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印刷図書館倶楽部ひろば

“印刷”に対する深い見識と愛着をお持ちの方々による広場です。語らいの輪に、ぜひご参加くださいませ。

短命に終わったニホン判画面サイズ

2015-07-31 10:45:45 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-11

印刷コンサルタント 尾崎 章


日本工業規格・JIS B7115(1950年制定)では、J135フィルム(35mm有孔ロールフィルム)の画面サイズを次の3種類と定めている。
      JIS B7115 ロールフィルム用画面サイズ
      ① 18×24mm  (シネ判)
      ② 24×24mm
      ③ 24×36mm  (ライカ判)

JIS規格・35mmフィルム画面サイズ(18×24mm、24×24mm,24×36mm)


ところが第二次世界大戦直後の1947~1948年にかけて画面サイズ24×32mmのニホン判と称する画面サイズが存在した経緯が有る。

  
短命に終わったニホン判画面サイズ

第二次世界大戦直後のフィルムが貴重品であった時代に、やや横長のライカ判と称されていた24×36mm画面サイズのバランス補正と画面サイズ短縮による撮影枚数増を目的に企画された24×32mm画面サイズがニホン判である。

ニホン判画面サイズの場合は、J135フィルム36枚撮りで40~41枚の撮影が可能となる他に、縦横比2対3のライカ判サイズと六切り・四切りサイズ印画紙の縦横比(2対2.4)が異なる事により引き伸ばし時に生じる画面トリミングを省略できるメリットを有していた。

ニホン判のカメラは、フォーカルプレーンシャッター機では千代田光学(ミノルタカメラ)がミノルタ35(1947年発売)で先行、続いて日本光学がニコンⅠ型(1948年)で追随した。また、レンズシャッター機では東京光学がミニヨン35B(1948年)、高千穂光学(オリンパス)はオリンパス35Ⅰ型(1948年)の製品化を行っている。


ニホン判サイズのミノルタ35 

また、海外ではハンガリー・ブタペストの光学メーカー・マジャール光学(Magyar OptikalMovek 略称MOM社)がモメッタ(Mometta)モミコン(Momikon)ブランドのニホン判・ライカコピーカメラを数種製品化している。
マジャール光学がニホン判サイズを採用した理由は不明であるが1949年から1953年迄の期間・マジャール・ニホン判カメラが東欧地区で販売された実績が有る。


貿易庁の輸出不認可によるニホン判画面サイズ変更

第二次世界大戦後の敗戦国・日本の貿易は連合国総司令部(GHQ)の管理下で最小限の貿易が行われており、当時の日本政府機関・貿易庁が1949年の通商産業省設立までの期間輸出入管理を行っていた。

軍需産業から民生カメラへの転換を図った国内カメラ各社は国内需要が壊滅状況にあった事より米国占領軍兵士及び米国本土向けの販売を主力目標にする事を余儀なくされていた。
戦後いち早くニホン判画面サイズによるカメラ生産を復活させた千代田光学(以下ミノルタカメラ)、日本光学、東京光学、高千穂光学(以下オリンパス光学)の4社は対米輸出を行うべく貿易庁への輸出申請を実施したが、①既に米国で普及が始まっていた印画紙オートプリンターのマスクサイズ(24×36mmライカ判)への不適合 ②米国で普及していたスライドプロジェクターによる家庭写真鑑賞用のスライドマウント(24×36mmライカ判)への不適合よりニホン判画面サイズカメラ輸出が不認可となる事態に至った。


ニホン判(24×32mm)とライカ判(24×36mm)の比較
ニホン判のパーフォレーション数は7穴、ライカ判は8穴


この為、ミノルタカメラ、日本光学、東京光学、オリンパス光学の4社はニホン判画面サイズからライカ判画面サイズへの製品仕様変更を余儀なくされ、レンズシャッター機構カメラの東京光学及びオリンパス光学は翌年1949年にボディ構造変更によって画面サイズを拡大した改良製品ミニヨン35C(東京光学)オリンパス35Ⅱ型(オリンパス)を其々発売する対策を行っている。

しかしながら、時代を先取りしたフォーカルプレーンシャッターを搭載していたミノルタカメラ及び日本光学はシャッター機構改良という基本的問題に直面、両社のライカ判画面サイズ対応は、ミリルタ35ⅡB(1958年発売)ニコンSⅡ(1949年発売)までの期間を要する事となった。

この間、ミノルタカメラ及び日本光学の両社は現行フォーカルプレーンシャッターの手直しで画面サイズを24×34mm迄拡大できる事に注目、24×34mmの画面サイズが35mmスライドマウントの中枠サイズ規格(22.5×34.3mm±0.5mm)をぎりぎりクリァー出来る事より仮対応としての当該画面サイズカメラの製品化を行っている。


ニホン判カメラの画面枠(ミノルタ35) 


仮対応製品・ミノルタ35model-c(1949年)及びニコンM(1950年)は其々貿易庁の審査をパス、オキュパイド・ジャパン(Made in Occupied Japan)と刻印された当該カメラが発売される事となった。
J135,35mmロールフィルムの画面サイズには18×24mm、24×24mm、24×36mmの日本工業規格サイズ以外に、24×32mm(ニホン判)そしてライカ判仮対応24×34mmサイズが存在した史実はデジタルカメラ時代の今日、埋没寸前の状況に有る。



24×24mm スクエアサイズカメラ

24×32mmのニホン判画面サイズカメラ共に興味が注がれる24×24mmのスクエアサイズカメラ、JIS規格に規定されるサイズであるが適合機種機極端に少ない。
適合する日本製品としては、1959年発売のマミヤスケッチ(マミヤ光機・当時)が有る。
マミヤスケッチは、当初ハーフサイズ用カメラとしての製品化企画が行われていたが当時の同社・米国代理店より「ハーフサイズカメラは米国で市場性が無い」との指摘を受けて画面サイズ変更を行った事が関連資料に記されている。
当時の米国市場ではブローニーフィルム(120フィルム)を使用するスクエアサイズカメラが多数使用されていた事もあり、35mmロールフィルムによる24×24mm画面サイズカメラも受け入れられた模様である。
この24×24mm画面サイズカメラの海外製品としては、ドイツのツアイス・イコン社が数種類の製品を販売しており、TAXONA(1947年発売)TENAX・Ⅰ型、Ⅱ型等を挙げる事が出来る。これらの製品にはツアイス社が得意とする3群4枚構成のテッサーレンズが搭載されている機種もあり、スクエアサイズの描写性能を楽しむ事も出来る。


24×24mm画面サイズのツアイス・イコン社:TAXONA


TAXONAの画面枠 


フィルム画面サイズをカメラボディに表記したコニカⅡAカメラ

1947年にいち早く戦前の試作機・ルビコンをベースにレンズシャッターカメラ・コニカⅠ型の生産を開始した小西六写真工業(以下・コニカ表記)は、画面サイズ24×36mmのライカ判サイズを採用、コニカの社史によると当該コニカⅠ型の生産台数は5万台と記されており昭和20年代のベストセラー機で有った。

このカメラは対米輸出も行われカメラ軍艦部には前述ニホン判カメラが得られなかった貿易庁輸出認可の証である「Made in Occupied Japan」が刻印されていた。


フィルム画面サイズを表記したコニカⅡ型

コニカは1951年に改良型・コニカⅡ型を発売、カメラを一新したが初期製品のカメラ底部には「Made in Occupied Japan」の表記が残り、更にニホン判画面サイズで無い日本工業規格適合品をアピールする為にカメラ前面・エプロン部に24×36mmの表記を行っていた。


コニカⅡ型のエプロン部
             
当該コニカⅡ型も第二次世界大戦後・占領下の国内カメラ産業の状況を垣間見る事が出来る歴史的製品の1機種という事が出来る。
コニカⅡ型は曲線を取り入れたアールヌーボーをイメージ出来るデザインが印象的であったが、後継機コニカⅢ型では一般的な直線基調デザインに戻っている。


(終)  
    

  




月例会報告 2015年7月度

2015-07-21 16:17:53 | 月例会
[印刷]の今とこれからを考える 

        「印刷図書館クラブ」月例会報告(平成27年7月度会合より)





●一世を風靡したワインの広告ポスターをいま一度

 大手洋酒メーカーが大正末期に制作したワインの広告ポスター――セミヌードの女性をモデルにした、当時としては度肝を抜く斬新な図柄も相まって、社会的に大きな反響を巻き起こしたことはよく知られる。そのポスターは、ドイツで開かれた世界ポスター展で1位になったことから、我が国の広告ポスター史に燦然と輝く1ページを飾っている。しかも幸いなことに、刷り本が印刷図書館に現存されていて、多くの印刷人が目にしたことのある貴重な印刷史料ともなっている。印刷人としては、別の視点からこのポスターに関心を寄せるべき理由がある。それは、大正時代に一世を風靡したカラー刷りポスターを可能にした最新の印刷技術が、果たしてどのような状況であったかということである。

●人工着色の妙技は印刷技術史の価値ある“遺産”

 最終的に菊全判10色に及んだHB写真製版プロセスについての詳細な技術的説明はさておき、当時、モノクロ写真に人工着色を施して、それを印刷原稿として採用していたことは注目に値する。このポスターも撮影されたネガからモノクロ画像を印画紙に焼き付け、その写真の上にデザイナーが彩色してセピア調に仕上げている。1枚の写真印画紙(反射原稿)からパンクロ乾板と色フィルターを用いて色分解し、連続階調の分解ネガにつくり分けたという。さらに大型の製版カメラで拡大サイズの連続調ポジ(湿版)がレタッチ作業用に作成される。ここでも、現代人の想像の域を超えた“人の手”が加わる。ポジ濃度、網点の大きさと再現色の関係を、印刷原稿の色を見ながら頭の中で描いて、湿版ポジの連続階調を増減するというものであった。

●レタッチ結果も、職人の手法で納得いく水準にした

 そこで用いられた手法は、以下のようだった。濃度を高めるときは黒鉛の粉や鉛筆など、下げるときは消しゴムや軽石の粉、鉄筆を使い、しかも指先で粉類を擦り込んで画調を整えていたという。そうすることが技能として確立されていたそうだ。その後は、ガラススクリーンを重ねて網点入りのネガに反転することになるが、この網ネガも再度、レタッチ工程に回され、不要な箇所はオペークで塗りつぶしたり、逆にベタ色にしたい箇所は平針で膜面を剥がしたり、網点を小さくしたい箇所は黒鉛の粉をまぶしたりして、納得のいくまで修整していた。そして、砂目立てしたジンク版に密着して刷版を作成し、最後にオフセット印刷する。このポスターの場合、初刷りした5万枚が店頭でアッという間になくなり、さらに5万枚の増し刷りを2回おこなうほどの人気を集めた。

●日本人の器用さと感性が独自の印刷文化をつくった

 このような日本独自の人工着色法は、カラーの写真原稿が普及するまで、大型の映画ポスターなどで大いに使われた。また湿版レタッチ法は、昭和35年頃まで我が国の写真製版法の主流であり続けたのである。ここで紹介したワインの広告ポスターはHB写真製版法の初期の作品例ではあるが、今、プロセスの内容を理解できる人はどのくらいいるだろうか? 特色を含め10色くらい使うのは当たり前の頃、トンボやスクリーン角度を調整するのは本当に大変だっただろう。まさに名人芸に等しい。明治・大正時代の技術者がいかに優秀だったかを改めて思い知らされる。初刷り分はセピア調、増し刷り分はダークブルーグリーン調にと、微妙に色調を変化させている。こうなると、レタッチは単なる修整ではなく、色そのものをつくり出していたに等しい。そんな技法を誰が引き継ぎ、誰が根付かせてきたのか。石版の時代から、手で描画し色を再現してきた日本人の器用さと工芸的感性、使命感には驚くほかない。

●本の流通は真の読者サービスに沿っているか

 出版や書店が減少傾向にあるのと対照的に、電子書籍やネット通販が台頭している。「出版社も作家も幸せになる」と、ベンチャービジネスが盛んに市場進出をはかっている。そうした新規ビジネスのセールスポイントは「24時間365日、いつでもどこからでも借り出し/注文できる」というものだ。ウエブ上の“図書館”に書籍情報を発表しておけば、本当に読みたい人に有料でダウンロードしてもらうなり、現物の購入を注文してもらうなりできるという。新聞や書店で印刷本をPRするより、はるかに宣伝効果が高いという。減ってきているとはいえ近隣には書店があり、そこから本を買うことはできるが、同じような本しか並んでいない。遠くの専門図書館まで出向いて探し回る余裕もない。結局、ネット上に提供されている高度な利用法に頼ることになる。しかしながら、真の読者サービスという観点からの、時代のニーズに見合ったビジネスモデルは未だ確立されていない。書籍に巻かれたオビの推奨文に高い関心を示すような人たちも含め、多様なニーズに幅広く応えられるような複合的な出版文化は、デジタルの分野ではまだまだ育っていないのが現状である。

●サプライチェーンの中心で読者価値の高い本を

 ネット上にはさまざま出版情報が紹介されているとはいえ、それらは“プレゼンしたい本”に止まっている。著作権フリーの本から広がっているが、最終的には作家も儲かるシステムにしていかないと、優れた原稿(コンテンツ)は増えていかないだろう。本が書かれた趣旨や背景、目次などをネット上で“立ち読み”できるサービスがもっと確立されたなら、そのなかで優れたコンテンツが育てられていくに違いない。取次を経由しないような特殊な本を対象に加えながら、ネット経由の図書販売は着々と社会に浸透していくだろう。一方の印刷本は、原稿を写し変えるといった、メディア間のたんなる流用ではなく、逆に(オーディオブックのように)読者価値を高めた内容とすることで、出版物として復活できる余地がある。これまでは、本の流通は取次が中心となっていた。しかし、コンテンツという基点に立てば、印刷会社が出版サプライチェーンの土台を築けることも不可能ではないのだ。

●ワンストップ受注のプラットフォームビジネスを

 印刷物を発注する顧客サイドからみれば、年間を通した全社レベルの印刷費はほぼ一定で、いわば固定費的な性格をもっている。それは発注窓口がバラバラだからで、個々には仕様や部数の変更、見積もり交渉などによって、ずっと一定ということはあり得ない。いわば変動費的な扱いをする。こうした事実を印刷会社が“逆手”にとることを許されるなら、全ての印刷品目をワンストップサービスで受注することの意味が見えてくる。一括アウトソーシングの期待に応えてあげることもできる。そのうえで、将来的に電子メディアの制作、ネットワーク配信も加えた総合的なメディアプロデューサーになる必要がある。そこには当然、印刷物の製作引き受けも含まれる。印刷会社が本来得意とするコンテンツ加工を活かした「プラットフォームビジネス」を手掛けていかなければならない。

●発注窓口を見つめ直し、効果的に顧客開拓しよう

 主要駅や大型商業施設など、多数のオフィス、店舗が集まる大規模集積地域が全国に点在するようになった。これまでの商店街やショッピングセンターに代わる強烈な存在感を見せつけている。印刷会社は従来、顧客になってくれそうな身近な企業を相手に、飛び込み、ダイレクトメール、紹介などで営業してきた。だが、こうした商業集積の姿を目の当たりにして、もう一度、発注窓口を見つめ直し、効果的に顧客開拓していく必要がありそうだ。それでも、これまで通り日常的な印刷物の「プリントマネジメント」に止まっていてはいけない。脱コモディティ化によって顧客価値の創造をめざし、コンテンツを基盤としたサプライチェーンを構築するとともに、付加価値を獲得すべくバリューチェーンの中核を担っていかなければいけない。