印刷図書館倶楽部ひろば

“印刷”に対する深い見識と愛着をお持ちの方々による広場です。語らいの輪に、ぜひご参加くださいませ。

『印刷図書館のインキュナブラ』

2016-11-24 16:03:07 | エッセー・コラム
『印刷図書館のインキュナブラ』

松浦 広

          

写真誌『LIFE』の「ミレニアム特集号」

20年ほど前の1997年(平成9)にアメリカの写真誌『LIFE』は「ミレニアム特集号」を刊行した。Millenniumは千年紀という意味。東洋では十年が一昔、百年は大昔になるから、千年という時間の単位は馴染みがないが、1990年代に欧米の雑誌などでミレニアムという言葉が頻繁に使われると、日本でも俄かに使われだした。


『LIFE』ミレニアム表紙





『LIFE』の「ミレニアム特集号」は20世紀末にあたり、来たる21世紀からの未来を展望するため、この千年がどのような歴史を経て現在に至ったかを確かめようと、100件の重要な出来事(events)と100人の重要な人物(people)を選出するという壮大なスケールの企画であり、刊行されるとすぐに世界中のマスコミがニュースに取り上げた。

 その「出来事」の第1位が1455年の「グーテンベルクによる聖書の印刷(GUTENBERG PRINTS THE BIBLE)」であった。おそらく日本の知識人なら100件の圏外にしてしまう「活版印刷の発明」が、ほかの重要な発明・発見・事件などを抑えて1位となった意外性と、グーテンベルクという馴染みのある名前が印刷業界の人々に衝撃を与え、ほんの束の間であったが話題となった。


『LIFE』ミレニアム特集表紙





インキュナブラ


グーテンベルグが発明した活版印刷術は、次第にマインツ(ドイツ)からフランス・イタリア・イギリス・ネーデルランドを中心にヨーロッパ全土に広まった。活版による印刷物は1455年から1500年(精確にいえば1501年4月10日)までの45年間に、4万タイトル・1500万~2000万部が生産されたと推定されている。
 浸透のスピードは当初は「次第に」だったが、20年ほど経つと「急速に」、30年後には「瞬く間に」加速したのである。
 この15世紀の45年間に作られた活版印刷物を「インキュナブラ(incunabula)」と呼んでいる。incunabulaはラテン語のincunabulum(ゆりかご)の複数形、揺籃期印刷物と邦訳される。

 欧米の名だたる教会・大学(図書館)・博物館は、グーテンベルクの『42行聖書』に準じて、多くのインキュナブラを所蔵している。蔵書家にとっては垂涎の的であり、著名な図書館や博物館は、Christie’sやSotheby’sなどのオークションでインキュナブラが出品されると巨額を用意し、落札のために駆けつけるという。それは日本でも同様で東大や京大、慶応・早稲田・同志社・立命館など著名な大学の図書館は、欧米ほどではないが、多くのインキュナブラを所蔵しているにも関わらず、クリスティーズ(Christie’s)やサザビーズ(Sotheby’s)などのオークションでインキュナブラが出品されると聞けば、直ちに会場へ駆けつけるのである。



印刷図書館の『カトリコン』の謎

印刷図書館は1点だけインキュナブを所有している。グーテンベルクの『カトリコン』である。『カトリコン』は『42行聖書』に比べると知名度は低いが、グーテンベルクが印刷した最後の書籍として知られている。「Catholicon」はラテン語で万能薬のことだが、転じて万民必携という意味を持つ。1286年イタリア・ジェノヴァの僧侶ヨハネス・バルブスが著したラテン語文典付の神学辞典で、当時の百科事典に当たる。


グーテンベルクのカトリコン



印刷図書館所有の『カトリコン』は、残念ながら書籍ではなく「零葉(れいよう)」、つまり製本を解いて表裏2ページの1枚。これを、書誌学者がグーテンベルクの『カトリコン』の中の1枚であることの保障と『カトリコン』の解説をした小冊子を、立派な箱に納めたものである。


カトリコンの外箱




その解説小冊子の標題に「日本印刷学会之図書」という朱色の蔵書印が押されている。したがって、これは昭和22年(1947)に印刷図書館が設立された時、日本印刷学会より寄贈された多くの図書の中の一冊であると思われる。この『カトリコン』の来歴を示すものは、蔵書印のみで、いつ・どこで・だれが・何のために・いくらで購入をしたかは、下記の記録をもとに推理するしかない。






『印刷雑誌』昭和12年(1937)5月号に、この『カトリコン』であると推定される印刷物を紹介した記事が掲載されている。タイトルは「日本に来たグーテンベルグの作品」で、副題は「カトリコンの一葉」。
記事には「ニューヨークの著名な古書店、ブリック・ロウが2冊の『カトリコン』を所蔵していた。1冊は完本だが1冊は欠頁本だった。完本は373葉、1460年にマインツで印刷されグーテンベルクの名は記されていないがコロフォン(奥付)を持つ。ブリック・ロウは、欠頁本を解いて一葉ずつをケースに入れ、女性書誌学者マーガレット・ビンガム・スチルウェルによる解説書を付けた箱入りの立派な本に仕立てた。その1部が日本に来ており、或る篤志家の手に渡ろうとしている。」と書かれている。



印刷学会・矢野会長による「カトリコン」書評(學鐙)

文中には『カトリコン』に関して「矢野道也博士が最近の『學鐙』(丸善発行)に寄せられた文章では「15世紀中葉の刊行物は現存するもの極めて少なく、その売買の値も数十萬圓に達するものも珍しくない。わが国などで之を得ることは容易ではあるまいと述べている」ことも記されている。
この『學鐙』は昭和12年(1937)3月号で、矢野が書評として「カトリコンにつき」という題で2ページにわたり「カトリコン」の解説をした。その末尾に「編集者追記」つまり、丸善のPR文が付されている。「最近アメリカに於いてカトリコンの復刻版が出版されるのを機縁に、本文を頂戴致しました。該書はGutenberg and the Catholicon of 1460 : A Bibliographical Essay. With an Original Leaf. By Margaret Bingham Stillwell. $50.00 で限定出版であります。」
つまり『印刷雑誌』の記事は、限定出版として輸入された『カトリコン』を篤志家の某氏と共に閲覧した記者(印刷雑誌社の郡山幸男社長)が、いち早く報じ、併せて「カトリコン」の概要を説明し、印刷界のために某氏に購入を進言したものである。その後、この『カトリコン』を某氏が購入したか否かは『印刷雑誌』に書かれていない。だが、国会図書館で当時の諸資料を照合すると、昭和12年に「日本印刷学会」と「慶応図書館」「天理図書館」、ほか数社が丸善から『カトリコン』を購入したと推測できる。




印刷図書館所蔵の『カトリコン』

さて、印刷図書館の『カトリコン』だが、立派な箱から本を取り出すと、本体は女性書誌学者の解説書を赤い厚紙で包む形式になっており、この解説部を外すと裏表紙に相当する底部が『カトリコン』の原葉を納めるように凹んでおり、その上に保護用アクリル(硬質プラスチック)板が留められている。


カトリコンの零葉




オリジナル一葉(つまり表裏2ページ)のサイズは横28.2mm×縦36.6mmで、JIS規格に例えるとB4に近い。ちなみに『42行聖書』の原葉はA3に近いから、一回りほど小さい。活字は今日ではカトリコンタイプと呼ばれている丸味のあるゴシック文字で、『42行聖書』で使用されたゴシック活字(B42タイプ)とは明らかに別物である。


カトリコンと42行聖書の比較




文字サイズもB42タイプは20ポイント相当だが、カトリコンタイプは12ポイント相当で一回り小さい。『カトリコン』は、この小さな活字を使用して68行・2段組で印刷されている。グーテンベルクは、当時の写本をもとに、写本と同様の複製物を量産することに努めた。『カトリコン』を印刷するにあたり、多くの写本を参考にして、もっとも美しいものを手本として活字を創ったのであろう。『42行聖書』のように美麗ではないが、グーテンベルクが苦心して創りあげた作品であることを想うと奇妙に心を引き寄せられるのである。


以上




月例会報告 2016年11月度

2016-11-17 10:28:53 | 月例会
[印刷]の今とこれからを考える 

        「印刷図書館クラブ」月例会報告(平成28年11月度会合より)

●メディア・リテラシーで出版産業を後押ししよう

 出版業界の現状をみると、厳しい経営環境にありながら、革新的な発想で自ら打開しようという意思があまりみられないような気がする。時代の流行を追った販売部数第一の姿勢が目につく。販売部数を重視してはいるもののベストセラーを達成できる本はごく限られ、返品率は相変わらず高い。手を携えているはずの印刷業界も、積極的に連携(コラボレーション)して企画面からサポートしようという姿勢が弱いようだ。両業界とも、市場や産業のかたちを変えてしまった情報のデジタル化についていけず、ビジネスの恩恵に預かれていない。コンテンツ・ファーストが重要であることに、もう一度、気づくべきではないか。コンテンツの内容がよければ、読者が欲している個々のニーズに的確に応えることもできる。印刷業界はコンテンツを加工、運用、管理して、メディアのかたちにして読者に伝えることに手慣れているはず。メディアとは、コンテンツの処理プロセスを表現したもの、読者とのつながりを可能にするものである。印刷業界特有のメディア・リテラシー機能を発揮して、出版業界の活性化を支援していってほしい。


●果たして顧客と消費者の間をとりもっているだろうか

 印刷会社にとってのマーケティング、コミュニケーションというと、ともすると直接の顧客との良好な関係を維持するものと考えられがちである。しかし本当の意味は、その顧客とその向こう側にいるエンドユーザー、消費者との相互関係を望ましい状態にするための支援を、後方からあるいは協働しておこなうところにある。日本では、かなり前から顧客のビジネスに役立つ“お手伝い業”に徹するようにと提唱されているが、そうした考え方は今や、取り扱っている製品・サービスが生産財か消費財かの如何を問わず、どの産業でも共通した認識となっている。印刷産業においてももう一度、原点に立ち返って、この言葉を見つめ直す必要がある。


●「カスタマー・コミュニケーション・パートナー」になれ

そんな折、消費者の購買行動を追跡しながら、クロスチャネルの機会を的確に捉えたマーケティング戦略を顧客に提案すべきだとの見解が、アメリカの有識者から示された。印刷会社は従来のビジネスモデルを自ら変革して「カスタマー・コミュニケーション・パートナー」になれ、というのだ。企業はこれまで、ターゲットとする消費者が何を購入するかを調査することで市場動向を探っていけば十分だったが、パーソナリゼーションの進んだ今、個々の消費者がどんな機会に触発されて買ったか(消費財)、取引先企業がどのようなプロセスを経て成約したか(生産財)を把握することが重要になっている――アメリカからの提言はこう前置きする。モバイルデバイスやソーシャルネットワークシステムが浸透した社会では、消費者も企業も豊富な情報入手手段をもち、念入りな調査の末に購入を決断している。こうした新しい時代における消費者/企業の購買行動を、深く理解することがマーケティング関係者に求められているとしている。


●購買行動の機会、段階ごとの購買体験のデータを

有名なAIDMAの法則では、購入者が注目-興味-欲求-記憶-行動という、購買決定に至る反応プロセスのどの段階にあるかを想定して、それに見合った有効なマーケティング活動を展開することの重要性を説いている。この提言ではさらに加えて、マルチメディアによる広告を含めた口コミから店頭での接客までの多様なチャネルでおこなわれる購買体験を、全て把握すべしだと強調する。そうすることによって、どこに購買決定の動機、ビジネス上の付加価値があるかがわかってくるという。購買行動を段階ごとに把握し予測するためにはどうしたらよいのか? 提言では、消費者や取引企業とのあらゆる顧客接点での、いつ・どこで・何を・なぜといった顧客体験をデータとして収集し、顧客を次の段階へ導くために活用する必要があるとしている。その際、生きてくるのがパーソナリゼーションの推進者ともいえるモバイルデバイス、SNSツール、Webサイト、DM類などである。良質なデータを集めて分析すれば、ターゲットとする個(・)個(・)客の購買行動を予測できる明確な基準が得られる。購買の経緯が掴めれば、的確なマーケティング用のコンテンツを作成でき、マーケティング戦略の策定が可能になる。


●マルチチャネルを通してどのように支援していくか

 印刷会社はこれまでとは異なったビジネスモデルを探っている真っ最中だが、実は顧客企業も同じように新しいビジネスモデルを模索している。個々の消費者や取引先に有効な製品情報・サービス情報を伝え、好ましい関係を築くことに追われている。だからこそ印刷会社は、顧客企業のさらに先にいる“顧客の顧客”を見通さなければならない。「直接の顧客に販売促進のための情報・メディアを提供するだけでなく、顧客と“顧客の顧客”の間で交わされるコミュニケーションをいかに円滑にするのか、その負担を軽くするためにマルチチャネルを通してどんな支援をしていくかに力を注ぐ必要がある」と提言は主張するのだ。データにより購買行動の推移が把握できれば、それぞれの顧客接点に適したコンテンツを作成していくことが可能になる。これこそ、印刷会社が提案すべき「クロスチャネルキャンペーン」ということになる。


●クロスメディアでマーケティング戦略を提案しよう

 企業は、消費者や取引先に連続した購買体験の機会を与えることがきわめて重要になっている。顧客企業は今こそ、カスタマー・コミュニケーションを後押ししてくれる戦略的なパートナーを求めている。データ分析に基づいて作成したクロスメディアを武器に、購買行動の段階ごとのカスタマー・コミュニケーションを支援できる印刷会社の出番がやってきた。データ管理やコンテンツ加工などを加味した高付加価値型サービスで顧客支援する――そんなビジネスチャンスが到来しているのである。アメリカ発の今回の提言はしつこいくらいに、「印刷会社が差別化によって競争を勝ち抜こうと望むからには、顧客企業が展開しようとしているマーケティング戦略を“お手伝い”できるよう、自らの印刷製品/サービスのあり方(ポートフォリオ)を変えなければならない」と繰り返し力説している。
※参考資料=What They Think? 2016.8/9; Barb Pellow、Group Director, InfoTrends


●顧客視点、顧客基点に問題はないのだろうか?

 社会の仕組みや市場構造が変わったことを理解するのは重要だが、変化のなかで多様化し流動化してしまった個々の顧客ニーズに対応しようとするなら、自社が変身するところからスタートすべきである。自ら変わらずして、市場の要望に応えることはできない。世の中の動きを“ハッと”気づく必要があるのだ。「印刷会社はいわれたことしかしない。頼みたいことをやってくれない」という恨み節?が、一般の人たちから聞こえる。どこの印刷会社も“本当の”顧客目線で仕事をやってこなかったのではないか? 「印刷会社は顧客と真剣に向き合っているのか」という指摘もあるが、深く考えれば、顧客視点、顧客基点が問題になっている間は、印刷会社が望まれている真の仕事は達成できないのではないか。顧客の先にある消費者が一番欲しいと思っていることをいかに見つけ出し、顧客のビジネスをどう支援するか――手がかりはそこにある。


●印刷文化の育成を今も担っているだろうか?

 印刷文化の重要性については、これまでもあらゆる機会に叫ばれてきた。しかし、当の印刷産業が日々、これを意識して仕事をしているかというと甚だ疑問である。文化といっても歴史回顧型のものだけとは限らない。現在とり扱っているコンテンツは何の目的があり誰に伝えたいのか、何に役立ってどのようなかたちで保存されたいのか――こんな意識をもって印刷メディアを作成しているだろうか。感動と期待をもってもらえる製品をつくることが、豊かな社会や産業、生活、教育に貢献して、将来の文化として蓄積されていくことを再認識したいものである。


以上