印刷図書館倶楽部ひろば

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団塊世代に懐かしのライトパンフイルム、みのりフイルム

2015-04-09 15:43:03 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
団塊世代に懐かしのライトパンフィルム、みのりフィルム          
印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-8

印刷コンサルタント 尾崎 章


1959年発売のオリンパス光学(当時)のハーフサイズカメラ「オリンパス・ペン」(発売当時価格6000円)が創生したハーフサイズカメラ市場は、フィルムがまだ貴重な存在であった当時に「2倍の写真が撮れる」「手軽に携行出来る」として大人気となった。
カメラ各社も競ってハーフサイズカメラ市場に参入、日本光学(当時)旭光学(当時)以外のカメラメーカーが普及型から高級機種、女性向け機種等々、様々な機種のハーフサイズカメラが発売され「ハーフサイズ全盛期」を迎える展開に至った。


短尺フィルムのライトパンSS,みのりフィルムSS

ハーフサイズカメラが普及した時代は、まだ「一枚毎に慎重に撮影する」消費者傾向が残っており、2倍の写真が撮れるハーフサイズカメラで72枚及び40枚の撮影が出来る36枚、20枚撮りフィルムは逆に荷が重い存在となるケースも発生する事になった。
私が写真チェーン店の現像所でアルバイトをしていた1960年後半でも、1本のフィルムに「正月スナップ→花見→海水浴→スキー」等の年間行事が写し込まれているネガフィルムに遭遇して思わず苦笑いをした経験が多い。個人の年間フィルム平均消費量が2本以下の時代であった事より当然起こりうるパターンであった。
ハーフサイズ需要層が押し上げた「もう少し短いフィルムが欲しい」という短尺フィルム需要に応えたフィルムが㈱六和の「みのりフィルムSS」と愛光商会㈱の「ライトパンSSフィルム」で団塊世代には懐かしのブランドである。


「ライトパンSS」と「みのりSSフィルム」(35㎜16枚撮り)


ライトパンSS,みのりフィルムSSは、OEM製品の先駆け。

「みのりフィルムSS」は小西六写真工業(コニカミノルタ)「ライトパンSS」は富士写真フィルム(富士フィルム)より製品供給を受け、1964年当時の価格は「みのりフィルムSS」16枚撮り、「ライトパンSS」16枚撮り共に100円で有った。当時のモノクロフィルム「ネオパンSSフィルム」(富士フィルム 20枚撮り)「コニパンSSフィルム」(小西六 20枚撮り)が150円で有った事より割安フィルムとしての存在感を発揮、「ライトパンSS」16枚撮りは2000年まで販売が継続されるロングライフ製品となった。
「みのりフィルムSS」を販売した㈱六和は、「みのりフィルムSSは、一本100円で買えます!」をキャッチコピーとしてカメラ雑誌等で積極的な販促展開を実施している。
また、「みのりフィルムSS」「ライトパンSS」フィルムは、共に35ミリフィルム以外のロールフィルム市場でもブローニーサイズ6枚撮り(1964年当時 80円)ボルタ判12枚撮り(1964年当時価格 60円)の製品展開を実施している。
特にボルタ判フィルムは、コダックと同様に富士フィルム、小西六写真工業も未参入で有った事より「みのりフィルムSS」「ライトパンSS」が市場を二分する事になった。


ボルタ判フィルム


ボルタ判フィルム市場は、みのりフィルムSSとライトパンSSの独壇場

ボルタ判フィルムは、1936年にボルタ・ベェルグ社(ドイツ)が発売したカメラ「ボルタヴィット」用に製品化されたフィルムでリーダーペーパー(遮光性裏紙)に35mm幅のフィルムを貼ったロールフィルムである。
世界のフィルム市場をリードしていたコダックが当該フィルムの製品化を見送った事より120,135,220等のロールフィルム番号が無く、ボルタ判の総称で呼ばれる事になった。
ボルタ判フィルムを使用する国産カメラの本格展開は、1948年に宮川製作所の「ビクニーB」が最初とされ大和光機・萩本商会、東郷堂等の製品がこれに続きボルタ判低価格カメラ市場が創生されている。
1948年に萩本商会(萩本欣一さん御尊父の会社・大和光機製)が発売したダン35シリーズは、ダン35Mでボルタ判・135ミリフィルム兼用化を図り、ダン35Ⅲでは画面サイズ24×32mmのニホン判対応も行っている。
東郷堂が1951年に発売したボルタ判二眼レフカメラ「ミューズフレックスⅡA」は、1950年に発売され国民的大ヒットした「リコーフレックス」と同等仕様を採用してコンパクト性を武器にボルタ判二眼レフの本格普及を試みている。


「ミューズフレックス」(東郷堂)と7ボルタ判フィルム


しかしながら、1950年に一光堂が発売したプラスチックボディのボルタ判カメラ「スタート35」が、単玉レンズ、2速シャッター、固定焦点の簡略機能と700円の低価格で小学生をターゲットとしたホビーカメラ市場を創生、各社がこれに追随した事より「ボルタ判フィルムは、ホビーカメラ用フィルム」のイメージ定着する事に至っている。
ボルタ判の「みのりSSフィルム」12枚撮りは60円(1964年当時)1991年当時の「ライトパンSS」12枚撮りが170円、フジカラーHR100の供給を受けたボルタ判のネガカラーフィルム「ライトパンカラーHR100」が320円(1991年当時)であった。


「スタート35」(一光堂)とボルタ判フィルム


マミヤが造ったボルタ判カメラ・マミヤマミー

ハーフサイズカメラ「オリンパス・ペン」が発売される1年前の1958年にマミヤ光機(当時)が本格的ボルタ判カメラ「マミヤマミー」(3900円)を発売した。
3群3枚構成のトリプレットレンズ、4速シャッター、シャッターチャージ・セルフコッキング、ファインダー色別表示距離計等々、マミヤらしいスペックを搭載していた。
画面サイズもボルタ判の標準とされて24×24mmから24×28mmに変更、ボルタ判フィルムで10枚撮りを可能としていた。
この「マミヤマミー」、東京・新宿の中古カメラ店等で1万円前後の価格で販売されている事が有り、ボルタ判フィルムのリーダーペーパーとスプールが有れば35mmフィルムを貼り付けて容易にボルタ判フィルムを手造り出来、懐かしのボルタ判撮影を楽しむ事が出来る。


「ライトパンカラーHR100」(ネガカラー)


六和、愛光商会は、どんな会社

「みのりフィルム」を販売した㈱六和は、ロクワブランドの写真用品ビジネスを展開していたが、1962年に小西六写真工業の製品卸業・㈱ひのまるや と合併して社名を㈱チェリー商事に変更、小西六関連の写真材料とチェリーブランドの写真用品ビジネスを展開した。
1987年に小西六写真工業㈱が㈱コニカへと社名変更を行った際に㈱チェリー商事は㈱コニカマーケティングと合併、チェリーブランド製品はコニカブランドに変更されて継続販売が行われたが「みのりフィルム」ビジネスはこの期に終了している。

また㈱コニカマーケティングも2000年のコニカ、ミノルタ合併時に写真用品事業終了に至っている。「みのりフィルム」は、東京・青梅市の小西六グループ工場で生産されたが、当該工場もコニカのフィルムビジネス撤退前後に閉鎖されている。
一方、愛光商会㈱のフィルムビジネスは、1982年「ライトパンカラーⅡ」(35mmネガカラー10枚撮り340円)1991年「ライトパンカラーHR100」(35mmネガカラー10枚撮り330円)とフィルム供給元の富士フィルムのネガカラー展開に合わせた新製品対応を行いライトパンフィルムビジネスを継続した。特にアグファが開発したラピッド方式カメラに対応する「ライトパンカラーⅡ・ラピッド」(1983年 560円)を供給する積極展開は注目を集めた。愛光商会のフィルムビジネスのベースである「ライトパンSS」(モノクロ16枚撮り)は2000年まで販売継続されるロングライフ製品となった。


「マミヤ・マミー」(マミヤ光機)


「アグファ・ラピッド」フィルムと「ライトパンカラーⅡ・ラピッド」


フィルムビジネスを終了した愛光商会は、自社ビル「愛光ビルディング」のテナント業と産業化学薬品の販売業へと業態変革を行ったが、2010年に三井不動産による会社買収により会社解散に至っている。
現在も港区西新橋の外堀通りに10階建の「愛光ビルディング」は残っており、「愛光ビルプレート」から往年の「ライトパンフィルム」ビジネスを忍ぶ事が出来る。
「ライトパンSS」「みのりフィルム」は団塊世代の写真愛好家に懐かしのブランドである。


西新橋・愛光ビルディング



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