※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)
第3章「哲学と信仰と」(その3)
(20)「照明説」:真理や知識は内的な光に照明されて得られるものである!タガステにて最愛の息子アデオダトゥスの死(390年、アウグスティヌス36歳)!
(n)388年(34歳)以来のアウグスティヌスと息子アデオダトゥス、そして仲間たちとの「故郷タガステ」での、キリスト教の信徒として清貧の生活は、390年(36歳)、突然の転機を迎える。最愛の息子アデオダトゥスが17歳で死んだ。(80頁)
(n)-2 アウグスティヌス『教師』(389年)は、彼と息子との対話編である。彼はここで「真理や知識は内的な光に照明されて得られるものである」との考えを提示する。アウグスティヌスは、中世以降の西洋哲学に多大な影響を与えた「照明説」という認識論上の立場を、ここで初めて表明した。(80-81頁)
《参考》新プラトン主義的流出説の影響を受け、アウグスティヌスは,知的光たる神(Cf. プラトンのイデア)が、真理の必然性と永遠性を人間精神に開示するとの照明説を唱えた。
(20)-2 アウグスティヌス、ヒッポの司祭となる(391年・37歳)!「庭園の修道院」!
(o)391年(37歳)アウグスティヌスはヒッポ(北アフリカでカルタゴに次ぐ港町)の司祭となる。(81頁)
(o)-2 そして司教ウァレリウスは、教会堂に隣接する建物をアウグスティヌスと仲間の住まいとして提供した。これが「庭園の修道院」である。(81頁)
(p)ヒッポでアウグスティヌスが着手した作業に、まず①『詩編注解』がある。(391年・37歳に書き始め420年・66歳に完成する。)彼は『詩編』のヘブライ的な人間表現を、新プラトン主義的な哲学の構図と整合させようと苦心する。(82-83頁)
(q) またアウグスティヌスは②「パウロ書簡」を徹底的に読み直す。その到達点が『シンプリキアヌスへ』(396年・42歳)である。ここでアウグスティヌスの「罪」の理解、「恩恵」の理解が深まる。そして人類全体が「罪の塊」をなしているという観察が現れる。(83頁)
(q)-2 最晩年の『再考録』(427年・73歳)では、この問題をめぐってアウグスティヌスは「自分は人間の意志の自由な選択の確保のために奮闘したが、神の恩恵の重要さがこれにまさった」と振り返っている。(83-84頁)
(r)さらにアウグスティヌスは③「マニ教論駁」も精力的に継続する。例えば『二つの魂』(391-2年・37-8歳)では冒頭で「神のあわれみに助けられて、マニ教徒たちの罠が打ち砕かれて、ついにカトリック教会のふところに立ち返った私は、今やっと少なくとも当時の私のみじめさをじっくりと眺め嘆くことができるようになった」と記している。(84頁)
(r)-2「マニ教論駁」はその後も50歳になるまで続けられる。『告白』全13巻(400年・46歳)もこうした文脈のなかで執筆されたことを考えると、アウグスティヌスの若き日の「漂泊(誤謬)」への悔恨の深さと、それからの解放の喜びの大きさが見て取れる。(84頁)
(20)-3 「アウグスティヌスの修道規則」(395年・41歳)!ヒッポの町の司教となる(396年・42歳)!
(s)395年(41歳)、アウグスティヌスはヒッポの町の補佐司教となる。司教としての執務と生活を両立させるために、アウグスティヌスは「庭園の修道院」(Cf. 聖アウグスティヌス修道会)を仲間で運営できるように規則を制定した。これが「アウグスティヌスの修道規則」である。(85-86頁)
(s)-2 「兄弟たちよ、すべてにおいて神を愛し、また、あなたたちの隣人を愛しなさい。なぜならこれは私たちに与えられた最も大切な掟だからです。」このように修道規則は始まる。
(s)-3 そして「まずあなたたちが一つに寄り集う主な目的は、神に向かって心も思いも一つにして、一つの家で思いを一致させて生活することです。何物も自分のものとは言わないですべてのものを共有にしなさい」と、信徒たちに指示を与える。(86頁)
《参考》11世紀から12世紀のイタリアには「アウグスティヌスの修道規則」を基本とする修道者の団体が複数存在していた。さらに13世紀初頭にはスペイン、ドイツ、フランスにも同様の修道院が設立された。1244年、ローマ教皇インノケンティウス4世はこれらの修道者に「アウグスティヌスの修道規則」を課し統合を命じた。これが「聖アウグスティヌス修道会」の始まりとされる。
(t) 396年(42歳)、アウグスティヌスはヒッポの町のキリスト教の全責任を受け持つ正式な司教となる。当時、アフリカ全体を統括する首位司教は、カルタゴの司教アウレリウスであった。アウグスティヌスは、この司教の盟友としてアフリカ教会のためにも働くことになる。(87頁)
第3章「哲学と信仰と」(その3)
(20)「照明説」:真理や知識は内的な光に照明されて得られるものである!タガステにて最愛の息子アデオダトゥスの死(390年、アウグスティヌス36歳)!
(n)388年(34歳)以来のアウグスティヌスと息子アデオダトゥス、そして仲間たちとの「故郷タガステ」での、キリスト教の信徒として清貧の生活は、390年(36歳)、突然の転機を迎える。最愛の息子アデオダトゥスが17歳で死んだ。(80頁)
(n)-2 アウグスティヌス『教師』(389年)は、彼と息子との対話編である。彼はここで「真理や知識は内的な光に照明されて得られるものである」との考えを提示する。アウグスティヌスは、中世以降の西洋哲学に多大な影響を与えた「照明説」という認識論上の立場を、ここで初めて表明した。(80-81頁)
《参考》新プラトン主義的流出説の影響を受け、アウグスティヌスは,知的光たる神(Cf. プラトンのイデア)が、真理の必然性と永遠性を人間精神に開示するとの照明説を唱えた。
(20)-2 アウグスティヌス、ヒッポの司祭となる(391年・37歳)!「庭園の修道院」!
(o)391年(37歳)アウグスティヌスはヒッポ(北アフリカでカルタゴに次ぐ港町)の司祭となる。(81頁)
(o)-2 そして司教ウァレリウスは、教会堂に隣接する建物をアウグスティヌスと仲間の住まいとして提供した。これが「庭園の修道院」である。(81頁)
(p)ヒッポでアウグスティヌスが着手した作業に、まず①『詩編注解』がある。(391年・37歳に書き始め420年・66歳に完成する。)彼は『詩編』のヘブライ的な人間表現を、新プラトン主義的な哲学の構図と整合させようと苦心する。(82-83頁)
(q) またアウグスティヌスは②「パウロ書簡」を徹底的に読み直す。その到達点が『シンプリキアヌスへ』(396年・42歳)である。ここでアウグスティヌスの「罪」の理解、「恩恵」の理解が深まる。そして人類全体が「罪の塊」をなしているという観察が現れる。(83頁)
(q)-2 最晩年の『再考録』(427年・73歳)では、この問題をめぐってアウグスティヌスは「自分は人間の意志の自由な選択の確保のために奮闘したが、神の恩恵の重要さがこれにまさった」と振り返っている。(83-84頁)
(r)さらにアウグスティヌスは③「マニ教論駁」も精力的に継続する。例えば『二つの魂』(391-2年・37-8歳)では冒頭で「神のあわれみに助けられて、マニ教徒たちの罠が打ち砕かれて、ついにカトリック教会のふところに立ち返った私は、今やっと少なくとも当時の私のみじめさをじっくりと眺め嘆くことができるようになった」と記している。(84頁)
(r)-2「マニ教論駁」はその後も50歳になるまで続けられる。『告白』全13巻(400年・46歳)もこうした文脈のなかで執筆されたことを考えると、アウグスティヌスの若き日の「漂泊(誤謬)」への悔恨の深さと、それからの解放の喜びの大きさが見て取れる。(84頁)
(20)-3 「アウグスティヌスの修道規則」(395年・41歳)!ヒッポの町の司教となる(396年・42歳)!
(s)395年(41歳)、アウグスティヌスはヒッポの町の補佐司教となる。司教としての執務と生活を両立させるために、アウグスティヌスは「庭園の修道院」(Cf. 聖アウグスティヌス修道会)を仲間で運営できるように規則を制定した。これが「アウグスティヌスの修道規則」である。(85-86頁)
(s)-2 「兄弟たちよ、すべてにおいて神を愛し、また、あなたたちの隣人を愛しなさい。なぜならこれは私たちに与えられた最も大切な掟だからです。」このように修道規則は始まる。
(s)-3 そして「まずあなたたちが一つに寄り集う主な目的は、神に向かって心も思いも一つにして、一つの家で思いを一致させて生活することです。何物も自分のものとは言わないですべてのものを共有にしなさい」と、信徒たちに指示を与える。(86頁)
《参考》11世紀から12世紀のイタリアには「アウグスティヌスの修道規則」を基本とする修道者の団体が複数存在していた。さらに13世紀初頭にはスペイン、ドイツ、フランスにも同様の修道院が設立された。1244年、ローマ教皇インノケンティウス4世はこれらの修道者に「アウグスティヌスの修道規則」を課し統合を命じた。これが「聖アウグスティヌス修道会」の始まりとされる。
(t) 396年(42歳)、アウグスティヌスはヒッポの町のキリスト教の全責任を受け持つ正式な司教となる。当時、アフリカ全体を統括する首位司教は、カルタゴの司教アウレリウスであった。アウグスティヌスは、この司教の盟友としてアフリカ教会のためにも働くことになる。(87頁)