墨汁日記

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別冊

2007-09-16 19:13:50 | 駄目
 写真を無断で使うのは違反なんだけど、面白いから載せてみた。

 別冊週間読売『日本の女性100年の記録』鹿鳴館からミニ・ドレスまで(1970年7月号)

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 日華事変がはじまって ダンスホールのダンサーたちも愛国婦人会に強制入会させられ そろいの国防服になれない手つきで防空演習や軍事教練をやらされた。
(昭和12年から14年頃)




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 良く見ると、笑顔でアイーンをしている人や、ドイツ式の敬礼をしている人に、敬礼の手が右手か左手が迷っている人などがいて可笑しい。


日本の慰安婦

2007-09-16 18:33:33 | 駄目
 昭和20年、8月21日。
 日本はその年の8月15日に連合国軍に対して無条件降伏した。そして、その日の国会議事堂の閣議では、敗戦にともない日本に駐留する占領軍将兵向けの慰安所について議論された。

「婦女子を性に餓えた兵隊達から守る事」

 その事への対策は速やかに実行されなければならない。
 占領軍の日本本土への上陸は間近である。
 今すぐに、一般家庭の婦女子の貞操を占領軍兵士から守る手段をたてておかねばならないのだ。
 兵士による一般婦女子の暴行や、市民の財産の略奪など、占領地では当たり前の事である。

 その為に、日本政府は占領軍将兵用の『慰安所』の設置を計画し、それを実行した。一般の日本国婦女子の純潔を守る為に、防波堤として多数の慰安婦を用意する事が必要である。

 警視総監の指揮のもと、国から資金を得て、東京近辺の芸者の置屋に慰安所の代表、それに飲食業界の代表などが集まって、占領軍あいての慰安所の設置準備にとりかかった。

 空襲による疎開で、当時の東京には、もうほとんどプロの売春婦はいなかった。そこで集められたのは、敗戦で軍需工場から追い出されたり、空襲で家も家族も失ったような、職場も家も食う物も無い女性達がほとんど。

 それでも、30人ばかりの慰安婦が8月28日にはそろって、厚木基地に到着した占領軍将兵を迎えた。

 ほぼ素人の女達の、初めての経験が餓えた米兵で、柱に抱きついて嫌だと泣きわめいたり、押し入れに隠れて泣いたりしたらしいが、それでも慰安所に残った女達にはやがてプロ意識が芽生え、占領軍用の慰安所は大盛況となる。
 すぐに東京近辺には似たような施設が設けられた。

 占領軍相手の慰安婦達は、衣食住が保証されていた程度で、稼ぎはほとんど斡旋業者の物となっていた。
 そんな彼女らを支えていたのは、日本国の為という犠牲精神である。
 犠牲精神で言うなら、片道燃料でアメリカの艦船に突っ込んだ特攻隊員と何も変わらない。
 彼女らは本気で日本女性の純潔は私らで守ってみせると信じていたようで、警視庁がくれた『特別挺身部隊員』という名称を好んでいたようだ。
 なにも恥じる事はない、私たちは日本の女性を守る為の特攻隊だという意識が、どうも彼女らを支えたようだ。

 なんだけど、昭和21年のはじめに、占領軍向けの慰安所は幕を閉じる。

 あまりに、すごい占領軍兵士の集客で、一人の慰安婦が一日に40人近くの兵士と寝るような営業状態の中、慰安婦には色んな国からきた兵士たちのいろんな性病がうつされた。
 梅毒、淋病に、その他やら。

 21年はじめに GHQ は、日本の慰安婦の90パーセントは性病の保菌者だと発表する。また GHQ は、日本の慰安所は慰安婦の人権に違反していると日本政府を避難し慰安所の廃止を求める。

 こうして、占領軍向けの慰安所は、昭和21年にはほとんど閉鎖した。
 
 ちなみに、占領軍による婦女暴行は、慰安所廃止後に1日40数件から300件までに上がったと言われているが、本当かどうかは分からない。

 もちろん、この後も売買春じたいが無くなったわけではなく、日本人の男も買い手として参加する赤線へと引き継がれ、現在の風俗産業につながっている。

 国家管理のもとの売買春が、我が国での正しい風俗産業である。
 国家の管理を離れた売買春は必ず取り締まられる。

 ちなみに、児童買春で有名なタイの売買春は、ベトナム戦争に来たアメリカ軍将兵向けの買春が発祥であるとか言われている。
 その前のタイでは買春なんか商売にならなかった。

『みんなは知らない 国家買春命令』 小林大治朗 村瀬明 (雄山閣)から。