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印刷図書館倶楽部ひろば

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デジタルカメラ全盛時に存在感を高める現行・フィルムカメラ4製品

2017-05-15 15:16:09 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪

印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-30・最終回
印刷コンサルタント 尾崎 章

フィルムカメラの年間出荷量は、2002年にデジタルカメラに逆転(フィルムカメラ2366万台、デジタルカメラ2455万台)を許して以来急速に減少、2007年の79万台を最後にカメラ映像工業会はフィルムカメラの出荷統計を終了している。
フィルムカメラを短期間で駆逐したデジタルカメラもスマートフォン、タブレット端末の内蔵カメラ機能の充実による影響を受け、2010年の1億2000万台越えをピークに減衰に転じデジタルカメラ各社のビジネスが苦戦を強いられている事は周知の通りである。

こうした状況下、大型・中型フィルムカメラを使用する一部写真家に加えて女性を中心とした富士フィルム・インスタント写真「チェキ」の愛用者増加、中古フィルムカメラ市場への女性顧客増等、若い女性主導により銀塩写真フィルム分野が賑わいを見せている。
銀塩写真に人気復活に感光材料メーカーも反応、早々とフィルム市場から撤退したイーストマン・コダックが明年を目標としたカラーリバーサルフィルム再生産を発表する等、フィルム関係者が「戸惑う」事態・現象が生じている。
熟年男性の「加齢臭」が漂っていた新宿西口の中古カメラ店では、ジャンク箱を「発掘」する若い女性グループに遭遇する機会が増加、若い女性の「こだわりフィルムカメラ人気」を確認・確信することが出来る。
中古カメラ店・店主の表情も女性顧客を相手にするケースが増加したことより、加齢臭顧客を相手にしていた当時よりも「にこやかに?」になっている事も特記される事項である。


フィルムカメラ好きの人気女優もフィルムカメラ市場を牽引

NHK連続テレビ番組「とと姉ちゃん」、映画「湯を沸かすほどの熱い愛」でブルーリボン賞、日本アカデミー賞を筆頭に数々の映画賞を受賞した人気女優・杉咲 花さんは「こだわりを持てるモノ」を大切にしており、その筆頭がフィルムカメラである。
杉咲さんは常時フィルムカメラを携行、キャノンまたは富士フィルムのAFコンパクトカメラをバックに入れているフィルムカメラ派である。
杉咲さんは、「撮影枚数が限られたフィルムカメラで、一枚一枚を大切に撮る悦び」をフィルムカメラ最大の魅力とコメントしており、当該関連記事が日経新聞ウエブ版でも紹介され、杉咲ファンは元よりフィルムカメラファンより熱い支持を得ている。
女性フィルムカメラファンは、杉咲さんと同様に「失敗するかもしれない緊張感」「露出を自分で調節する楽しさ」と「一枚一枚を大切に撮る悦び」をデジタルカメラには無いフィルムカメラの新鮮な魅力として挙げて、フィルムカメラ友達・仲間も増やしている状況にある。


販売継続中のフィルムカメラは、4機種

現在、カメラ店で購入できる国産フィルムカメラは次の4機種である。
(インスタントカメラを除く、2017.4末時点)


製品名/仕様/店頭価格/発売日の順で表記


㈱ニコン

●FM10/マニアルフォーカス一眼レフ 35~70mmズームレンズ/81.000円/1995.11. 9

●F6/オートフォーカス一眼レフ ボディ単体/372.600円/2004.10.22


キャノン㈱

●EOS-1V/オートフォーカス一眼レフ  ボディ単体/212.700円/2000. 3.23


富士フィルム㈱
●GF670Professional/6×7判スチールカメラ/246.000円/2015. 1.30



ロングライフ製品の記録カメラとしての更新中のニコン・FM10

ニコンのマニアルフォーカス一眼レフ・FM10がロングライフ製品記録を更新中で、今秋で発売22年目を迎えることになる。
当機の魅力は、マニアルフォーカス、手動フィルム巻き上げ・巻き戻し、ファインダー内インジケーターによるマニアルTTL測光等々、フィルム一眼レフの基本性能のみに徹したシンプルさである。


発売22年目のニコン・FM10、パンケーキレンズ装着




当機はオートフォーカス時代の写真後進国需要向けとして㈱コシナよりOEM調達した製品であるが、多機能デジタル一眼レフ全盛期にも関わらずカメラ基本性能に徹した「シンプルさ」が支持されてロングラン製品となっている。
正しく「一枚の写真を大切に撮る」という女性写真愛好家のポリシーに合致した貴重な製品と評価されている。
また豊富なニッコールレンズ群が使用できるポイントも見逃せない魅力である。
小職は、パンケーキレンズを装着して「最軽量フィルム一眼レフ」として魅力を堪能している。


フラッグシップモデルのロングラン製品・キャノンEOS-1V

キャノンは、AFフィルムカメラ最終期の2000年に発売したフラッグシップ一眼レフのEOS-1Vの販売を継続中である。
当該製品も発売17年目のロングラン製品となり、デジタル一眼レフEOD-5D等と併用されるケースが多いと報じられている。


キャノンのフィルム一眼レフ・EOS-1V

 


フィルム一眼レフ最後の新製品 ニコンF6

ニコンは、2004年10月に同社フラッグシップ・フィルム一眼レフの新製品・ニコンF6を新規発売している。
ニコンF(1959年発売)から始まった同社フラッグシップ一眼レフシリーズは、1996年発売のニコンF5がデジタル一眼レフの市場動向より最終製品になるとの「もっぱらの噂」が定着していた。この予想に反して2004年に発売されたニコンF6は、「驚き」と「さすがニコン」との感銘をもって迎えられた経緯がある。
ニコンでは、F6をベースにマニアック仕様のデジタル一眼レフ・ニコンDfを2013年に発売、F6と同様に国内・仙台工場で生産された同機はニコンF6製品化に関わる生産技術をそのまま継承する製品化対応により注目を集めた経緯がある。
「ニコンF6保有ユーザーの多くがニコンDfを購入する」と想定した販売戦略と国内生産品質・技術の高さを確認・体感したフィルム一眼レフマニアの「垂涎的製品」となっている。
ニコンDfのベースになったニコンF6は、ニコンのフィルム一眼レフ最終製品であることより仕様面、操作性面の完成度は非常に高い。


フィルム一眼レフ最後の新製品、ニコンF6




マニアル操作基調のニコンDf



 
フィルムカメラ・最後の国内新製品は、Fuji GF670 Professional

富士フィルムは、2015年3月に中判レンジファインダーカメラ・Fuji GF670 Professionalを発売して注目を集めた。
同社は、1968年に6×9判サイズのレンジファインダーカメラ・フジカG690を発売して中判フィルムカメラ市場に参入、2015年までに6×7、6×9、6×4.5の中判フォーマットカメラ・25機種以上を製品化してプロフェッショナル及びハイアマチュアの風景写真ニーズに対応している。
特に35ミリカメラと同等のハンドリング性を有した当該シリーズカメラは、三脚不要として山岳写真家にも支持されロングライフ製品シリーズとしてカメラ史に特記されている。



国産フィルムカメラ最後の新製品 Fuji GF670 Professional





2015年3月に発売された新製品・GF670 Professionalは、スプリングカメラ方式によるカメラの薄型化を実現、山岳写真家の更なる支持を得ている。



筆者愛用機 Fuji GW670Ⅱ Professional




富士フィルムでは、毎年2月に開催される東洋最大規模の写真カメラ展「CP+」に当該機を出展していたが、残念ながら数年前より出展見送り状態が続いている。
「写真フィルム文化の継承」をテーマに120,220フィルム等の中判ロールフィルムの供給を続ける富士フィルムの企業姿勢を、当該中判カメラ・GF670 Professionalからも明確に見ることが出来る。
カラーリバーサルフィルムの生産から撤退したイーストマン・コダックが明年を目標に当該フィルムの再生産を発表している。富士フィルムの企業努力によって供給が維持され、若い女性も含めた写真フィルム愛好家による需要回復現象がコダックの事業方針変更を促したものと筆者は判断している。

富士フィルムは、「かけがえのない文化として、銀塩写真の魅力を伝え続ける」として製品は減少したものの各種フォーマットの供給を継続しており、同社の企業姿勢は国内外より高く評価されている。
日本写真学会誌の表4広告は富士フィルムの定位置となり、毎号「フィルム表現、つづく」をキャッチコピーとした同社のコンセプト広告が記載されている。
この広告コンセプトが長く継続される事をフィルムエンジニアの一員として祈念するばかりである。 
 
   
日本写真学会誌 表4「富士フィルム・コンセプト」広告








 

TTL測光のパイオニア・トプコンREスーパーと、TTL語源論争、印刷材料・CTPは?

2017-04-12 13:11:31 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪

印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-29
印刷コンサルタント 尾崎 章

1963年5月に東京光学機械㈱(現:㈱トプコン)が世界初のTTL測光方式の一眼レフ「トプコンREスーパー」を発売して世界の注目を集めた。
「トプコンREスーパー」は、装着レンズの開放絞りで測光出来る開放測光方式にも対応、1964年に発売されたTTL測光の二番手・旭光学「ペンタックスSP」が絞り込み測光にとどまり、更にキャノンのTTL開放測光対応が1971年であった事、等々より東京光学の先進技術が世界に実証された「歴史的名機」となっている。


東京光学 トプコンREスーパー




トプコンREスーパーのミラー測光技術

東京光学は、当時の親会社である㈱東芝の技術協力を得て世界初のミラーメーターを開発、「トプコンREスーパー」に搭載している。
ミラーメーターは、一眼レフのミラーをスリット状のハーフミラーとする高度の真空蒸着技術加工を施してファインダー視野を妨げずにミラーを透過した透過光を測光して適性露光を求める方式である。


トプコンREスーパーのミラーメーター


 

更に東京光学は、装着レンズの開放絞りでの測光及びフォーカシングを可能とする開放測光技術を世界に先駆けて開発、開放測光に不可欠な装着交換レンズの開放絞り情報を連動ピンでカメラボディに伝える連動ピン方式も同時に新開発している。
このレンズ情報をボディに伝える連動ピン方式は、業界標準として定着した事は周知の事項である。
東京光学は、当該TTL測光方式を1960年に「撮影レンズの透過光を測定する方式の露出計を組み込んだ自動プリセット式一眼レフ」として特許出願(1967年・特許公告)、キャノン、ニコン、ミノルタ等のカメラ各社がパテント料を支払ってTTL一眼レフの製品化を行っている。
東京光学は、ドイツ・ケルン市で開催される世界最大の写真機材展「フォトキナ1963展」
に「トプコンREスーパー」を出展、世界のフォトジャーナリストから「カメラ史の1ページを記す偉大な発明」として絶賛を博している。


トプコンREスーパーの開放測光・連動ピン




システムカメラとしても高い完成度を有したトプコンREスーパー

「トプコンREスーパー」が競合他社に与えたインパクトはTTL測光にとどまらず、システムカメラとしての充実度も挙げることが出来る。
当時は、日本光学「ニコンF」がシステムカメラとしての頂点にあったが、システムカメラとしての高い充実度を伴った「トプコンREスーパー」が一気に形勢逆転を図っている。
システムカメラとして注目された特長は次の通りである。

①調整無でカメラに装着できるモータードライブ機能(世界初、3コマ/秒)

②250枚撮り長尺フィルムマガジン

③ミラーアップ無で装着可能な25mmレトロフォーカス型広角レンズ(世界初)

④ペンタブリズム交換式、各種ファインダー対応

⑤眼底カメラ、手術用顕微鏡等のメディカル対応。

アメリカ海軍は、「トプコンREスーパー」の性能及び豊富な多用途対応性を評価して従前の「ニコンF」から「トプコンREスーパー」へ海軍正式規格カメラの変更を実施している。この海軍正式規格カメラの変更に伴い空母、空母艦載機、潜水艦、各種艦艇に「トプコンREスーパー」が搭載される展開に至っている。



TTL測光のコンセプト発表は、旭光学が先行

1960年開催の「フォトキナ」展で旭光学工業㈱(当時)は「ペンタックス・スポットマチック」の試作機を展示して注目を集めている。「ペンタックス・スポットマチック」は直径3mmのcds受光部を取り付けた腕木バーをフォーカシングスクリーンの中央部に繰り出して測光する方式で、標準レンズの約1/15の狭角度で受光することより「スポットマチック」のネーミングでスポット測光をアピールしている。
しかしながら、当該機能の実用化が難しく、ファインダー接眼窓の両側に小型cds受光部を配した平均測光の「ペッタックスSP」を「トプコンREスーパー」の一年遅れで発売する展開に至っている。


旭光学 ペンタックスSP



当該機は絞り込み測光等の仕様面で「トプコンREスーパー」よりも劣ったものの「ペンタックスSV」等で普及型一眼レフ市場をリードしていたことより「ペンタックスSP」も普及型TTL一眼レフとして11年のロングセラーを記録するヒット商品になっている。



TTLの語源論争


1963年に東京光学が「トプコンREスーパー」を発売して際には、「TTL測光」の用語は無く、東京光学では「ミラーメーター方式」という表現を行っていた。
東京光学の社史「東京光学50年史」には、海外向け説明書作成時に翻訳を担当した速川賢一氏が考案した造語で「Through The Lens」の頭文字を採った造語であることが記載されている。
この「Through The Lens」に対して国内外より異論が唱えられ「TTL論争」が生じた懐かしい経緯がある。
その論点は次の通りである。

①露出計の受光部には集光レンズが一般的に取付けられており、外付け露出計でも「Through The Lens」になる。

②撮影レンズの透過光を測定することより「Through the Taking Lens」の頭文字が正論である。

③撮影レンズの後面で測光する為に「Behind Taking Lens」、BTL測光の表記が正論である。

「Through the Taking Lens」論は、東京写真大学・加藤春男助教授(当時)等の学識経験者が正当性を主張、「BTL」は米国・ベルハウエル社等が主張したが、TTL測光のパイオニアである東京光学が「Through The Lens」説を採用したこともあり、略語論争は自然に消滅する展開に至っている。
1964年に旭光学が発売した「アサヒペンタックスSP」を「アサヒカメラ」(1964年10月号)がニューフェイス診断で取り上げた際には、「TTL・スルーザレンズ」の記述が各所に見られ、これ以降「TTL=スルーザレンズ」表現・記述が固定化することになった。


トプコンREスーパー発売当初のカメラ雑誌広告、TTL表記は無い




世界初のTTLレンズシャッター一眼レフ・トプコンユニを発売



 
印刷材料・CTPは

1993年9月に米国・シカゴで開催された印刷展示会・Graph Expo展でイーストマン・コダック社が「KODAK Direct Image Thermal Plate830」のプロトタイプを展示、注目を集めた。
続いてコダックは、1995年開催のDRUPA1995展で当該プレートのライブデモを実施、サーマルCTP時代の先駆けとなるプレートメイキングシステムの商品化に成功している。
一方、富士写真フィルム(当時)もDRUPA1995展で高感度フォトポリマープレートLPAを発表してコダックに対抗している。
「CTP」は周知の如く「Computer To Plate」の頭文字を採ったもので、黎明期には製版フィルム無で直接プレートメーキングが可能となる事より、「ダイレクトプレート」の名称・呼称が使用された時期もある。
しかしながら、1970年代に電子写真方式及び銀塩写真方式による版下から直接プレートを作成するダイレクトプレート、カメラプレートと称される軽印刷向けの高感度プレートが商品化されており、830nmの赤外レーザー光源を使用するサーマルプレート、フォトポリマープレートは「CTP」「Computer To Plate」の呼称が一般化する展開に至っている。


サーマルCTPプレート「プレートの二重表記」



「CTP」の呼称は、2000年代初頭には完全に定着したが、デジタル印刷機による「Computer To Press」との混同も生じやすく、「CTPプレート」の重複表示がカタログ等々で使用されるケースが一般化している。Computer To Plateシステム用プレートと解釈すれば不自然な「プレート重複表示」問題も解決できる。

以上




銀塩写真、活版印刷に続く 転写陶器印刷「ブルーウィロー」の国内ルーツ・長崎

2017-03-08 16:47:15 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 番外編-1
印刷コンサルタント 尾崎 章


長崎市内の印刷会社に対する技術サポートで頻繁に長崎を訪れた経緯がある。
大型システム納入時には、土日を挟んだ長期対応となり休日には「長崎市内ぶらぶら歩き」の機会も増加することになる。2000年初頭の休日にカステラで高名な「文明堂総本店」前を通った際にウィンドウに飾られている「オランダ焼」と書かれた「ブルーウィロー」の大皿に目が止まり店内で展示の経緯を聞いたことがある。

同店からは「創業当時からの保有」「購入経緯は不明」「定期的に展示している」との説明を受けている。
17世紀以降、鎖国状況にあった日本は、欧州との交易窓口を長崎・出島に限定したことは周知の通りで駐在したオランダ商館員からオランダ・マストリッヒ市で製造された磁器が出島の外に持ち出されており、これらの磁器は「オランダ焼」として幕府役人及び富裕層に貴重品扱いされた経緯がある。
この「オランダ焼」を代表する絵柄が「ブルーウィロー」である。


近代文明のルーツ・長崎(大浦天主堂)



文明堂総本店のブルーウィロー 





中国から欧州へ輸出された景徳鎮磁器の人気絵柄「ウィローパターン」


18世紀初頭、中国・景徳鎮製の磁器が大量に欧州諸国に輸出された経緯がある。
磁器製作法を会得できない当時の欧州諸国は、中国より輸入した精巧な磁器に憧れ、ステータスシンボルとして扱われていた。
中国磁器・ディナーセットの代表的絵柄としては、中国の山水画で「ウィローパターン」と呼ばれた悲恋物語を描いたデザインを挙げることが出来る。
「ウィローパターン」は、中国高級官僚の娘「クーン・セ」と地方役人の子息「チャン」の悲恋物語で、
①娘の交際を嫌ったクーン・セの父親が娘を塀で囲った楼閣に閉じ込める。
②二人の仲に好意的な使用人の手助けにより駆け落ちを行い、橋の上を追手から逃げる。
③二人は、小舟で沖合の島に脱出するが追手に迫られて入水自殺
④二人を悲しんだ神によって鳥に姿を変えた二人が天空を飛翔するストーリーである。
この「柳、楼閣、塀、橋、島、船、鳥」を配した山水画は人気が高く高級食器の絵柄として長く定着する事になる。
  
 
オランダ・マストリッヒのブルーウィロー





英国で考案された銅版転写陶器印刷


1780年に英国人・トーマス・ターナーによって銅板転写陶器印刷が実用化されると、精密な絵柄の大量生産が可能となり、イギリスに続いてオランダも銅板転写陶器印刷に追随・参入を開始している。
コバルトブルーを使用した銅板転写陶器印刷は、人気のウィローパターンを主力の絵柄としては採用したことより「青い柳・ブルーウィロー」と呼ばれ、ミントン、スボード、ウェッジウッド等のメーカーが「ブルーウィロー」磁器を生産、急速な普及を見せている。

江戸時代末期に日本国内に輸入された「ブルーウィロー」は、当時の幕府より交易を許されたオランダ製品に限られ、オランダ・マストリッヒ市の陶磁器会社:ペトルス・レグー社の製品が多く見られている。前述の文明堂総本店のオランダ焼「ブルーウィロー」もマストリッヒのペトルス・レグー社で生産されたものと推察することが出来る。
同社は日本が開国した4年後の1858年より日本向けの本格輸出を開始、小皿、ケーキ皿、ディナーセット等が長崎・出島を経由して日本に持ち込まれている。「ブルーウィロー」は、日本の・山水画に似通っていた事もあり、輸出の主力製品になったことが記録されている。
現在でも、長崎市内・めがね橋に近い古川町周辺の骨董店でオランダ・マストリッヒ製の「ブルーウィロー」を数多く見かけることが出来る。

 

長崎・出島夜景



ブルーウィローを展示するめがね橋付近、古川町の古美術商





オキュパイド・ジャパンのブルーウィロー

日本国内でも明治時代に入ると銅板転写陶器印刷による陶器生産が開始され、絵柄もオランダ、イギリスに倣ってウィローパターンが用いられるケースが多々見られている。
しかしながら、生産技術が低く「類似品」レベルの品質に止まっていた。
国内の「ブルーウィロー」本格生産は、第二次世界大戦後にピークを迎え、米国向け輸出用として「OCCUPIED JAPAN」と記された製品が大量生産されて戦後復興期の外貨獲得に貢献した経緯がある。現在でも地方骨董商、古物店の片隅で500円程度の「OCCUPIED JAPAN」の「ブルーウィロー」を見かける事が多い。


戦後に国内生産されたブルーウィロー



オキュパイド ジャバンのブルーウィロー




現在も生産されているブルーウィロー

銅板転写陶器印刷の発祥地であるイギリスでは「ブルーウィロー」の人気が高く、ロンドンの大手デパート「ハロッズ」には「ブルーウィロー」のアンティーク品コーナーが設けられている。また、1970年より「ブルーウィロー」の生産を開始していた大手陶器メーカー・SPODE社は、「THE SPODE BLUE ROOM COLLECTION」として「ブルーウィロー」復刻版製品の生産・販売を開始している。この復刻版も上記「ハロッズ」で購入することが出来る。
国内では、創業1908年の大手陶器メーカーである㈱ニッコー(本社・石川県松任市)が「山水」シリーズと題して「ブルーウィロー」を生産、現在も生産を継続している。


イギリス・スポード社のブルーウィロー復刻品



国内・ニッコーのロングライフ製品・山水シリーズ




MADE IN OCCUPED JAPAN の カメラ

第二次世界大戦終了後の1945~1952年までの期間、敗戦国日本は連合国(GHQ)の占領下にあり、民間貿易は大きく制限されていた。民間貿易が再開された1947年からサンフランシスコ講和条約が発効する1952年迄の約5年間は輸出工業製品に「MADE IN OCCUPEID JAPAN」の明記が義務付けられていた。
対象製品には、前述の陶器製品、玩具、日用品そしてカメラ等を挙げることが出来る。
MOJマークと略された「MADE IN OCCUPIED JAPAN」カメラの代表例としては、コニカⅠ型(1947年 現コニカミノルタ)ミノルタ35・Ⅰ型(1947年 現コニカミノルタ)ミニヨン35(1949年 現トプコン)等を挙げることが出来る。


1947年発売のミノルタ35・Ⅰ型



ミノルタ35-Ⅰ型のMOJマーク




また、連合国駐留兵士向けの土産品を主要需要としたMOJマーク付き豆カメラも当該時期には数多く生産され、代表例としては小西六写真(現・コニカミノルタ)が生産したリーダーペーパー付16mmフィルムを使用する豆カメラ「スナッピー」、理研光学工業(現・リコーイメージング)の16mmフィルムカメラ「ステキー」等を挙げることが出来る。
いずれのカメラもカメラ底部または、軍艦部・トップカバーにMADE IN OCCUPIED JAPANと記されていた。
MOJマーク付き製品のコレクターは多く、特に製品数が少ないMOJカメラは人気が高い。また、1947年生まれの団塊世代・カメラマニアが「誕生年カメラ」として収集するケースもありと聞いている。

 
 1947年発売のコニカⅠ型



コニカⅠ型のMOJマーク
 


以上
          

広末涼子さんのマミヤスケッチ、織作峰子さんのミノルタオートコード、美人が保有する正方形画面カメラの魅力

2017-02-13 11:15:18 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
広末涼子さんのマミヤスケッチ、織作峰子さんのミノルタオートコード、美人が保有する正方形画面カメラの魅力

印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-28
印刷コンサルタント 尾崎 章


1839年にフランスの化学者・ダゲールが考案した銀塩写真法・ダゲレオタイプは、正方形ピントグラスを付けた組み立て式の木製暗箱型カメラを標準仕様としていた。
1900年に米国・コダック社が発売した6×6cm判・6枚撮りカメラ「ザ・ブローニー」は、小型正方形の反射型ファインダーを内蔵、ファインダーで被写体及び画面構成を確認して撮影する「今日の撮影概念」が創生される展開に至っている。
また、「ザ・ブローニー」のファインダーが正方形であった事も起因して縦位置・横位置を意識せずに撮影できる「スクエアサイズ」カメラが定着する契機造りが行われている。
スクエアサイズは、光学的にレンズが形成するイメージサイクルを最も効率的に使用できるメリットが有り6×6判の「四角い画面」は、1933年発売のローライ二眼レフによる二眼レフブームも加わり「標準的な中判フォーマット」として世界に定着することとなった。


コダック ブローニー・フラッシュⅡ




ローライが創生した6×6二眼レフ市場

1929年、ドイツ・フランケ&ハイデック社が初の二眼レフ「ローライフレックス」(117フィルム・8枚撮り)を発売、続いて1933年には普及型二眼レフ「ローライコードⅠ型」を発売して高い市場評価を得ることに成功している。これ以降「二眼レフの王道」を同社は歩み続ける事となった。
国内の6×6判・二眼レフ展開は、1937年は発売された「ミノルタフレックス」(モルタ合資会社→千代田光学→ミノルタカメラ)と「プリンスフレックス」(深田商会)が最初の製品とされている。
第二次世界大戦終了後には光学兵器生産から民需に転換した光学企業からの二眼レフ生産が相次ぎ、特に構造が簡単な二眼レフは「四畳半企業」と呼ばれた家内工業的な企業からの製品も加わり80社以上の企業から100種を超える二眼レフが製品化されたとされている。
アルファベット26文字のうち、「J」「U」「X」以外の頭文字製品があった二眼レフは1957年には年間生産台数が37万台を超えたことが記録されている。
国内二眼レフのヒット製品は、1950年発売の「リコーフレックスⅢ」(理研光学→リコーイメージング)で、本体価格5800円の価格メリットもあり大ヒット製品となり戦後の写真文化発展に大きく貢献している。
二眼レフの国内最終製品は、「ヤシカ124G」(ヤシカカメラ)で1988年に販売を終了、発売20年のロングセラー製品の販売終了と共に国内二眼レフ市場は幕を閉じている。


リコーフレックス 
 


国産最終二眼レフ・ヤシカマット124G





美人写真家・織作峰子さんが牽引するミノルタオートコード二眼レフの中古市場

美人写真家として人気の織作峰子さんが雑誌の愛機紹介で「ミノルタオートコードcds」を度々採り上げた事から中古カメラ市場で同機の人気が一層高まり、市場価格も発売当時価格34.000円の1.5~2倍レベルに高騰する状況が続いている。
1981年のミスユニバース日本代表に選ばれた織作峰子さんは写真家を目指して1982年に写真家・大竹省二氏に師事、1987年に独立して今日に至っている。
織作さんは、師匠・大竹省二氏より貰受けた「ミノルタオートコードcds」を愛機として現在もポートレート撮影、ファッション撮影に使用している事を雑誌記事で紹介している。


ミノルタオートコードcds



織作さんは、「ロッコールレンズの優秀性」「シャープネスの高さ」「ポートレート撮影時のハンドリング性」を愛機の条件として採り上げている。
国内二眼レフのパイオニアであるミノルタカメラ(当時)は、1965年発売の最終モデル「オートコードcdsⅢ」「オートコードⅢ」迄の28年間に20機種を超える二眼レフを生産、独自の「フィルム搬送機能」「ロッコールレンズの優秀性」「リーダーペーパー無の220フィルム対応」等でプロフェッショナルの高い支持を得た経緯がある。
コマーシャル写真で著名な写真家・大倉舜二氏も「ミノルタオートコード」を「ローライフレックス」を凌駕するとして愛用。ミノルタカメラが当該機の生産終了を発表した際には、最終モデルの「ミノルタオートコードⅢ」を5台まとめて購入して今後に備えた逸話も残っている程である。


評価の高いオートコード・ロッコール75mmレンズ




広末涼子さんのマミヤスケッチ


1959年5月にマミヤ光機(当時)が発売した「マミヤスケッチ」(12.800円)は、国産カメラ唯一の画面サイズ24×24mmの正方形画面・スクウェアフォーマットのカメラである。
当時の35mmカメラは、露出計搭載、距離計内蔵、そしてレンズの大口径化等によってカメラ本体が大型化し携行性が低下する傾向があった。
この問題に注目したマミヤ光機は、①35mmフィルムを使用する手軽なカメラ ②撮影時に縦・横のアングルに応じてカメラを持ち直す必要のない正方形カメラをコンセプトに「マミヤスケッチ」の製品化を行っている。


マミヤスケッチ




しかしながら、発売半年後にオリンパス光学から同様コンセプトのハーフサイズカメラ「オリンパスペン」(6.000円)が発売され「マミヤスケッチ」は想定市場を「オリンパスペン」に席巻される状況に陥っている。距離計内蔵、最速シャッター1/300秒、35mm f2.8レンズ搭載等、スペック面では若干の優位性を有していたが「価格差1/2」の「オリンパスペン」に対抗することは不可能で「マミヤスケッチ」は僅か一年弱の商品ライフを余儀なくされている。「マミヤスケッチ」は生産期間が短く、低価格カメラの為に廃棄されたケースが多く中古カメラ市場では程度の良いカメラが少ない「希少カメラ」として取引されていた。
この「マミヤスケッチ」をフィルムカメラマニアの人気女優・広末涼子さんがテレビトーク番組にカメラ持参で出演したことより「広末涼子のマミヤスケッチ」として人気が急上昇している。
程度の良い「マミヤスケッチ」は、60.000円超の価格で取引されているが、「広末効果」が加わり中古カメラ店の店頭で見かける機会は更に稀となった。



正方形画面の魅力

正方形画面の基本は「日の丸構図」で、写真を撮影する人の意識が長方形画面と異なり中央部に集中することによりインパクトの高い写真撮影が出来る特長を有している。
二眼レフの「ローライ」「ミノルタオートコード」そして「マミヤ6」等の正方形画面カメラの人気が現在も高い理由に「日の丸構図」が挙げられるケースも多い。

正方形・日の丸画面構図(サンフランシスコ) 

  
 
        

フィルム一眼レフ、懐かしき露光制御技術展開

2017-01-13 11:33:28 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪

印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-27
印刷コンサルタント 尾崎 章


デジタル一眼レフでは当たり前の露光制御・コントロール技術がマニュアルフォーカス・フィルム一眼レフ当時には大きなセールスポイントになるプライオリティを有していた懐かしい経緯がある。35mm・フィルムカメラへの露出計搭載は、1957年発売の「オリンパスワイドE」(オリンパス光学・18.900円)がセレン光電池露出計を国内初搭載、エレクトロニクスの頭文字・Eを製品名に付記している。

雑誌「写真工業」(2006,1)の「コニカF」紹介記事



一眼レフへのセレン露出計搭載は、1959年発表の「コニカF」が初対応モデルで、1/2000秒高速シャッター、絞り・シャッター速度に連動する露出計を搭載した当時世界最高スペックを有する「コニカF」は世界の注目を集めた。しかしながら、縦走り金属シャッターの生産性及び保守問題解決が難しく僅か900台の生産に止まり、800台は米国向けに出荷され国内販売は見送られた記録が残されている。
フォーカルプレーン一眼レフへのセレン露出計搭載は、感度の低いセレン露出計の問題等より見送られるケースが多く、搭載例としては「キャノンRM」(キャノン1962)に見られた程度であった。



レンズシャッター一眼レフは、競ってセレン露出計を搭載

一眼レフへのセレン露出計搭載は、ファミリー需要向けのレンズシャッター一眼レフがペンタブリズムカバー部への露出計搭載で先行した。
製品例としては、「ニコレックス」(日本光学1960)、「トプコン・ウィンクミラーE」(東京光学1961)、「コーワフレックスE」(興和 1961)、「マミヤファミー」(マミヤ光機 1962)、「ミノルタER」(ミノルタカメラ 1963)、「キャノネックス」(キャノン 1963)、「リコー35フレックス」(リコー 1963),「フジカフレックスⅡ」(富士写真フィルム1964)等々 各社が当該一眼レフの製品化を競った経緯がある。しかしながら、レンズシャッター一眼レフは、交換レンズの制約等よりフォーカルプレーンシャッター搭載一眼レフ普及製品が各社より発売される展開に伴って短期間で需要が減衰、TTL測光方式レンズシャッター一眼レフの製品化展開は、東京光学と興和2社限りの寂しい状況であった。


ミノルタカメラ・「ミノルタER」


  
 
キャノン・「キャノネックス」




世界初、フィルム一眼レフにCds露出計を搭載したミノルタSR7


ミノルタカメラは、1962年発売の同社フラッグシップ一眼レフ「ミノルタSR7」に世界初の外光式Cds(硫化カドミウム)露出計を搭載した。
直径12mmの受光レンズを組合せた高感度Cds露出計は、ASA感度100でf1.4・1秒からf11 1/1000秒 迄の広範囲をカバーする性能を有していた。同年に米国航空宇宙局・NASAが有人宇宙船・フレンドシップ7号にミノルタカメラを搭載、同時にミノルタの測光技術を認めて宇宙船専用露出計の開発契約を締結した事より、ミノルタカメラは「宇宙時代の最高級一眼レフ」をキャッチコピーに販促展開を繰り広げた経緯がある。


ミノルタカメラ・「ハイマチック」




ミノルタカメラ・「ミノルタSR-7」




「ミノルタSR7」に続けと、カメラ本体に外光式Cds露出計をビルトインした製品が発売されている。製品名としては、「キャノンFX」(キャノン1964)、「コニカFM」(小西六写真1964)「ヤシカペンタJ3」(ヤシカ1964)「ペトリフレックス7」(ペトリ1963)、「ミランダ オートメックスⅢ」(ミランダカメラ1964)と、今は無きメーカーの懐かしき製品も並ぶ展開となった。
しかしながら、「ミノルタSR7」発売の2年前・1960年にドイツ・ケルンで開催されたフォトキナ展で旭光学がTTL露出計搭載の「ペンタックスSP」を参考出品、1963年には東京光学が親会社である東芝の技術支援を受けてミラーメーター方式による「世界初のTTL一眼レフ・トプコンREスーパー」を発売、一眼レフ露出測光方式の一大改革が行われ、前述の外光式露出計搭載は3年弱の短命方式となっている。


旭光学・「ペンタックス スポットマチック」




世界初、分割測光機能を搭載したミノルタSRT101 

東京光学「トプコンREスーパー」に3年遅れて1966年にミノルタカメラはTTL測光方式の一眼レフ「ミノルタSRT101」を発売、当該市場への参入を開始した。
「ミノルタSRT101」は、ファインダー情報を水平に分割、それぞれにCds受光素子を配して適正露光を求める水平二分割測光を世界に先駆けて採用、測光技術に関する対応力の高さを再び世界にアピールしている。
「縦位置撮影では?」の指摘も受けたが露出測光精度は大幅に高まり今日のデジタル一眼レフに「当然の機能」として付加されている分割測光のルーツが「ミノルタSRT101」にある事は忘れられた事項となっている。


ミノルタカメラ・「ミノルタSRT101」




絞り優先、シャッター速度優先を両立した世界初の一眼レフ・ミノルタXD

初期のTTL測光方式の一眼レフでは、ファインダー内の指針に対してシャッター速度・絞り・フィルム感度と連動する追針を重ねる「追針式」とファインダー内の定点マークにシャッター速度・絞り・フィルム感度と連動する指針を合わせる「定点式」があり、撮影者は撮影意図に応じてシャッター速度、絞り値、を変えて適正露出による撮影を実施していた。
1970年代に入るとTTL測光方式の一眼レフは、第二世代「AE一眼レフ」へと進歩、1971年発売の「ペンタックスES」(旭光学)を筆頭に、「ニコマートEL」(日本光学1972年)「ミノルタXE」(1974年)「フジカST901」(1973年)「オリンパスOM2」(1975年)「キャノンAE1」(1976年)と各社AE一眼レフが登場することになる。
この時に「シャッタースピード優先AE方式」と「レンズ絞り優先AE方式」の賛否展開が繰り広げられ、シャッター速度優先AE方式の「キャノンAE-1」がモータードライブと組み合わせた「連写一眼!」CMを展開して、絞り優先AE方式の「ペンタックスES」「ニコマートEL」等を抑えて大きくシェアを拡大した経緯がある。

この「シャッター速度優先、絞り優先論争」に終止符を打ったAE一眼レフが1977年発売の「ミノルタXD」である。


ミノルタカメラ・「ミノルタXD」




「ミノルタXD」は、絞り・シャッター両優先AE一眼レフカメラながらコンパクトなボディを基調としたハンドリング適性にも優れ豊富な交換レンズ群を有するシステムカメラとして世界の注目も集めている。
当時、協力関係にあったドイツ・ライカ社へもライセンス供与が行われ、「ライカR4」から「ライカR7」までのモデルが「ミノルタXD」をベースに製品化されている。
「ミノルタXD」は、1982年に生産を終了したが「ライカR7」は1997年迄生産され、ミノルタの露光制御技術の先進性が実証された史実が残されている。


ミノルタXDの測光切り替え A・絞り優先 S・シャッター速度優先


ミノルタカメラがリードする形で展開したフィルム一眼レフの露光制御技術展開は、現在市販されている入門用デジタル一眼レフの全てが対応しておりセールストークには成り得ない当然の機能となっている。「ミノルタXD」発売から40年、フィルム一眼レフの露光制御技術展開は一部マニアの「懐かしの記憶」となった。