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『唯識(上)』多川俊映、第4回(その1)第六意識は「わが心」:前五識の現量!第六意識の「コトバ」による了別、比量、非量(ヒイリョウ)(間違った認知)、濃厚な「善や不善」また「好悪」の色合い!

2023-01-11 21:16:50 | 日記
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第4回 第六意識は「わが心」(その1)
(12)意識下の第八阿頼耶識は「不可知」!深層領域における自己中心性の第七末那識!第六意識こそ「わが心」!
I 意識下の第八阿頼耶識は「不可知」で自覚できない。つまり日常世界には全くカオも出さないし、スガタも見せない。また深層領域における自己中心性の第七末那識も見た目にはいささかの動きもない。かくて日常生活者としては、自覚の下にさまざまにはたらく第六意識こそ「わが心」だ。(87頁)

(13)「了別境識」(リョウベツキョウシキ)としての前五識と第六意識:「境」つまり認識対象を「了別(認識)」するはたらきをする「識体」(心)(八識のそれぞれ)(※超越論的主観性)!
J 唯識仏教では、眼(ゲン)・耳(ニ)・鼻・舌・身(シン)の前五識と第六意識を合わせて「了別境識」(リョウベツキョウシキ)という。「境」つまり認識対象を「了別(認識)」するはたらきをする「識体」(心)(※超越論的主観性)の意味だ。(88頁)

(13)-2 前五識は現量するだけだ!Cf. 現量(ゲンリョウ)(そのものを「ただそのままに知る」)・比量(ヒリョウ)(なにかと比較したり・推量する)・非量(ヒイリョウ)(間違った認知)!
J-2  前五識は、①認識対象がそれぞれに限定されている。眼(ゲン)識は色(シキ)境を、耳(ニ)識は声(ショウ)境を、鼻識は香(コウ)境を、舌識は味境を、身(シン)識は触(ソク)境(キョウ)をというように「特定された対象」を相手にして生起する。(89頁)
J-2-2  前五識は、②「現量」(ゲンリョウ)するだけだ。現量(ゲンリョウ)はそのものを「ただそのままに知る」ことだ。前五識には、比量(ヒリョウ)(なにかと比較したり・推量する)や、非量(ヒイリョウ)(間違った認知)はない。
《感想》「錯覚」との認知(判断)は前五識にはない。「錯覚」との認知(判断)は第六意識が行う。(89頁)
J-2-2-2 ただし前五識は、5つの感覚なので、③「根」(感覚器官)つまり眼(ゲン)根・耳(ニ)根・鼻根・舌根・身(シン)根の「性能」の問題がある。前五識は人間としての能力(Ex. ヒトとイヌの鼻識、ヒトとコウモリの耳識)、個体的条件(Ex. 都会人とマサイの眼識)という制約のもとにある。(89頁)
J-2-2-3  ④前五識に相応する心所(心のはたらき)が34あるので、例えば「受」の心所を例にとれば、布地の肌触りを「楽受する」(楽と受けとめる)場合、現在の一瞬一瞬が相続され、触感が持続し、布地を手放せば「現量」という「了別境」のはたらきも消滅する。(88-89頁)
《参考》「受」の心所とは「認識の対象を苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める」という心所である。(81頁)
《感想》前五識は5感覚として、認識対象(「境」)を現在時点で「ただそれそのもの」として認知するだけだが(現量)、ただしこの「それそのもの」は価値中立的な「それそのもの」でなく、すでに価値判断的・感情的・意志的(行動的)な色合いを帯びた「それそのもの」である。

(13)-3 前五識と必ず倶にはたらく「第六識」では、「コトバが介在する」ことによって対象の認識・了別は格段にクリアになる!
J-3  前五識は、認識対象(「境」)を現在時点で「ただそれそのもの」として認知するだけだが(現量)、しかし⑥前五識は必ず「第六識」(第六意識)と倶にはたらく。この段階で、対象を認識・了別するはたらきは格段にクリアになる。それはここで「コトバが介在する」からだ。(89頁)
J-3-2  例えば、「第六識」はホトトギスの鳴き声を「てっぺんかけたか」と認識・了別する。これはいわば「耳(ニ)識による現量」の「ことばへの音写」だ。これは、より「クリア」な了別(認識)のように思われる。(だが、実は「コトバを介在させることによるある種の錯覚」と言うべきだ。)(89頁)
J-3-3 前五識と第六識(第六意識)は必ず倶起するので、第六識という名の私たちの「心」はこうした「能変」(※意味構成)を必ず施す。(89頁)

(13)-3-2 前五識は現量する(そのものを「ただそのままに知る」)だけ!第六意識が「コトバ」による了別を引き起こし、比量(ヒリョウ)(なにかと比較したり・推量する)を行い、また非量(ヒイリョウ)(間違った認知)も引き起こす!
J-3-4  例えば、 目の前にある長方形の箱は、前五識の眼(ゲン)識だけでいえば、赤いというイロと長方形というカタチを「ただそのままに知るばかり」(現量)だ。しかし現実には眼(ゲン)識と第六意識が同時に倶起するので「赤色の長方形の箱」というコトバをともなった了別(認識)になる。(89頁)
J-3-4-2  第六意識がそれをさらに「筆箱」と了別すれば「そういえば・・・・」と比量(なにかと比較したり・推量する)も促されて、いわゆる「連想の広がり」となることもある。(89頁) 
J-3-4-3 第六意識には、非量(ヒイリョウ)(間違った認知)という事実誤認もありうる。日常生活の現場では、この第六意識の誤認やそこからくる判断ミスにしばしば悩む。(90頁)

(13)-3-3 第六意識:「善や不善」また「好悪」の色合いが濃厚で、それらが「境」の「了別」に大きく影響する!
J-3-5  第六識の段階で、俄然、「善や不善」、また「好悪」の色合いが濃厚となり、それらが境(認識対象)の了別(認識)にも大きく影響する。(90頁)
《感想》唯識仏教においては、「認識」は単なる観想(認識対象との非感情的・非価値的・非行動的=非意志的関係)でない。「認識」とは「認識する主体・主観(心)」と「認識対象」との関係づけ(「具体的に働きかける」こと)であり、その関係は、観想的(非感情的・非価値的・非行動的=非意志的)関係、感情的関係、価値的(倫理的)関係、行動的(意志的)関係のすべてを含む。

J-3-5-2  例えば偶然に拾得した金員に対して、第六識が「煩悩」の心所(22) 「貪(トン)(むさぼる)」などと相応すれば、私たちは「不善」の存在となる。しかし「落とした人はきっと困っているだろうな。やっぱり届けなきゃ」と思い返せば私たちは「善」の存在となる。(90頁)
J-3-5-3 そして、実際に最寄りの交番に金員を届ければ、この一件は「善の行為」として過去に「落謝(ラクシャ)」する。「落謝」とは、ものごと・ことがらが現在から過去におちゆくこと、滅する意味だ。(ただしこうした一件落着は、第六意識という表面領域のレベルに限定した場合で、第八阿頼耶識アラヤシキの深層領域では、話はまだまだ続く。)(90頁)
J-3-5-4 このように、私たちの日常のわが「心」というか(当面の)「自己」である第六意識は「善」「不善」が入り乱れている。(90頁)

《参考》五十一心所③「善」(ゼン):仏の世界に順ずる心所(心のはたらき)(11心所)!(51-52頁)
(11)信(シン):「自己を真理に委ねる」という心所(心のはたらき)。
《感想》これは「自己と(人間的and自然的)世界・宇宙との関係において何を至高の価値とするか」という問いに対する答えである。
(12)慚(ザン):「自らを顧み、また教え(※真理)に照らして恥じる」という心所(心のはたらき)。
《感想》そもそも「自己を真理に委ねる」という至高の価値を希求して生きるとは、「仏の世界」を希求しつつ生きることである。
(13)愧(キ):「他に対して恥じる」という心所(心のはたらき)。
(14)無貪(ムトン):「むさぼらない」という心所(心のはたらき)。  
(15) 無瞋(ムシン):「排除しない」(※憎しみのないこと)という心所(心のはたらき)。
(16) 無癡(ムチ)(無痴):「真理・道理に即する」(※妄想をもたないこと)という心所(心のはたらき)。
《参考》「無貪(ムトン)・無瞋(ムシン)・無癡(ムチ)」の三つを「三善根」という。これに対し「貪瞋癡(痴)」(トンジンチ)(むさぼり執着すること・憎しみをもち排除すること・妄想をもち真理・道理に暗いこと)を「三毒」(三根・三不善根)と言う。
(17)勤(ゴン):「精進。たゆまず努める」という心所(心のはたらき)。
(18)安(アン):「軽安(キョウアン)。身心がのびやかで、はればれとしている」という心所(心のはたらき)。
《感想》「障害」(平均的な身体・心の機能・構造から離れていること)のある身・心(メンタルな機能・構造)であっても、「のびやかで、はればれとしている」ことは可能だ。だから「安」(アン)は「健康」(多数派的な身体・心の機能・構造で、「障害」の反対概念)とは異なる。
(19)不放逸(フホウイツ):「欲望をつつしむ」という心所(心のはたらき)。
《感想》無貪(ムトン)(むさぼらない)に似るが、「貪」は行き過ぎた欲望だ。不放逸は、欲望そのものをコントロールし節制することだ。
(20)行捨(ギョウシャ):「平等にして、かたよらない」という心所(心のはたらき)。(※楽でも苦でもない不苦不楽の感覚状態 。心の平静。かたよりのないこと 。心が平等で苦楽に傾かないこと 。)
(21)不害(フガイ):「いのちをあわれみ、他を悩ませない」という心所(心のはたらき)。(※非暴力。他を害しないこと。他者への思いやりの心すなわち慈悲心。)
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