起)(ラヤエンギ)を提唱した。私たちは、私たち一人ひとりの「心のはたらき」(「心所」)によって知られたかぎりの世界に住む!(21-22頁)

(20)-9 「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ!「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものだ!(評者の見解)
《感想2》「識体」(心)(※超越論的主観性)とは、すなわち、「現象」としての世界(宇宙)《そのもの》(「自体分」)が、「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化する、これが認識の成立、意識化、意識の成立である。「自体分」はその認識の成立を自覚する。これが「自証分」である。(上112頁)「自証分」はフッサールにおける「受動的なレベルで行なわれている総合(受動的総合)」に相当する。
《感想2-2》「自証分」のはたらきを、さらに自覚し再確認するのが「証自証分」だ。(上113頁)証自証分」はフッサールにおける「能動的なレベルで行なわれている総合(能動的総合)」に相当する。
《感想2-3》その「自証分」のはたらきを、さらに自覚し再確認するのが「証自証分」だ。(上113頁)「証自証分」はフッサールにおける「能動的なレベルで行なわれている総合(能動的総合)」に相当する。

《感想3》おそらく、すべての生命が「識体」(心)(※超越論的主観性)である。細菌の「識体」、植物の「識体」、動物の「識体」、人間の「識体」が考えうる。無生物は「識体」でない。
《感想3-2》「識体」(心)(※超越論的主観性)とは、世界(宇宙)そのものが「現象」として出現し(「自体分」)、それが「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化し、認識が成立する、すなわち意識化が生じる、意識の成立という出来事そのものだ。
《感想3-3》「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ。「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものだ。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする