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印刷図書館倶楽部ひろば

“印刷”に対する深い見識と愛着をお持ちの方々による広場です。語らいの輪に、ぜひご参加くださいませ。

月例木曜会 2014年6月

2014-06-16 15:50:03 | 月例会

[印刷]の今とこれからを考える 

      「印刷図書館クラブ」月例会報告(平成26年6月度会合より)



●世界最古の金属活字印刷は韓国でおこなわれた

《平成26年5月度関連記事》 韓国・清州の興徳寺で銅活字を使って1377年に印刷・出版された世界最古の銅活字本『直指』(白雲和尚抄録仏祖直指心体要節)。釈迦と高僧の言葉をまとめて上下巻に編集した書物で、坐禅を組み人の心を正しくみていくと、心の本性(=釈迦の心)を悟れる(=直接示される)という趣旨が書かれている。下巻1冊がフランス国立博物館に保管されており、文末に「宣光七年丁巳七月 清州牧外興徳寺 鋳字印施」と記録されていることから、この地で金属活字印刷がおこなわれていたことが判明した。グーテンベルグの「42行聖書」(1455年)より3四半期も前、中国で金属活字印刷が始まったとき(1490年頃)より2世紀以上も前という画期的な印刷事業だった。「過ぎ去った千年の間に起きた、もっとも偉大な事件」と、韓国の人々と印刷関係者は大いなる誇りを抱いている。


●グーテンベルクより早い画期的な印刷事業だった

発祥の地に建設された『韓国清州古印刷博物館』作成の案内資料には「韓国は1200年代の初め、すでに考慮中央政府で金属活字を作って使用していたという記録が残っており、14世紀後半には、寺院でも金属活字を利用して本を製作するほどに、発展した印刷技術をもっていた」とあるほどだ。そこには、高麗時代の前期に仏教と儒教の二大文化が発展し、鋳字印刷も中央官庁から始まって、後期には『直指』のように地方の有力寺院でおこなわれるようになったという背景がある。「金属活字の発明は情報化への画期的な転機をつくり出し、人類文化の発展にもっとも大きな貢献をなした」「現存する世界最高の金属活字本」と高く評価されるこの『直指』は、人類文化史に及ぼした価値を認められて世界記録遺産に登録されている。
※本稿は、印刷博物館が韓国清州古印刷博物館との姉妹提携10周年を記念して開催した企画展『朝鮮金属活字文化の誕生展」を参考に作成しています。


●アメリカ印刷業界が「ゲンバ」志向を強める

 トヨタ生産方式を象徴する用語として「リーン生産方式」が知られるが、一切のムダを省くためには、生産現場に出向いて、文字どおり現場サイドでの改善策を徹底させることが不可欠とされている。アメリカの印刷業界団体PIAの資料によると、日本語をそのまま使った「カイゼン」と同じように、生産現場も「ゲンバ」と捉え、問題意識をもって取り組むことの重要性を提唱している。ゲンバを直訳すると「実際に作業している場所」となるが、むしろ「顧客のために価値を創る場所」を意味する。その価値を付加する活動であるためには、①顧客がためらわずに支払う”何か“があること、②品質を保証できる正確な仕事をすること、③製品を改良する意識をもっていること――が必須条件となる。これらのうち一つでも満たさない場合は、その生産活動はムダといわざるを得ない。ムダとは「資源を費やしながら価値を創出できない活動」であり、これらを発見し取り除くためには、カイゼンの目標を定める必要がある。


●実際のカイゼン効果で、重要性を再認識する

 カイゼンすべきムダには、①作り過ぎ②余剰在庫③待ち時間④運搬⑤動作⑥加工し過ぎ(過剰品質)⑦不良製品――があり、さらにいえば、⑧作業者がもっている創造的な能力と経験を活用し切れないムダもある。PIAの改善コンサルタントによる報告では、印刷工場における受注から生産、出荷に至る全工程で、付加価値を生んでいる作業はわずかに9%に過ぎないという。上記のムダを除去することに取り組んだところ、準備時間とコストが大幅に削減され、製品の品質も向上したという。ゲンバの状況がどうなっているかを知ることは、カイゼンの機会を理解するための第一歩であることがよくわかる。ゲンバを歩く目的は、顧客に提供する価値を生み出す場所の現状把握にあり、価値について“対話”できるようにするためである。リードタイムを削減するという視点で、入稿から出荷までの個々のゲンバを時間計測すると効果的だ。


●作業者に敬意をもって接し「なぜ?」を繰り返す

 PIAは、ゲンバを歩くうえで守るべきガイドラインとして、次の3点を掲げている。第一は「ゲンバに行き観察せよ」。何が起こっているかの事実を集め、作業者と工程の状況を理解することである。工程のスムーズな流れを止める突発事故やエラーの発生を発見するのはもちろん、作業者は「何をどうすればいいのか」の対応策を知っているかどうかを、明確に把握できている必要がある。作業者が上手に問題点を発見でき、かつ、それをいかなる方法で支援していけるか? 管理者の仕事は問題点を放置することなく、作業者に問題の発見と解決の方法を教えてやらなければならない。第二は「尋ねよ」。発生した事象の原因を探るための追加情報を得るには、作業者に聞く必要がある。職務の専門家である作業者からより多くの意見を聞けるよう“自由形式”の質問にすること。「なぜ?」という質問を繰り返すことによって、発生原因と解決策の根源に近づける。第三は「敬意をもって従業員に接する」こと。熱心に取り組んでいく姿勢を謙虚に示さなければならない。


●創造的な挑戦と仕事の改革を結びつけるように

 工程のカイゼンは、付加価値を生まない作業を取り除くことである。そのためには、ゲンバで仕事をしている作業者全員がもっている知力、問題解決力に協力を求めるべきだ。作業者の能力開発と育成のために、企業が設定すべき枠組みは「敬意の基準」である。作業者の創造性を活かす挑戦と仕事の改革とを結びつける教育投資は、敬意を示すもっとも効果的な方法であり、カイゼンを高いレベルに持ち上げる原動力となる。「ゲンバを歩く」目的が①顧客を創り込む方法を決める、②顧客に十分な価値を提供できる工程を組む、③5Sで作業状況を査定する、④8つのムダと問題点を探す――ことにあるという意味をもう一度理解し、皆同じ視点で事象を観察できるよう、関係者が共通の意識をもっておく必要がある。
<参考資料>「Walking The GEMBA」; John Compton, Professor Emeritus, Rochester Institute of Technology
(The Magazine Mar. 2014 PIA)


●紙媒体、電子媒体の役割を考えてみることから 

 タブレット端末を生まれたときから使いこなしている集団、興味をもち途中から使い始めた集団、全く使う気のない集団と、電子媒体を巡って社会的な階層ができてきた。情報に対する感覚は個人によって異なるはずだが、例えば印刷物の教科書では一冊に情報を盛り込んで、それを吸収するよう求めている。これに対して、電子媒体であるタブレット端末では後ろ側に電子辞書をつなげ、膨大なデータをもっている。しかし、辞書機能を使っていつでも情報を収集できると思うと、読み手は“埋没”してしまう。その点、印刷メディアの場合は、反射原稿による情報に前頭葉が刺激されて意識を高めることができる。紙媒体と電子媒体を比べて、読みやすさ、見やすさ、理解しやすさの有意差を判定するのは難しいが、多様な情報伝達手段が出現したなかで、情報を早く知る人と遅く知る人との間で差が生じている。早く気づいた人ほどアドバンテージを得られるため、電子媒体で安易に情報を入手する傾向が強くなっているのは事実だ。


●「印刷」がもつ役割を厳密に再定義しておきたい

これまで印刷媒体には競争相手がなく“真水”の世界にいられたが、今は多様な媒体がひしめく“大海”の世界。真水と海水が入り混じる河口の“汽水域”にいる間に、印刷媒体の役割をもう一度見直す必要がある。情報の扱い方、印刷媒体、印刷ビジネスを厳密に区別しながら、印刷媒体がもつ意味を再定義すべきである。それぞれの課題と方向性をきちんと確認することなく、無意識に一括りで概念付けしてしまうと、これからも話が噛み合わない恐れがある。

以上

デジタル時代に忘れられた「6月1日・写真の日」

2014-06-06 10:21:47 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
(事務局より)
倶楽部メンバーの尾崎章様より、下記の原稿が届きました。
尾崎様は、カメラに非常に造詣の深い方です。
今月は6月ということで、6月に纏わる内容です。


デジタル時代に忘れられた「6月1日・写真の日」


印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-1

印刷コンサルタント 尾崎 章


6月1日は「写真の日」である。
江戸時代の後期、1841年6月1日に長崎奉行所に勤務する学者・上野俊之丞がフランス人・ダゲールが発明した銀塩写真法「ダゲレオタイプ」で当時の島津藩主・島津斉彬を撮影した日にちなみ制定された記念日である。
この「写真の日」は、銀塩写真最盛期でも知名度・認知度が低かった事もあり、銀塩フィルムがデジタルメディアに切り替わった今日では全く忘れられた記念日となっている。

日本の写真技術は、上野俊之丞の子息である上野彦馬によって大きく開花され、長崎在住のフランス人・ロッシュから「ダゲレオタイプ」の技法を学んだ上野彦馬は1862年に上野撮影局と称する写真館を長崎・伊勢町に開設している。


中島川沿いの上野彦馬、坂本龍馬像


営業写真館を開いた上野彦馬は、坂本龍馬、桂小五郎、伊藤俊輔等々の幕末ヒーローを撮影しており現存する写真も多く、日本の写真術は幕末期に長崎の上野彦馬と横浜の下岡蓮杖によって確立されている。
写真発祥地の長崎は、周知の通り本木昌造によって造られた近代活字による活版印刷の発祥地でもあり「写真」「印刷」の二大情報手段がいずれも長崎から発信されるという快挙を歴史に刻んでいる。
現在、長崎市内には諏訪神社に近い立山地区の長崎県立図書館、長崎歴史博物館に近接して上野彦馬像が建てられている。

また、中島川の眼鏡橋近くには、上野彦馬と坂本龍馬がダゲレオタイプカメラを挟んで立つ2ショット像が建てられている。
この像は二人の関係を適切に説明しているが、坂本龍馬の「凛々しさに欠けた」漫画チック風に顔つきが少々気になるところである。
また、中島川対岸の銀屋町の上野彦馬生誕地には偉業をたたえる案内看板が設置されている。


立山地区の上野彦馬像



長崎・銀屋町の上野彦馬生誕地



没後100年の下岡蓮杖

西日本の上野彦馬とともに江戸末期の写真術発展に大きく貢献した下岡蓮杖は1823年に伊豆・下田に生まれ、日本画家を目指して江戸狩野派の弟子となり日本画絵師としての活動中に銀塩写真と出会っている。
アメリカ人写真技師:ジョン・ウイルソンから「ダゲレオタイプ」の技術を学んだ蓮杖は
短期間に技術を習得して1862年には横浜・弁天町で写真館を開業する迄に至っている。
1862年は上野彦馬が長崎で写真館を開業した年でもあり、当時二大開港地(長崎、横浜)で日本の銀塩写真術が大きく開花する契機となった年である。
また、下岡蓮杖は横浜で写真館を3館開業した事より輩出した弟子の数も多く、鈴木真一、臼井秀三郎、横山松三郎等の弟子が明治初期の代表的写真家として時代を担う事になる。

長崎の上野彦馬と同様に下岡蓮杖の生誕地である静岡県下田市の観光名所・ペリーロードの起点となる下田公園には下岡蓮杖の像と碑が建てられ偉業が称えられている。
今年2014年は下岡蓮杖の没後100年にあたり、東京都写真美術館では「没後100年 日本写真の開拓者・下岡蓮杖」と題した企画展が3月4日から5月6日迄開催され、日本の写真技術・文化の発展に貢献した先駆者の偉業が広く紹介されている。

写真技術の進歩をベースに技術革新を遂げた印刷界としても6月1日の「写真の日」には上野彦馬、下岡蓮杖等の偉業を改めて称えたいところであり、写真史探訪としての長崎、横浜、下田の「ぶらぶら歩き」も御勧めである。


下田公園の下岡蓮杖像と碑



歴史情緒あふれるペリーロード付近


以上