小林真 ブログ―カロンタンのいない部屋から since 2006

2006年開設の雑記ブログを2022年1月に市議当選でタイトル更新しました。カロンタンは40歳の時に飼い始めたねこです

丸くなってたカロンタン

2006-11-09 23:34:45 | カロンタンのこと(ねこ)
なぜだかPC次々に不調に陥り、仕事もやっとやってる始末で更新開きました。今日は月曜に書き始めていた「カロンタンのこと」です。

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そこにいることは、ずっとわかってた。
カロンタンがいた頃、2年前にネガに収めた唯1本のフィルム。高校野球のF君と一緒のロールに入ってる。現像の機会を失っていたのは、実体としてのカロンタンがいなくなったからだけとはいえないし、ただ面倒だったかも知れないし、それよりも、まだ見たことのなかった印画紙数枚の姿を実際に目にしてしまうのを、ただ先送りにしたかっただけというのが一番近いのではなかったか。
そんなISO400のフジカラーをDP店に出したのは、この間撮ったR君のラグビーのネガを出したついで。ほかにも10月の末に撮った天皇賞や残りを使うために撮った現役ねこどもなど全部で4本100枚以上の35ミリがあり、二度と撮れないF君のや母上に献上するべきR君の写真のできも気にはなったが、一番楽しみなのは2年ぶりに、新たなものとして更新されるカロンタンの絵。だいたい2年もほったらかしにして、ちゃんと現像されるかどうかも心配だったけど。
よく出していたプリント料ゼロのDP店は隣の花屋の一部になっていたので別の1時間フォトに行き、「今日は7時までです」といわれタンメン後ほぼちょうどに行ったがしっかり閉まっていて対面は翌日に延長。4千円弱と引き換えに手にした100枚を、ほとんどが25年使用のマニュアル Nikon FM による撮影ゆえ、おっ、これピンだめ、何でアンダーなんだ、としばらく一喜一憂の後、はたして2年ぶりに目にする、見たことのなかった、まっすぐにこっちを見ているカロンタンを前に時間は止まった。

心の底から思った。写真とは、何と素敵な発明だろう。
夏がけ布団の上でこっちを見ているのと、いすの上でちょっと横の何かを見つめているの、背中を丸めて影を気にしているのと、カーテンレールの上を歩いているの、そして得意だった蛇口水飲み。いつかはよく憶えていないけど、シャッターを押した時の嬉しさはなんとなくだけど憶えている。
2年半も前のある午後に動いていた忘れようにも忘れられない姿が、それがネガに焼き付けられた時からすると8ヶ月くらい前、連れてきてくれたSさんのゲージから出るやいなや飛んで行ってしまったのと同じ塾の部屋の、明るくない蛍光灯の下に広がった。

「写真」という普段それでいくばくかの収入を得ている現象の不思議とロマンを改めて味わったこの瞬間を、おそらくずっと忘れないだろう。一頭のねこの一瞬々々を、いつまでも憶えているのと同じように。
3年前の9月に来て、最初は暴れてちょうど今ごろ仲よくなったけど冬の寒い日に家出して、次の年の4月に子どもを産んで大きくして、このネガに影を残してそれからしばらくした暑い日に裏の道に転がっていた柔らかい生き物の影が、その主と同じように丸くなって引出しの角で小さなケースの中で2年あまりを過ごした後、その化学的な薬品に浸けられて、やや硬い約100平方センチ紙の上にその姿を現す。よく考えてみると、まるで魔法のような現象ではないか。

ここでまた、本ブログに何度も登場するハイデガーの一節、「時間は投射するものであり投射されるものである」が頭をよぎる。私はこの印画紙と出会うまでの2年間という時間をやるせなく感じ、その2年間が現出させた不思議な思いの前にたじろぐ。
携帯カメラやデジカメ、それより前のポラロイドなどで誰かを撮って、多くの人はその画像をうれしそうに相手に見せる。それは記録することに付随した根源的な欲求だろうし、そのことによって得られる喜びはひとまず微笑ましい。
だけど、ついさっきの絵をすぐに見るのでは決して味わえないものがなぜだかあって、そういう瞬間があることを素直に喜びたいと思う。時間がなければつくれないものはいくらだってあるのだ。
さらにいえば、印画紙の感触やフィルムならではの質感や影の美しさ。撮り直しがきかないし、フィルムも現像も自分持ちのくいう個人的な写真をフィルムで撮る時ならではの、日常を削る感じもなかなか楽しい。

最近、野上弥生子さんの『花』を読んでから、日本独特のアニミズムが気になっている。もちろん当のカロンタンが好きでそうしたわけではないが、小さな、次に入れたのがそうだったからに違いない本体のフジじゃなくコダックの黒いケースの中で2年間、現像されるのをじっと待っていたカロンタンの影、そしてそれが解き放たれたのを思う時、何だかいとおしくてたまらなくなるのは、そんなアニミズムゆえだろう。無機物にも生命はあるといえばある。
その5葉のプリントはそのまま塾の机の上に置いてあって、ねこがいるところがそうであるように、その5葉があるところは少しだけ違った空間のようで。来る人に見せたり、作業の合間か何かに「よう、カロンタン」とあいさつすると、
(ニャ)。

ただその子孫たちが家で毎日暴れるのに対して、こっちのカロンタンはちょっとも動くことがないのが印画紙にキズなのだけれど。そして、もう二度と新しいカロンタンの絵を目にすることができないのがさびしいが、それも時間の神の業。

(Phはその5葉をスキャナーでと思ったのですがしまってあるのを出すのが面倒で、そうだと携帯で。BGMはカロンタンのテーマ "the click and the fizz" 収録のハイ・ラマズ "beet maize & corn"。晩秋にはぴったりで、BGDはリヴァークエスト白)

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