goo blog サービス終了のお知らせ 

印刷図書館倶楽部ひろば

“印刷”に対する深い見識と愛着をお持ちの方々による広場です。語らいの輪に、ぜひご参加くださいませ。

短命に終わったニホン判画面サイズ

2015-07-31 10:45:45 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-11

印刷コンサルタント 尾崎 章


日本工業規格・JIS B7115(1950年制定)では、J135フィルム(35mm有孔ロールフィルム)の画面サイズを次の3種類と定めている。
      JIS B7115 ロールフィルム用画面サイズ
      ① 18×24mm  (シネ判)
      ② 24×24mm
      ③ 24×36mm  (ライカ判)

JIS規格・35mmフィルム画面サイズ(18×24mm、24×24mm,24×36mm)


ところが第二次世界大戦直後の1947~1948年にかけて画面サイズ24×32mmのニホン判と称する画面サイズが存在した経緯が有る。

  
短命に終わったニホン判画面サイズ

第二次世界大戦直後のフィルムが貴重品であった時代に、やや横長のライカ判と称されていた24×36mm画面サイズのバランス補正と画面サイズ短縮による撮影枚数増を目的に企画された24×32mm画面サイズがニホン判である。

ニホン判画面サイズの場合は、J135フィルム36枚撮りで40~41枚の撮影が可能となる他に、縦横比2対3のライカ判サイズと六切り・四切りサイズ印画紙の縦横比(2対2.4)が異なる事により引き伸ばし時に生じる画面トリミングを省略できるメリットを有していた。

ニホン判のカメラは、フォーカルプレーンシャッター機では千代田光学(ミノルタカメラ)がミノルタ35(1947年発売)で先行、続いて日本光学がニコンⅠ型(1948年)で追随した。また、レンズシャッター機では東京光学がミニヨン35B(1948年)、高千穂光学(オリンパス)はオリンパス35Ⅰ型(1948年)の製品化を行っている。


ニホン判サイズのミノルタ35 

また、海外ではハンガリー・ブタペストの光学メーカー・マジャール光学(Magyar OptikalMovek 略称MOM社)がモメッタ(Mometta)モミコン(Momikon)ブランドのニホン判・ライカコピーカメラを数種製品化している。
マジャール光学がニホン判サイズを採用した理由は不明であるが1949年から1953年迄の期間・マジャール・ニホン判カメラが東欧地区で販売された実績が有る。


貿易庁の輸出不認可によるニホン判画面サイズ変更

第二次世界大戦後の敗戦国・日本の貿易は連合国総司令部(GHQ)の管理下で最小限の貿易が行われており、当時の日本政府機関・貿易庁が1949年の通商産業省設立までの期間輸出入管理を行っていた。

軍需産業から民生カメラへの転換を図った国内カメラ各社は国内需要が壊滅状況にあった事より米国占領軍兵士及び米国本土向けの販売を主力目標にする事を余儀なくされていた。
戦後いち早くニホン判画面サイズによるカメラ生産を復活させた千代田光学(以下ミノルタカメラ)、日本光学、東京光学、高千穂光学(以下オリンパス光学)の4社は対米輸出を行うべく貿易庁への輸出申請を実施したが、①既に米国で普及が始まっていた印画紙オートプリンターのマスクサイズ(24×36mmライカ判)への不適合 ②米国で普及していたスライドプロジェクターによる家庭写真鑑賞用のスライドマウント(24×36mmライカ判)への不適合よりニホン判画面サイズカメラ輸出が不認可となる事態に至った。


ニホン判(24×32mm)とライカ判(24×36mm)の比較
ニホン判のパーフォレーション数は7穴、ライカ判は8穴


この為、ミノルタカメラ、日本光学、東京光学、オリンパス光学の4社はニホン判画面サイズからライカ判画面サイズへの製品仕様変更を余儀なくされ、レンズシャッター機構カメラの東京光学及びオリンパス光学は翌年1949年にボディ構造変更によって画面サイズを拡大した改良製品ミニヨン35C(東京光学)オリンパス35Ⅱ型(オリンパス)を其々発売する対策を行っている。

しかしながら、時代を先取りしたフォーカルプレーンシャッターを搭載していたミノルタカメラ及び日本光学はシャッター機構改良という基本的問題に直面、両社のライカ判画面サイズ対応は、ミリルタ35ⅡB(1958年発売)ニコンSⅡ(1949年発売)までの期間を要する事となった。

この間、ミノルタカメラ及び日本光学の両社は現行フォーカルプレーンシャッターの手直しで画面サイズを24×34mm迄拡大できる事に注目、24×34mmの画面サイズが35mmスライドマウントの中枠サイズ規格(22.5×34.3mm±0.5mm)をぎりぎりクリァー出来る事より仮対応としての当該画面サイズカメラの製品化を行っている。


ニホン判カメラの画面枠(ミノルタ35) 


仮対応製品・ミノルタ35model-c(1949年)及びニコンM(1950年)は其々貿易庁の審査をパス、オキュパイド・ジャパン(Made in Occupied Japan)と刻印された当該カメラが発売される事となった。
J135,35mmロールフィルムの画面サイズには18×24mm、24×24mm、24×36mmの日本工業規格サイズ以外に、24×32mm(ニホン判)そしてライカ判仮対応24×34mmサイズが存在した史実はデジタルカメラ時代の今日、埋没寸前の状況に有る。



24×24mm スクエアサイズカメラ

24×32mmのニホン判画面サイズカメラ共に興味が注がれる24×24mmのスクエアサイズカメラ、JIS規格に規定されるサイズであるが適合機種機極端に少ない。
適合する日本製品としては、1959年発売のマミヤスケッチ(マミヤ光機・当時)が有る。
マミヤスケッチは、当初ハーフサイズ用カメラとしての製品化企画が行われていたが当時の同社・米国代理店より「ハーフサイズカメラは米国で市場性が無い」との指摘を受けて画面サイズ変更を行った事が関連資料に記されている。
当時の米国市場ではブローニーフィルム(120フィルム)を使用するスクエアサイズカメラが多数使用されていた事もあり、35mmロールフィルムによる24×24mm画面サイズカメラも受け入れられた模様である。
この24×24mm画面サイズカメラの海外製品としては、ドイツのツアイス・イコン社が数種類の製品を販売しており、TAXONA(1947年発売)TENAX・Ⅰ型、Ⅱ型等を挙げる事が出来る。これらの製品にはツアイス社が得意とする3群4枚構成のテッサーレンズが搭載されている機種もあり、スクエアサイズの描写性能を楽しむ事も出来る。


24×24mm画面サイズのツアイス・イコン社:TAXONA


TAXONAの画面枠 


フィルム画面サイズをカメラボディに表記したコニカⅡAカメラ

1947年にいち早く戦前の試作機・ルビコンをベースにレンズシャッターカメラ・コニカⅠ型の生産を開始した小西六写真工業(以下・コニカ表記)は、画面サイズ24×36mmのライカ判サイズを採用、コニカの社史によると当該コニカⅠ型の生産台数は5万台と記されており昭和20年代のベストセラー機で有った。

このカメラは対米輸出も行われカメラ軍艦部には前述ニホン判カメラが得られなかった貿易庁輸出認可の証である「Made in Occupied Japan」が刻印されていた。


フィルム画面サイズを表記したコニカⅡ型

コニカは1951年に改良型・コニカⅡ型を発売、カメラを一新したが初期製品のカメラ底部には「Made in Occupied Japan」の表記が残り、更にニホン判画面サイズで無い日本工業規格適合品をアピールする為にカメラ前面・エプロン部に24×36mmの表記を行っていた。


コニカⅡ型のエプロン部
             
当該コニカⅡ型も第二次世界大戦後・占領下の国内カメラ産業の状況を垣間見る事が出来る歴史的製品の1機種という事が出来る。
コニカⅡ型は曲線を取り入れたアールヌーボーをイメージ出来るデザインが印象的であったが、後継機コニカⅢ型では一般的な直線基調デザインに戻っている。


(終)  
    

  




コダック、アグファ、富士フィルムのコーポレートカラー

2015-06-23 14:22:15 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪

≪印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-10≫

印刷コンサルタント 尾崎 章


7月12日は、イーストマン・コダックの創設者:ジョージ・イーストマン(1854~1932年)の誕生日で、ジョージ・イーストマンはガラス乾板製造のイーストマン写真乾板会社を1880年に設立している。1888年に発売した100枚撮りロールフィルム充填済みの簡易カメラ「The Kodak」が大ヒットしてグローバル企業のベースを確立している。

社名になった「Kodak」は、ジョージ・イーストマンが考案した造語で、力強い「K」文字が好きなジョージ・イーストマンは「Kで始まり、Kで終わる」造語を考案したとされている。更にグローバル企業への発展を前提に、世界の様々な言語でも発音しやすいことも考慮したことも報じられている。


外式リバーサルフィルムの世界標準「Koda chrome」 

この「Kodak」のネーミングと同時に黄色をコーポレートカラーとして導入、「活発」「鮮明」「発展」をイメージする黄色は「コダックイエロー」として全世界が認知するところとなった。


懐かしのフィルム、右から「Kodak disc Film」、「Kodak 110」ポケット、「Kodak 126」インスタマチック、「Kodak 127」ロールフィルム 



街から消えたコダックイエロー看板

2012年1月に「米国連邦破産法第11条」の適用をニューヨーク州裁判所に申請したイーストマン・コダックは、2013年9月に法的整理から脱却して基幹事業を写真関連ビジネスからグラフィックアーツ関連事業に事業集約を行う展開を行っている。
こうした展開に伴いコダックの写真ビジネス全盛期に国内各地の写真・DPE店に富士フィルムと競って建てられた「コダックイエロー看板」も姿を消す状況に至っている。


街中DPE店のコダック看板

街角から「コダックイエロー」は姿を消したが、グラフィックアーツ事業分野では積極的なビジネス展開を行っており、「コダックイエロー」は「Changes Everything Yellow」キャッチコピーのベースカラーとしても健在である。


Yellow Changes Everything


グラフィックアーツ領域でのアグファレッド

イーストマン・コダックと共に世界の銀塩写真業界をリードしたアグファ・ゲバルト、写真フィルムビジネスは2004年に別会社:アグファフォトに事業売却を行い当該事業からの撤退を行っている。フィルム事業を継続したアグファフォトも残念ながら僅か一年余の短期間に経営破綻を来たし、その後はアグファフィルムのブランドを獲得したドイツ及び国内企業よりフェッラーニア(イタリア)等のOEMによるアグファブランドフィルムが数種販売された経緯がある。フィルム事業撤退後のアグファ・ゲバルトは、グラフィックアーツ・印刷関連ビジネスを核に活発なグローバル展開を行っており、新聞印刷用プレートビジネスでは過半数の世界トップシェアを有する状況にある。


一世風靡・アグファレッドパッケージのRapid Film


アグファ・ゲバルトのコーポレートカラーは「アグファレッド」と称される朱赤色でパントーンカラー指定では「Worm Red」、網点再現では、M95%+Y100%で再現される色相である。アグファでは、フィルムパッケージは元より各種アグファ製品のパッケージ、広告宣伝・広報活動に「アグファレッド」を多用、ユニークな使用例としては1974年から1984年にかけて販売されたアグファブランド・フィルムカメラのシャッターレリーズボタンに「アグファレッド」を採用している。該当機種としては、1974年発売のAGFA MATIC 4000(110ポケットカメラ), 1977年発売のAGFA OPTIMA1035,1535(コンパクトカメラ) 1980年発売のAGFA SELECTRONIC 1~3(MF一眼レフ)等に見る事が出来る。


アグファ・マチック4000 ポケットカメラ 




アグファ・Selectronic-1


黒基調・無彩色ベースのカメラボディにワンポイントとして配された「アグファレッド」のシャッターレリーズボタンは、カメラに「温かみ」をプラスする好デザインとして高い評価を博した経緯が有る。



アグファレッドのアグファブース(World Publishing Expo2014会場)

    
フジフィルム・グリーンの市場席巻

富士フィルムは、旧社名の富士写真フィルム㈱当時の1958年にコーポレートカラーとして「グリーン」を制定している。
「グリーン」を選定した理由としては、①明るいイメージ色 ②世界的に好まれる色 ③店頭陳列効果が大きい ④業界他社の採用例が無い事を挙げている。


フジフィルム・グリーンで統一されたNeopan SSフィルム

同社は、2008年10月の富士写真フィルム㈱から富士フィルム㈱への社名変更時にも「フジフィルム・グリーン」としてイメージが定着している事よりブランド資産としてコーポレートカラーの継続を行っている。


フジフィルムProvia400XとVelvia100フィルム

添付写真のフィルムパッケージは1952年発売の代表的モノクロネガフィルム「ネオパンSS」と現行カラーリバーサルフィルムで若干の色相変化はあるものの「フジカラー・グリーン」で統一され、競合他社が写真フィルム事業からの撤退・縮小を行っている為にヨドバシカメラ等の大型カメラ店のフィルムコーナーは「フジフィルム・グリーン」で埋めつけられた感がある。
富士フィルムは、街中の富士フィルム看板を掲げたDPE店の店頭配色も「フジカラー・グリーン」を基調とする展開を積極的に行った経緯が有り、現在でも「フジフィルム・グリーン」に統一されたDPE店を見る事が出来る。


フジフィルム・グリーン基調のDPE店


「青窓・白壁」エーゲ海・ミコノス島のフジカラーラボ

エーゲ海の真珠と呼ばれサントリーニ島と共に人気観光地であるミコノス島は、「白壁」「青窓・青扉」を基本とした街並みが大変美しい島である。


エーゲ海の真珠「ミコノス島」

白壁・青窓・青扉の基本ペイントは、レストラン、商店、ホテル、個人住宅は元より教会等々まで徹底化され、エーゲ海の「明るい太陽」「青い海」のもと眩しいばかりの素晴らしい景観を造り出している。


コモノスタウンは、白壁・青窓の基本配色

ではミコノス島の「フジカラーラボの配色は?」の疑問を抱き、同島の撮影訪問時にミノノスタウンの迷路をフジカラーラボ探しで彷徨した経験が有る。
ようやく見つけたフジカラー指定ラボ「PHOTO EXPRESS」は想像に反して「白壁・緑窓」! ここまで徹底した営業指導力を行使できる富士フィルムのビジネス戦略に改めて感動・驚嘆したことは言うまでも無い。


ミコノスタウンのフジカラーラボ          





パンケーキレンズのルーツ、ミノルタER1眼レフ

2015-05-20 16:16:34 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
パンケーキレンズのルーツ、ミノルタER1眼レフ          
印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-9

印刷コンサルタント 尾崎 章

パンケーキレンズと称される薄型標準レンズの人気が高まっている。1960年以降にメカニカルシャッター仕様のMF・マニアルフォーカス1眼レフ用の標準・準広角の補助的レンズとして各社が製品化を行い、2000年以降の製品としては㈱ニコンがメカニカルシャッター・MF1眼レフの最終形として2001年に発売したニコンFM-3の標準レンズとして薄型Aiニッコール45mm F2.8を搭載して話題を集めた事が記憶に新しい。

パンケーキレンズの呼称が広く定着した契機は、パナソニック及びオリンパスによって市場創生が行われたミラーレス1眼レフのコマーシャルである。カメラ好き女優の宮崎あおいさんのCM効果もあり、ミラーレス1眼レフと携行性に優れた薄型レンズの組合せが若い女性に支持され、「パンケーキレンズ」の可愛らしいネーミングも加わり認知度が一挙に高まっている。


ロッコールTD45mmf2.8 最初のパンケーキレンズ 



ニコンの名品 Aiニッコール45mmf2.8 


パンケーキレンズのルーツは、レンズシャッター1眼レフ・ミノルタER

カメラ愛好家にも認知度の低いミノルタERは、ミノルタカメラ(現・コニカミノルタ)が1963年に輸出専用機として製品化したレンズシャッター1眼レフである。
レンズシャッター1眼レフは、1952年にドイツのツアイス・イコン社が普及型1眼レフとしてレンズシャッター1眼レフ・コンタフレックスを発売、欧州カメラ各社が追随したことより欧州を中心としたレンズシャッター1眼レフ市場が創生される展開となった。
国内カメラ各社も海外市場動向に対応すべくレンズシャッター1眼レフの製品対応を開始、1959年に東京光学(現・トプコン)が国内初のレンズシャッター1眼レフ・トプコンPR(16.000円)の発売を行っている。


国内初のレンズシャッター1眼レフ・トプコンPR


東京光学は、1960年にレンズシャッター1眼レフとして世界初のクイックリターンミラー機構搭載のトプコン・ウインクミラーを発売、1961年には追針式露出計内臓のトブコン・ウインクミラーE、1964年は当該機種初のTTL測光方式のトプコン・ユニと矢継ぎ早の製品展開を行い、国内レンズシャッター1眼レフ市場をリードする展開を行っている。


世界初クイックリターンミラー搭載・トプコン ウィンクミラー


東京光学に続けと日本光学、キャノン、富士写真フィルム、リコー、ミノルタ、マミヤ光機、興和精機等が当該市場参入を図ったが、カメラ構造上のトラブルが多くキャノン、富士写真フィルム、リコー、ミノルタカメラ等は1機種のみで市場撤退を行っている。


キャノンのレンズシャッター1眼レフ・キャノネックス 


最後まで健闘した東京光学も1969年発売のトプコン・ユニレックスの生産を1973年に終了、市場撤退を実施した。東京光学・トプコンPRから始まった国内レンズシャッター1眼レフ市場は15年の短命製品市場となった。
ミノルタカメラのミノルタERは、レンズ固定式で有ったが搭載したテッサータイプのレンズ・ロッコールTD45mm f2.8が優秀であった事より、同社は主力フォーカルプレーン1眼レフ・ミノルタSRシリーズ向けの単体レンズとして製品化を行い1964年に9700円の低価格普及型レンズとして販売を開始している。



ミノルタERとロッコールTD45mmパンケーキレンズ 


このロッコールTD45mmF2.8が国内初のパンケーキレンズで、当時はパンケーキレンズの呼称も無く携行性に優れた薄型標準レンズとしてミノルタSR交換レンズ群に追加されている。このロッコールTD45mmf2.8のレンズ鏡同厚は、何と18mmでレンズ交換時に不自由する程の厚みである。パンケーキレンズの呼称定着は、各社の薄型標準レンズが出揃った1990年以降からである。


各社の1眼レフ用パンケーキレンズ

マニュアル&オートフォーカス・フィルム1眼レフ及びデジタル1眼レフ向けにカメラ・レンズ各社が製品化したパンケーキレンズは下記の通りで、最後発のキャノンは2013年に35mmフルサイズ・デジタル1眼レフ用、2014年にAPS-Cサイズ・デジタル一眼レフ向けの製品を発売、当該市場参入を行っている。


各社パンケーキレンズ 


①ロッコールTD45mmf2.8 (ミノルタカメラ) 1964年 ☆
②GNニッコール45mmf2.8 (日本光学)    1969年 ☆
③SMCペンタックスM45mmf2.8(旭光学)   1976年
④ヘキサノンAR40mmf1.8(小西六写真)    1979年 
⑤テッサー45mmf2.8 (京セラ)     1983年 ☆
⑥XRリケノン45mmf2.8 (リコー)     1993年 ☆ 
⑦Aiニッコール45mmf2.8P (ニコン) 2001年 ☆
⑧ペンタックスDA21mmf3.2 (ペンタックス) 2006年 APS-Cサイズ用
⑨フォクトレンダーULTRON 40mm f2(コシナ) 2013年
⑩キャノンEF40mmf2.8STM(キャノン)    2013年
⑪キャノンEF-S21mmf2.8STM(キャノン)  2014年 APS-Cサイズ用
* 社名は発売当時の社名を表記 **☆印はテッサータイプのレンズ構成

    
パンケーキレンズの魅力を高めるテッサータイプレンズ

パンケーキレンズは光学系にテッサータイプ構成を採用するケースが多く、前述11本のパンケーキレンズの内5製品がテッサータイプ、45mmf2.8の同一スペックである。

テッサータイプの光学系は1902年にカールツァイス社が発表したレンズ構成で、凸・凹・凹・凸のレンズを組合せた3群4枚構成のシンプルな光学系で有る。
凸・凹・凸構成のトリプレットレンズ構成に凹レンズ一枚を追加する事によりレンズ諸収差を大幅に削減する事が出来、構成レンズ枚数の少なさに起因する「ヌケの良さ」「クリァー性」も高く、世界から評価・注目された代表的光学系の一例である。カールツァイス社の発表以降は、二眼レフから35mmレンジファインダーカメラ、コンパクトカメラまでの各社製品に幅広く採用された経緯を有している。


テッサー45mmf2.8 パンケーキレンズ


テッサーの名称は、ギリシャ語の「4」を語源とし、カールツァイス社以外の各社は「テッサータイプ」のネーミング・表記を行っている。
テッサータイプはシンプルな光学系の為にレンズ設計者の技量が現れやすく、テッサー及びテッサータイプの各社パンケーキレンズで描写性能比較を楽しむ事も出来る。



筆者は、APS-Cサイズ用以外のパンケーキレンズ全製品を保有しており、カメラ雑誌・日本カメラ(2007年6月号)に「テッサーパンケーキレンズ」特集を掲載する程、パンレーキレンズ愛好家を自負している。
最初に購入したパンケーキレンズは1966年の学生当時にアルバイト代で購入したロッコールTD45mmf2.8で、当時ミノルタカメラがミノルタSRシリーズ1眼レフ用普及型レンズとして製品化していた広角レンズWロッコールQE35mmf4(1965年発売 9700円)と中焦点レンズ・ロッコールTC135mmf4(1960年発売 11800円)も同時期に購入している。両レンズ共に手動で設定絞り値に絞り込むプリセット絞りでロッコールTC135mmは
3群3枚構成のトリプレットレンズで有った。


ミノルタ普及価格レンズ ロッコールTC135mmf4とワイドロッコールQE35mmf4 


「プリセット絞り」「トリプレットレンズ」は高性能化が著しい現在では想像も出来ない非能率・ローテク製品であるが、いずれも現在でも通用する画質を楽しむ事が出来る「懐かしの製品」である。




 
 

   
 

  
           

団塊世代に懐かしのライトパンフイルム、みのりフイルム

2015-04-09 15:43:03 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
団塊世代に懐かしのライトパンフィルム、みのりフィルム          
印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-8

印刷コンサルタント 尾崎 章


1959年発売のオリンパス光学(当時)のハーフサイズカメラ「オリンパス・ペン」(発売当時価格6000円)が創生したハーフサイズカメラ市場は、フィルムがまだ貴重な存在であった当時に「2倍の写真が撮れる」「手軽に携行出来る」として大人気となった。
カメラ各社も競ってハーフサイズカメラ市場に参入、日本光学(当時)旭光学(当時)以外のカメラメーカーが普及型から高級機種、女性向け機種等々、様々な機種のハーフサイズカメラが発売され「ハーフサイズ全盛期」を迎える展開に至った。


短尺フィルムのライトパンSS,みのりフィルムSS

ハーフサイズカメラが普及した時代は、まだ「一枚毎に慎重に撮影する」消費者傾向が残っており、2倍の写真が撮れるハーフサイズカメラで72枚及び40枚の撮影が出来る36枚、20枚撮りフィルムは逆に荷が重い存在となるケースも発生する事になった。
私が写真チェーン店の現像所でアルバイトをしていた1960年後半でも、1本のフィルムに「正月スナップ→花見→海水浴→スキー」等の年間行事が写し込まれているネガフィルムに遭遇して思わず苦笑いをした経験が多い。個人の年間フィルム平均消費量が2本以下の時代であった事より当然起こりうるパターンであった。
ハーフサイズ需要層が押し上げた「もう少し短いフィルムが欲しい」という短尺フィルム需要に応えたフィルムが㈱六和の「みのりフィルムSS」と愛光商会㈱の「ライトパンSSフィルム」で団塊世代には懐かしのブランドである。


「ライトパンSS」と「みのりSSフィルム」(35㎜16枚撮り)


ライトパンSS,みのりフィルムSSは、OEM製品の先駆け。

「みのりフィルムSS」は小西六写真工業(コニカミノルタ)「ライトパンSS」は富士写真フィルム(富士フィルム)より製品供給を受け、1964年当時の価格は「みのりフィルムSS」16枚撮り、「ライトパンSS」16枚撮り共に100円で有った。当時のモノクロフィルム「ネオパンSSフィルム」(富士フィルム 20枚撮り)「コニパンSSフィルム」(小西六 20枚撮り)が150円で有った事より割安フィルムとしての存在感を発揮、「ライトパンSS」16枚撮りは2000年まで販売が継続されるロングライフ製品となった。
「みのりフィルムSS」を販売した㈱六和は、「みのりフィルムSSは、一本100円で買えます!」をキャッチコピーとしてカメラ雑誌等で積極的な販促展開を実施している。
また、「みのりフィルムSS」「ライトパンSS」フィルムは、共に35ミリフィルム以外のロールフィルム市場でもブローニーサイズ6枚撮り(1964年当時 80円)ボルタ判12枚撮り(1964年当時価格 60円)の製品展開を実施している。
特にボルタ判フィルムは、コダックと同様に富士フィルム、小西六写真工業も未参入で有った事より「みのりフィルムSS」「ライトパンSS」が市場を二分する事になった。


ボルタ判フィルム


ボルタ判フィルム市場は、みのりフィルムSSとライトパンSSの独壇場

ボルタ判フィルムは、1936年にボルタ・ベェルグ社(ドイツ)が発売したカメラ「ボルタヴィット」用に製品化されたフィルムでリーダーペーパー(遮光性裏紙)に35mm幅のフィルムを貼ったロールフィルムである。
世界のフィルム市場をリードしていたコダックが当該フィルムの製品化を見送った事より120,135,220等のロールフィルム番号が無く、ボルタ判の総称で呼ばれる事になった。
ボルタ判フィルムを使用する国産カメラの本格展開は、1948年に宮川製作所の「ビクニーB」が最初とされ大和光機・萩本商会、東郷堂等の製品がこれに続きボルタ判低価格カメラ市場が創生されている。
1948年に萩本商会(萩本欣一さん御尊父の会社・大和光機製)が発売したダン35シリーズは、ダン35Mでボルタ判・135ミリフィルム兼用化を図り、ダン35Ⅲでは画面サイズ24×32mmのニホン判対応も行っている。
東郷堂が1951年に発売したボルタ判二眼レフカメラ「ミューズフレックスⅡA」は、1950年に発売され国民的大ヒットした「リコーフレックス」と同等仕様を採用してコンパクト性を武器にボルタ判二眼レフの本格普及を試みている。


「ミューズフレックス」(東郷堂)と7ボルタ判フィルム


しかしながら、1950年に一光堂が発売したプラスチックボディのボルタ判カメラ「スタート35」が、単玉レンズ、2速シャッター、固定焦点の簡略機能と700円の低価格で小学生をターゲットとしたホビーカメラ市場を創生、各社がこれに追随した事より「ボルタ判フィルムは、ホビーカメラ用フィルム」のイメージ定着する事に至っている。
ボルタ判の「みのりSSフィルム」12枚撮りは60円(1964年当時)1991年当時の「ライトパンSS」12枚撮りが170円、フジカラーHR100の供給を受けたボルタ判のネガカラーフィルム「ライトパンカラーHR100」が320円(1991年当時)であった。


「スタート35」(一光堂)とボルタ判フィルム


マミヤが造ったボルタ判カメラ・マミヤマミー

ハーフサイズカメラ「オリンパス・ペン」が発売される1年前の1958年にマミヤ光機(当時)が本格的ボルタ判カメラ「マミヤマミー」(3900円)を発売した。
3群3枚構成のトリプレットレンズ、4速シャッター、シャッターチャージ・セルフコッキング、ファインダー色別表示距離計等々、マミヤらしいスペックを搭載していた。
画面サイズもボルタ判の標準とされて24×24mmから24×28mmに変更、ボルタ判フィルムで10枚撮りを可能としていた。
この「マミヤマミー」、東京・新宿の中古カメラ店等で1万円前後の価格で販売されている事が有り、ボルタ判フィルムのリーダーペーパーとスプールが有れば35mmフィルムを貼り付けて容易にボルタ判フィルムを手造り出来、懐かしのボルタ判撮影を楽しむ事が出来る。


「ライトパンカラーHR100」(ネガカラー)


六和、愛光商会は、どんな会社

「みのりフィルム」を販売した㈱六和は、ロクワブランドの写真用品ビジネスを展開していたが、1962年に小西六写真工業の製品卸業・㈱ひのまるや と合併して社名を㈱チェリー商事に変更、小西六関連の写真材料とチェリーブランドの写真用品ビジネスを展開した。
1987年に小西六写真工業㈱が㈱コニカへと社名変更を行った際に㈱チェリー商事は㈱コニカマーケティングと合併、チェリーブランド製品はコニカブランドに変更されて継続販売が行われたが「みのりフィルム」ビジネスはこの期に終了している。

また㈱コニカマーケティングも2000年のコニカ、ミノルタ合併時に写真用品事業終了に至っている。「みのりフィルム」は、東京・青梅市の小西六グループ工場で生産されたが、当該工場もコニカのフィルムビジネス撤退前後に閉鎖されている。
一方、愛光商会㈱のフィルムビジネスは、1982年「ライトパンカラーⅡ」(35mmネガカラー10枚撮り340円)1991年「ライトパンカラーHR100」(35mmネガカラー10枚撮り330円)とフィルム供給元の富士フィルムのネガカラー展開に合わせた新製品対応を行いライトパンフィルムビジネスを継続した。特にアグファが開発したラピッド方式カメラに対応する「ライトパンカラーⅡ・ラピッド」(1983年 560円)を供給する積極展開は注目を集めた。愛光商会のフィルムビジネスのベースである「ライトパンSS」(モノクロ16枚撮り)は2000年まで販売継続されるロングライフ製品となった。


「マミヤ・マミー」(マミヤ光機)


「アグファ・ラピッド」フィルムと「ライトパンカラーⅡ・ラピッド」


フィルムビジネスを終了した愛光商会は、自社ビル「愛光ビルディング」のテナント業と産業化学薬品の販売業へと業態変革を行ったが、2010年に三井不動産による会社買収により会社解散に至っている。
現在も港区西新橋の外堀通りに10階建の「愛光ビルディング」は残っており、「愛光ビルプレート」から往年の「ライトパンフィルム」ビジネスを忍ぶ事が出来る。
「ライトパンSS」「みのりフィルム」は団塊世代の写真愛好家に懐かしのブランドである。


西新橋・愛光ビルディング



グッドデザイン大賞カメラ オリンパスXA2とキャノンT50

2015-03-13 14:01:09 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
グッドデザイン大賞カメラ オリンパスXA2とキャノンT50

≪印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-7≫

印刷コンサルタント 尾崎 章


グッドデザイン賞は、1957年に当時の通商産業省(現:経済産業省)によって創設された優秀デザイン商品選定制度で現在は公益法人・日本デザイン振興会によって制度運営が行われている。
グッドデザイン賞の対象は、商品デザインの全領域で毎年約1000件の商品が受賞しており、制度創設以来の受賞件数は4万件を超える状況にある。当時の通産省がグッドデザイン商品選定制度を開始した背景には、日本独自のデザイン奨励があり海外商品のデザイン模倣防止も目的に含まれていた。1984年からは全工業製品が対象となり、また1964年から公募方式へと制度変更が行われている。
グッドデザイン大賞は審査員投票数の最多製品に与えられ、2007年より内閣総理大臣賞に位置付けられている。ちなみに同賞のシンボル「Gマーク」は亀倉雄策氏によるデザインである。


グッドデザイン大賞受賞カメラは、オリンパスXA2とキャノンT50の2機種のみ

グッドデザイン賞受賞カメラは数多いが、グッドデザイン大賞受賞カメラは、オリンパスXA2(1980年受賞)とキャノンT50(1983年受賞)の2機種のみである事を知る人は少ない。


グッドデザイン大賞受賞カメラ、オリンパスXA2(左)とキャノンT50(右)


オリンパスXA2

1979年にオリンパス光学(当時)が発売した35mmコンパクトカメラ:オリンパスXAは従来のコンパクトカメライメージを完全に覆した黒色ポリカーボネート樹脂のボディを採用、特に中央部が半球型に盛り上がったスライド式バリアでレンズとファインダーをカバーするカプセル型のユニークデザインで注目を集めた。外観デザインのみならず搭載レンズ・ズイコー35mm f2.8レンズ(5群6枚構成)も優秀でボディ構造の制約を受けながらもコンパクトカメラの水準を大きく上回っていた。


オリンパスXA2

グッドデザイン大賞を受賞したXA2型(34.800円)は、1980年に発売された改良型で焦点調節に3点ゾーンフォーカスを採用して利便性を高めると共にグレー、ブルー、レッド等のボディカラーバリエーションも設定、同色の専用ストロボと共にデザインの魅力を大きく拡大している。

オリンパスXA2のデザインは、日本カメラ史に名を残す同社・開発担当者である米谷美久氏(1933~2009)が担当している。同氏が担当したカメラは、ハーフサイズカメラ市場を創生したオリンパス・ペン、独創技術とデザインで世界が注目したハーフサイズ一眼レフ・オリンパス・ペンF,小型軽量一眼レフ・オリンパスOM1等々、多岐に及んでいる。
晩年の作品には、カメラ好き女優・宮崎あおいさんのCMで女性向けミラーレス一眼市場を短期間に創生したオリンパスEP1が有る。


米谷デザインの傑作 オリンパス ペン

オリンパスXA2のズイコー35mm f2.8レンズは、一眼レフ用の35mm広角レンズと遜色ない描写性能を有し、露光コントロール精度も高くカラーリバーサルフィルム撮影にも問題無く対応した為にサブカメラとして高い支持を得た経緯もある。作例写真は、ドイツ・ミュンヘンとオーストリア・インスブルックを結ぶ鉄道の国境駅:ミッテンバルドのバイオリン博物館前広場を撮影したものでコンパクトカメラとは思えない描写力である。
ミッテンバルドは、バイオリン造りとカラフルなフレスコ画の家並みが魅力の小さな町である。


ミッテンバルド・バイオリン博物館



未来派一眼レフ・キャノンT50

キャノンが1983年3月に発売したフィルム一眼レフ・T50は「新指向・未来派デザインのフィルム一眼レフ」をコンセプトに商品化され、ユーザーの撮影意思に応える自動化機能を優先した単純明快なプログラムAE専用機である。


キャノンT50

当時のフィルム一眼レフはハイアマチュア、カメラマニアの要望に応える為に、絞り優先AE,シャッター速度優先AE,マニアル等、露光制御機能を多様化する傾向にあった。キャノンは、新ジャンル開拓を図るべく「あえてプログラムAE専用機」としており、ストロボ発光制御等の自動化機能を多く搭載した事より「オートマン」の愛称がつけられ注目を集めた。
直線を主体としたシンプルデザインはキャノン社内デザインによるもので、オリンパスXA2に続いて1983年のグッドデザイン大賞を受賞している。
キャノンはT50の上位機種として3年後の1986年に著名工業デザイナー:ルイジ・コラーニ(ドイツ)によるフィルム一眼レフ・T90を発売、樹脂外装の特性を活用した曲線デザインのキャノンT90は1986年のグッドデザイン賞を受賞しているがT50の評価には及ばなかった。

海外の著名デザイナーによるカメラにはジョルジェット・ジュージアーロ(イタリア)による一眼レフ:ニコンF3,F6,D3,ポルシェデザイン事務所(ドイツ)によるコンタックスRTS一眼レフと高級コンパクトカメラ:コンタックスT、マリオ・ベリーニ(イタリア)によるコンパクトカメラ:フジカDL100、アンドレ・クレージュ(フランス)によるコンパクトカメラ:ミノルタAF-Eクレージュ 等々数多くの製品がグッドデザイン賞創設以降に発売されているがグッドデザイン大賞受賞には至って無い。


フジカDL100(マリオ・ベリーニ)


ミノルタAF-Eクオーツデート(アンドレ・クレージュ)



グッドデザイン・ロングライフデザイン賞を最初に受賞したオリンパス・トリップ35

1984年にオリンパス・トリップ35がグッドデザイン・ロングライフデザイン賞をカメラ製品で初受賞している。1968年発売のオリンパス・トリップ35はハーフサイズ判のベストセラー機・オリンパス ペンEESをベースに画面サイズを35mmフルサイズに拡大した小型EEカメラで、当時の国鉄キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」によって創生された旅行ブームにターゲットを当て旅行用カメラ「トリップ」とネーミングしている。


オリンパス トリップ35

同カメラは、「低価格(13.500円)」「簡単な取扱」「ハーフ判と比較にならない描写性能」そして「小型軽量」が女性需要層に評価されて販売期間20年、シリーズ生産台数1000万台を超えるベストセラー機となっている。
グッドデザイン・ロングライフデザイン賞の受賞は、発売より16年目で同賞が正に最適のカメラと云う事が出来る。

グッドデザイン・ロングライフデザイン賞・受賞カメラには、同じオリンパスの一眼レフ:OM-1N(1989年)、中判サイズのフジGX680Ⅱ(2009年)、ペンタックス645(1996年)、コンパクトカメラのキャノンIXYシリーズ(2009年)、そして本編vol-5で紹介のニコンFM10(2012年)がある。当然のことながらグッドデザイン・ロングライフデザイン賞受賞カメラは製品ライフの長いフィルムカメラの独壇場で、製品ライフ2~4年のデジタルカメラには該当製品が無い。


グッドデザイン・ロングライフデザイン賞を受賞した日めくりカレンダー

グッドデザイン・ロングライフデザイン賞を受賞した印刷製品がある。
2012年に新日本カレンダー㈱(大阪)が制作した「日めくりカレンダー」12種がその年のグッドデザイン・ロングライフデザイン賞を受賞している。


新日本カレンダー・日めくりカレンダー

グッドデザイン・ロングライフデザイン賞は、①人々に長く愛され ②日本の生活文化に貢献したデザイン製品に贈られる特別賞で、新日本カレンダー㈱の「日めくりカレンダー」は創業以来90年間に及ぶ製品ライフと2012年に「復刻版・日めくりカレンダー」を加えて日めくりカレンダー文化を継承し続けている事が評価対象になっている。

「毎日めくる事で、一日一日を新しい気持ちでスタート出来る」カレンダーが創生する日めくりカレンダー文化は拡大基調にあると同社はコメントしている。また、担当デザイナー・杉本正人氏によるデザインも秀逸である。
印刷製品がグッドデザイン賞の対象になる事が稀な為に、新日本カレンダー㈱のグッドデザイン・ロングライフデザイン賞受賞は快挙という事が出来る。

(終)