墨汁日記

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京たび日記 9

2004-10-09 18:47:15 | 旅行記
 九月二十五日 八坂の塔 

 さて、音茸(おときのこ)は残念ながら休館だった。しかし、時間はまだ四時前だ。まだ、なんかもうひとつぐらい見学できそうだ。
 俺は貧乏性、いや貧乏なので、根ががっついている。ギリギリまで日が暮れるまで京都を堪能したいのだ。京都をねぶりつくしたいのだ。
 そんなで目を付けたのが八坂の塔。なんだか良くはわからんが、地図にのってるぐらいだ。行きゃ、なんかあるだろう。

 八坂の塔はいわれによると1500年ほど前に、聖徳太子が建てたと言われるが、それはどうも、うさんくさい気もする。だって当時の最先端である奈良の都の人がわざわざ山の中の京都に塔を建てるとは考えにくい。今でいや小泉さんがいきなし奥多摩の山ん中に第二東京タワーでも建てる感じだ。ま、近所の八坂郷の人が聖徳太子にでも影響されて建てたんだろう。
 その後、八坂の塔は何度も火事にあい、現在の建物は1448年に足利義教将軍により再建されたものであるそうだ。
 ようするに550年前の建物なんである。そして、何度焼けようとも不死鳥のごとく再びたちあがるのだ!
 
 歴史は古いが、建物は以外に新しいんで、おしが弱いのが八坂の塔の特徴である。だから俺も全然知らんかった。ま、そーいう奴ってどこにでもいるよな。

 それで、なんだろ。思い出した。三脚である。三脚禁止じゃなかったんだ。珍しく。それで、小橋さんが三脚禁止じゃないのならと、三脚おったてて八坂の塔を撮影したんだ。ま、夕方で暗いしね。更に塔って、黒いしね。細密に撮りたいなら三脚も必要だ。せっかく重い思いして三脚もってきたんだ。使いたかろう。

 でもさ、俺らってトーシロカメラマンじゃん。トーシロにゃトーシロの仁義があると思うんだ。何かってゆーと他人に迷惑かけない撮影。しょせん趣味だしさ。ひとの通行の邪魔になる可能性があるなら三脚たてない方がいいかもとか思う。プロは別だよ。それでいい写真が撮れんなら通行止めでもなんでもしてくれと思うけどね。

 でも小橋さんにゃ小橋さんの考え方があるしね。好きに撮影すりゃいいさ。俺自信も他人に迷惑にならないなら道行く人でも平気でフレームにおさめてるしね。一度だって「撮って良いですか?」なんて聞いた事ない。

 写真撮影はなにか人としてのモラルを忘れなきゃ出来やしない事だ。カメラや写真て本当はとてもいかがわしく利己的なものなのだ。自分としての記念写真も写された他人にゃ恥かもしれない。でも、どんな恥でも100年もすりゃ、単なる記録となる。

 人の迷惑にならない被写体なんぞ空以外にはありえないだろう。(それだって日付をつけたら気象庁の人には迷惑かもしれん)このブログの京たびシリーズだって小橋さんには迷惑なだけかもしれない。
 でも、俺も小橋さんも死んだ後の世では、俺たちの写真は俺たちの記録として機能してくれるはずだ。現世の人間にとり写真は芸術でも表現でもない。写真に感情を挿入しようとするなら、すべての写真撮影は人間の感情と直面しなければならなくなるが、人の感情を扱うには写真は無口すぎる。
 
 現世のすべての表現は感情によってしか、理解できない。誰も正しくなんて評価できないのだ。いや、ただしいかどうかなんて関係ないのか。表現なんて結局のところ好き嫌いにすぎんのだ。だからこそ俺は愛されなさいと言っている。

 だから、写真も好きに撮れば良いのだ。俺みたいに人に迷惑をかけない撮影なんて事を考えてる馬鹿は一生トーシロなんである。

 だから、俺は小橋さんが三脚をたてた時に、なにも言えなかった。俺の価値観ではここで三脚をたてるのは禁止されてなくても、間違いである。神域とは地域の人にとってのプライベートであると考えるからだ。三脚をたててことわりもなく人んちの庭を撮影する事に良心の呵責を覚えない人はいないだろう。だが、それこそが記録であるのだ。
 記録とはそういったものだ。今いる人が恥と思う事こそ記録たり得る。いや、違うな。感情がつまった場所や事件や人が記録になるのだ。恥は怒りだ。なにを勝手にという怒りが恥という感情を産むんだろう。
 
 どうでもいい。雨が降ると、とたんに話がつまんなくなる。そんなで八坂の塔に行ってまいりました。