墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

質問には答えないし、他人の痛みも分からない

2007-09-15 21:00:32 | 駄目
 人間とは何か?
 という問いに答えはない。
 何故ならば、何故かと言うなら、質問の形式が間違っているからだ。

 たとえば。

 雨とは何か?
 と、問われたとしても、質問者から求めらているのが、「雨」についての何が疑問なのかが質問の中に無い。
 これでは、回答者は推測で「雨」について答えるしか無い。

 数学ならば、数学の規則を無視した数式は、間違った質問の形式であるとすぐに判断される。
 
 数学の試験で以下のような問いが出たとする。

(問1)

 いっぱい + いっぱい =

 ちなみに正解は「いっぱい いっぱい」なのであるが、こんな問いはもちろん数学の規則を思いきり逸脱している。真面目な生徒だったら怒りだすだろう。

 数学は、厳密に論理的であろうとして、答えが多数出る事を許さない。
 数学は、誰が計算しても、計算さえ間違えなければ、たった一つしか答えが出ないような質問の形式を採用している。
 だから、数学の問いには、ふつう答えはひとつしかない。

 ところが、俺らが利用している言葉は、数学ほど緻密でも論理的でもない。
 むしろ、そういうのを凄く嫌う曖昧なものが言葉だ。
 言葉が通じれば質問の意図だけはなんとなく理解できる。
 なんとなくでも理解したら答えてやろうかなと、つい思ってしまう。
 何故なら言葉は数学と違って、かなりあいまいだからで、問いも答えもあいまいでも許してしまうからだ。

 言葉は、正確さを嫌い、修飾を好む。
 それは、人間が正直じゃないからだと思う。
 正直な自分を知る事や、本当の自分の気持ちを語る事よりも、実力以上の自分を言葉で飾り立て、心にもないきれいごとを語る事を人間は好む。
 自分は並大抵でなく凄いと思い込みたい。
 そういう自尊心が言葉による装飾をうみ、うまれた装飾を実際に言葉にしてみると、なんだか本当の事のようにさえ思えてしまう。

他人の痛みが分かるようになれとか先生や親は言う。

 つまり、先生や親は、他人の痛みは分からないだろ。
 だから、分かれって事を言いたいワケなんだけど。
 なんで他人の痛みは分からないのか?
 分からない自分は間違っているのか?

 もちろん。

 他人の痛みなんか分からない。
 それが正解だ!
 他人の痛みなんか分かるはずがない。
 てか、他人なんて何もかもが分からない。

 他人が、おいしそうだとか、気持ち良さそうだとか、痛そうにしているのを人間はすごく気にする。
 他人がおいしそうに食べている物や、他人のセックス、他人の怪我なんかに、人間は凄く興味を持つ。
 自分も同じ体験してみたいと、つい思ってしまう。
 他人と同じ体験をしたいと感情移入は出来る。
 それでも、他人の感覚は他人と同じ事をしない限り、本人には味わえない。
 
 他人のものであっても、苦しんでたりよがってたりすると気になる。
 苦痛や快楽は肉体の存在感をともなう。
 自分もその感覚を味わってみたい。
 だから、苦痛でさえ、一度くらい体験してみたいと憧れる。
 エイズ末期の患者の姿を見て、その苦しみをも、2・3日なら体験してみたいと人間は憧れる。

 他人の痛みは感覚として理解できるものでなく、想像力を働かせて憧れるものだと思う。

 他人の肉体の感覚は全く理解出来ない。
 かって自分がかかった、同じ風邪で苦しむ他人の苦しみさえ共有できない。
 自分がいま健康なら、もはや、確か苦しかったよなとしか思えない。
 生きている他人に対して、生々しい血の流れる肉体というイメージを抱くのは難しい。
 他人の表面しか気にならない。
 表面しか気にならないから、平気な顔をしている人間は平気なんだと、つい思ってしまう。

 他人を自分と同じ人間として扱う事や、自分が人間であるという尊厳を持って常に生きる事は、とても難しい。
 他人と真剣につきあうのは、とてもめんどくさい事だ。

 また、自分でさえ、他人と居る時は自分の感覚より場を優先する。
 職場や学級では、個人の考えや生理的欲求さえ無視される。
 休みの日に一人なら、好きな時に飯を食って、尿意を憶えたらすぐトイレに行くのに、教室や職場では、お腹すいたとか小便したいとか思っても休み時間まで耐えるしかない。

 多くの言葉による質問は形式を間違えている。
 だから、答えはでない。

 また、人間は他人の痛みを絶対に理解できない。
 自分が痛くなければ、どこも痛くないのは当たり前だ。