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印刷図書館倶楽部ひろば

“印刷”に対する深い見識と愛着をお持ちの方々による広場です。語らいの輪に、ぜひご参加くださいませ。

月例会報告(平成27年2月度会合より)

2015-02-23 13:52:29 | 月例会
[印刷]の今とこれからを考える 

      「印刷図書館クラブ」月例会報告(平成27年2月度会合より)


●フリーペーパーへの取り組みに何を学ぶか

 印刷会社も結構、フリーペーパーに取り組むようになった。全国ではかなりの数にのぼっていて、しかもスポンサーをつけずに自力で事業化している。多い例では50ページものを18万部、平均的にみても1万5,000部から3万部は確保している。社員が取材、記事作成、編集、ページアップ、印刷のすべてを社内でこなす。印刷機が空いた時間にその印刷をおこなうのだが、「そこまでできるのなら、これも編集してくれ」という依頼や、印刷そのものの仕事も増えてきているそうだ。地元の県内をいくつかの地域に分割し、それぞれの客層を調べて個々のニーズに沿った商品情報を提供したり、住民の去就を詳細に紹介したり、さらには住民の有志を情報提供者として登録するなど、地域にぴったり密着した身近な情報誌に仕立て上げているのが成功の要因だ。印刷会社自身が出版分野にまで手を広げる、こうした動きから、過去の延長線上の“現状第一”では、印刷ビジネスとして限界があるということが分かる。現に、地方の印刷会社の方が全く新しい感覚で経営に当たっている様子が伺える。


●若者たちは「キリシタン版」の印刷を試みる……

 熊本県下のある工業高校が、キリシタン版に用いられた活字の鋳造と印刷を再現する授業(実技指導)をおこなっていて、評判になっている。この科目は、そもそも生徒たちが自ら工業にかかわるテーマを掲げて、実現に向けての計画の立案、資料調査、工具類の製作、組み立て製造などを一貫しておこなう課題研究であるところに特徴がある。6年前からテーマにしているキリシタン版の再現では、そうした教育方針に沿って、実際に資料館訪問、文献調査、そして当時の技術を基本にした母型や鋳型の製作、さらに活字の鋳造、印刷機の製作まで、すべて生徒たちの手でおこなってきたという。活字の鋳造に関して当初の砂型から金型へと切り替えるなど、次第に当時の技法に近づける努力を重ねている。グーテンベルク印刷機を忠実に再現できているわけではないが、印圧を加える方法を改良するには、それなりの創意工夫が必要になる。実際にキリシタン版を印刷していた頃にも、人知れず努力が注がれていたはずで、その事実を生徒たちが身をもって感じることができるという、実技ならではの教育効果が得られているようだ。


●紙メディアや印刷に対する関心を高めるために

 かつてのキリシタン版の印刷方法をトレースしている高校生にとっては、感動的な経験になるに違いない。実技のためにいつの時代の印刷技術を使っているのだろうか、どうやって印刷したのだろうか、実際に見てみたい。当時、表面が粗い和紙に活字を押し付けて高品質に印刷することは、非常に大変だったはず。そのような難題の一端でも高校生たちが体験することは、例え将来、印刷人にならなくても、印刷メディアを支えてくれる貴重な“財産”となるだろう。モバイル端末、タブレットPCが普及して便利な社会になったが、その反面「手づくり」に関心を抱く若い人が増えていると聞く。「再生紙を開発したのは日本人」と教えると、学生たちは大いに興味をもってくれる。そのようなことからでも、紙メディアや印刷に関する関心を高めてくれることを願っている。


●「ファブレス工場」と「ファウンドリー工場」の狭間で

「ファブレス工場」という経営用語がある。「製造工程をもっていない工場」という意味だが、海外企業に生産委託するグローバル化、国内企業に製造を依頼するネットワーク化、あるいは自社製品のOEM化などで存在感を高めている。その一方には「ファウンドリー工場」という形態がある。直訳すれば「鋳物工場」となるが、要は生産工程の土台となる部分、つまり素材づくりから始めて部品加工、さらに最後の製品組み立てまで一貫しておこなう工場のことを指している。すべて自社で内製するので量産体制が築け、生産管理も容易といった有利な点がある。しかし、企業環境が激変する時代にあっては、動きの鈍さ、制約の多さが足枷となって、返って経営を苦しくしている面がある。ファブレス工場が製品の企画・設計・販売、ファウンドリー工場が製造を担うと考えれば、決定権はあくまでファブレス工場にある。ファウンドリー工場ではブランド製品をつくり難く、取引上のイニシアティブや付加価値も取れない。それなのに、日本のあらゆる産業のメーカーは歴史上、疑うことなく、総合的なファウンドリー工場であり続けることに意義を見出してきた。それが今、逆に弱みとなっている……。


●印刷会社はファウンドリー工場としてやってきたが

 書籍や雑誌をつくる“大きな産業”を前提とするなら、企画デザイン・編集を受け持ってきた出版社はファブレス工場、印刷・製本工程を担当する印刷会社はファウンドリー工場ということになるだろう。両者はこれまで分離したかたち(分業)でお互いに協力し合ってきた。印刷会社は製造に集中するために大型の生産設備を導入して、出版社の多様な要請に応えてきた。出版市場が拡大し続け、印刷機の減価償却が容易にできていた時代は、この関係でよかった。しかし、取引(受発注)の絶対量が減ってしまった今、付託に応えたいと思って導入した設備の減価償却を負担し切れない状況が生まれている。編集と製造を離してきた分業の意味が消えつつある。このことが、印刷会社の経営が厳しくなった要因の一つとなっている。商業印刷分野についても同じことがいえるのではないか。


●印刷会社はファブレス工場化を考えてみては?

 印刷・出版産業の枠を広く捉えるなら、ファブレスとファウンドリーの両方の性格(機能)をもっていることになる。分業を基本に、市場環境の変化に沿ったビジネスモデルを上手につくれれば、もっと伸びていけるはずである。データ加工やメディア制作に強い印刷会社が川上工程に遡って、ファブレス工場化することで、新たな道も開けてくる。顧客支援のマーケティング機能を強め、顧客密着の営業体質型印刷会社になれば、ファブレス工場に変身できる。それとも、あくまで生産に特化した製造業体質の印刷会社として生き抜くか。生産集中で設備の稼働率を高め、減価償却を速めて、将来にわたって最新設備を購入し続けられるか。印刷業は今、両者に二極分化する傾向にあるが、印刷産業のなかで相互の受発注関係を築けることも強みとなる。


●せっかく製作した印刷メディアの売り先を考えよう

 印刷会社はこれまで、自社で製作した印刷製品の売り先づくりをあまり考えてこなかったきらいがある。発注者(直接の顧客)しか見てこなかったせいか、印刷業界はサプライチェーンづくりが一番遅れている。発注者の要請には応えられても、せっかくつくった紙メディアを最終顧客に届けることができなかった。日本ではすでに、多様な小口需要が無限に広がっているロングテールの時代を迎えたといわれる。大量生産すれば、無条件に売れるというわけではない。どこかで必要とされている価値を探り出し、いかに的確に売るべきかを考えるべきである。


●最終顧客につながる価値を提供できるビジネスを

 産業構造、市場環境、需給関係が一変したことに、印刷会社はなかなか気づけない。印刷業界に限らず、どの業界も自身の産業構造が固まってしまっているが故に、新しい産業の将来像を描けないのかも知れない。関係する取引チャンネルにはそれぞれ既得権という厄介なものがあり、それが変身の制約となっているケースもみられる。どうしても目先の現象的な売れ具合を先決にしがちだ。これでは、未償却の印刷機が取り残されるだけである。印刷産業としてのあり方を再検討して、最終顧客につながる独自のシステムを構築する必要がある。そのためには、印刷産業全体で取り組み、そのうえで需給市場の全体像を見つめ直すことから始めたい。大きな視野での創造性がなければ、時代に即したビジネスモデルは見出せないだろう。

グーテンベルグ・ミュージアムの本木昌造とマインツ街歩き

2015-02-10 14:07:33 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
グーテンベルグ・ミュージアムの本木昌造とマインツ街歩き

印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-6

印刷コンサルタント 尾崎 章

ライン川とマイン川の合流地点にある都市・マインツは交易上の重要拠点、そしてドイツ3大・大聖堂とされる975年起工の大聖堂を有する宗教都市として繁栄を極めた歴史的経緯が有る。更に「黄金のマインツ」と称えられたマインツは「近代印刷技術の父」とされるグーテンベルグの生誕地でも有り、1455年に出版された「グーテンベルグ聖書」(四十二行聖書、200部発行)を展示するグーテンベルグ・ミュージアムは印刷人にとって必見のミュージアムである事は言うまでも無い事である。


マインツ中央駅から徒歩10分のグーテンベルグ・ミュージアム
マインツ中央駅から路面電車に沿ってバーンホフ通り、シラー通りを東に進み、シラー広場をデパートや専門店の並ぶルードヴィッヒ通りに左折すると正面に大聖堂を望む事が出来る。グーテンベルグ像の立つグーテンベルグ広場を過ぎて次のリーブラウェン広場の一角に目指すグーテンベルグ・ミュージアムがある。


グーテンベルグ・ミュージアム入口部分


マインツ中央駅


シラー通りと路面電車


グーテンベルグ像



リーブラウェン広場とグーテンベルグ・ミュージアム


リーブラウェン広場には書籍のモニュメントが多数設置されており、マインツ市のグーテンベルグ・ミュージアムへの思い入れを見る事が出来る。またマインツ大聖堂、グーテンベルグ像、グーテンベルグ・ミュージアムを始めとする当該地区の建物はいずれもライトアップされており、薄暮の時間帯には更に美しい景観を楽しむ事が出来る。


マインツ大聖堂


薄暮のグーテンベルグ・ミュージアム



グーテンベルグ・ミュージアムの本木昌造
グーテンベルグ・ミュージアムには、各国の印刷に関する歴史展開を紹介するコーナーがあり、日本コーナーでは「日本のグーテンベルグ」と称される本木昌造が紹介されている。
長崎の蘭学者であった本木昌造(1824~1875)は日本の漢字に適した「蝋型電胎法」による本木活字を創り、明治初期の新聞・雑誌印刷に多用され国内の活版印刷技術確立に大きく貢献した事より「日本のグーテンベルグ」と称えられている事は周知の通りである。
グーテンベルグ・ミュージアムは、以前より本木昌造に注目していたが展示すべき資料も無く、同館の日本コーナーは大手印刷会社寄贈の活字を展示する程度に止まっていた。
2000年以前に数回グーテンベルグ・ミュージアムを訪問して日本コーナーの実情を把握していた小職は、「本木活字復元プロジェクト」による蝋型電胎法に準拠した本木活字復刻終了の偉業を称え当該資料のグーテンベルグ・ミュージアム展示を実現すべく同館の極東担当であったハンネローレ・ミュラー女史に意向打診を行い、2004年6月に㈱インテックス 内田信康代表取締役社長(当時:長崎県印刷工業組合理事長、本木昌造顕彰会会長、近代活字保存会会長)とマインツを訪問、関連資料の寄贈を行った経緯がある。


内田信康氏とハンネローレ・ミューラー女史

グーテンベルグ・ミュージアム館長:ハネバン・ベッツ博士は日本の活版印刷技術を確立した本木昌造に関する資料寄贈を歓び常設展示を決定、今日に至っている。
内田信康氏は、長崎・諏訪神社に保存されていた本木活字の鋳型を造る為の木製「種字」3293本に注目、これをベースに本木活字復元プロジェクトを㈱モリサワ・森澤嘉昭会長と共に立ち上げた国内印刷史に特記される功労者で「世界のトップレベルに有る日本印刷技術の根幹となった本木活字の復元は、印刷人としてのささやかな恩返し」の名言は日経新聞でも広く紹介され、印刷界はもとより広く産業界から称賛された事は記憶に新しい。
昨年(2014年)秋のドイツ出張時にグーテンベルグ・ミュージアムを訪問、日本コーナーは本木昌造の写真と活字、そして内田信康氏より寄贈を紹介する説明文のみを展示する内容に整理されている事を確認している。


日本コーナーの本木昌三展示(2005年時)


写真ファンにも楽しいマインツ街歩き、懐かしのアグファフィルム看板の健在

グーテンベルグの街・マインツは、フィルム写真・フィルムカメラファンにも楽しい街歩きが出来る。
マインツ中央駅からグーテンベルグ・ミュージアムを目指す途中のシラー通・シラー広場に面した写真店foto rimbachにアグファフィルムの立派なビルボード看板を見る事が出来る。


シラー通りの写真店


懐かしのアグファ看板

アグファ・ゲバルトは2004年11月にフィルム事業部門を別会社:アグファ・フォトに売却して事業撤退、アグファ・フォトも2005年5月に破産申請を行い世界3位のフィルムメーカーは終焉を迎えている。その後、MAKO社(ドイツ)フェッラーニァ社(イタリア)製のフィルム供給を受けたアグファブランドのフィルムが数社より発売された時期もあったが、現在は当該製品を見ることも無くなっている。
アグファフィルム全盛期には、欧州の至るところで見られたアグファレッド看板は懐かしのシーンとなったが、マインツ:foto rimbachのアグファビルボード看板は、往年のアグファを忍ぶ貴重な歴史的存在となった。


ルードヴィッヒ通りの写店


フイルムカメラが並ぶ中古カメラコーナー

アグファ看板を過ぎルードヴィッヒ通りに入ると右手にライカショップの看板を掲げた写真店BESIER OEHLINGがある。同店は中古カメラコーナーも有り数十台の中古フィルムカメラの販売を行っている。日本と並ぶ写真大国のドイツは、各都市に中古カメラ店が健在でブラブラ街歩きで中古カメラ店を見出した時の悦びもドイツ旅行の大きな楽しみである。

以上