印刷図書館倶楽部ひろば

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[印刷]の今とこれからを考える =夏季特集=

2013-08-21 16:29:35 | 月例会
[印刷]の今とこれからを考える =夏季特集=

      「印刷図書館クラブ」月例会報告(平成25年8月度会合より)



《前月度関連記事》

●「フランシスコ・ザビエルを超えた男」ヴァリニャーノ

グーテンベルク発明の「活版印刷術」を日本に持ち込んだのは誰なのだろうか? しかも、国字を金属活字として鋳造し、漢字・仮名交じりの日本語で活版印刷をおこなったのは、果たして誰なのだろうか? イエズス会の東インド巡察師として1579年に来日したアレサンドゥロ・ヴァリニャーノは、かの天正遣欧少年使節団のローマ派遣を計画した人物として知られているが、このヴァリニャーノこそ「活版印刷術」を日本に持ち込もうと考え、使節団派遣の目的の“裏”にその目論見を周到に組み込んだ男である。一般には、使節団が持ち帰ったと伝えられているが、使節団の帰国よりも先に印刷機を日本に持ち込むという着想を、早くから抱いていたのである。日本の印刷史ではあまり評価されておらず、非常に残念なことだが、「フランシスコ・ザビエルを超えた男」という称号に相応しい策略家、プロデューサーだったといえるだろう。


●「活版印刷術」の日本導入を早々と検討していた

ヴァリニャーノは来日早々、日本での布教でいちばん障害になるのは、ヨーロッパ人の宣教師と日本人の修道士、信者との間のコミュニケーションであることに気づいた。最初は宣教師のために簡単な手書きの日葡辞典をつくり、それを使って洋書の日本語翻訳を細々とおこなっていたが、その成果に力を得て、日本に「活版印刷術」を導入し、教義を日本語で印刷することを計画したのではないだろうか? 彼は、ヨーロッパ随一の出版・印刷都市であったヴェネチアのパドヴァ大学で学んでいて、もともと印刷や出版がもつ力に通じていただろうと考えられる。来日した翌年には、「日本における印刷機導入の必要性」を説き、「日本人に適した書物の作成のために、印刷機を注文して自ら日本に持ち込みたい」との書簡をローマ宛に送るなど、日本文字による活版印刷を意外に早くから検討していたようだ。


●漢字・仮名混じりの国字の鋳造に苦心していた

漢字・仮名が混在する日本文字の活字化に、ヴァリニャーノが大きな懸念を抱いていたことは想像に難くない。当初は、国字の印刷を絶望視していた節があり、「日本文字は限りなく多く、国字本の印刷は難しいので、日本語の印刷はローマ字でおこなうのが妥当だ」(1583年)としていたくらいである。それでも、何とか日本文字の鋳造を実現すべく、時間をかけていろいろ考えを巡らせていた。少年使節の渡欧中に「日本文字を鋳造して持ち帰るように」との指示を出した記録さえある。ヴァリニャーノ本人が自ら手を下さないまでも、コンスタンチノ・ドラード(前述)やリスボン在住のメスキータ神父らに「国字鋳造」(母型の現地調製)を働きかけるなど、さまざまな実現策を練り、実際に手を打っていたことは間違いない。



印刷図書館所蔵 國字本『こんてむつす・むんぢ」
(この書は、越前の某舊家に種々那蘇教の遺物と共に伝来したのを、大正5年の暮れと大正7年の春の2回に亙って再編した一部) 


●ドラードらが、ゴアやマカオで下準備をしてきた

コンスタンチノ・ドラードらが、リスボンで欧文金属活字の字母をつくることを学んことはよく知られている。しかし、いかにヴァリニャーノからの指示と手配があったからといって、リスボンで国字鋳造をおこなうことは絶対に考えられない。技術的な問題もさることながら、時間的な制約が大きい。もし使節団と全行程を共にしていたとしたら、わずか3か月しか印刷の研修期間はなかったし、仮に、使節団が最初にリスボンに上陸した時点から滞在していたとしても2年と2か月。国字鋳造はおろか、果たしてどの程度「活版印刷術」を習得できたか、甚だ疑問である。リスボン研修説をとるよりも、帰国途中のゴアでの1年間とマカオでの1年8か月におよぶ滞在期間こそ、ドラードたちの印刷研修期間であったと考えたい。ゴアには印刷術に詳しい神父、マカオには印刷経験のある修道士がいて、それぞれ指導を受けることができたはずである。両地で欧文の鋳造をおこなったことは十分あり得るが、それでも、国字までには手が回らなかっただろう。


●国字はやはり日本人の手で日本で鋳造された

1591年に、日本語を習う西洋人用にローマ字本の『サントス御作業の内抜書』、1592年に、日本人の信者用に国字本の『どちりな・きりしたん』が、それぞれ日本で印刷されている(前述)。後者に用いた国字は、漢字と書写体の変体仮名(連体活字の版下書き)からなっており、この国字の鋳造はヨーロッパではもちろんのこと、漢字しかないマカオでの製造説も荒唐無稽。結局、日本でなされたと考えざるを得ないのである。けれども、少年使節団の帰国は1590年、『どちりな・きりしたん』の印刷は1592年。この間に国字が鋳造されたことも到底考えられないのである。そう考えると、漢字も変体仮名も読解できる日本人、とくに仏教の僧侶が有力候補となってくる。僧侶からキリシタンに転じた例は意外に多い。きりしたん版がらみで有名な養方パウロ、法印ヴィセンテの親子も、ヴァリニャーノが来日した翌年の1580年には、早くもイエズス会に入会しているくらいである。この二人に近い人物として、日本語に堪能なポルトガル人ジョアン・ロドリゲス、宣教師であり歴史家でもあったルイス・フロイスの名も挙げられる。


●活字の制作は印刷機の到着より前から進められた

ヴァリニャーノの依頼により、親子二人が中心となって1585年から国字の版下づくりを始め、金属活字の経験をもつポルトガル人修道士が字母づくりや母型づくりを手がけるようになったと考えるのが自然である。リスボンから船で運んできた印刷機を島原の加津佐に据え付けたのは1590年のこと。それから1年後には『どちりな・きりしたん』が製作されているのだから、あまりにも時間がない。こうしたことから考えると、国字の鋳造にはよほど前から取り掛かっていたとみるべきだ。しかも、かなりの陣容で作業を進めていたと想像してよいのではないか。「書物の編纂や出版に経験のある10名の日本人神弟」が国字鋳造に携わったとされているが、当時は整版式の木版時代であり、彼らにしても金属活字の経験を備えていたわけではない。植字-組版-印刷という活版印刷工程を考えると、1591年の時点ですでに国字の活字が完成されていなければならない。つまり、『どちりな・きりしたん』の活字づくりは1590年以前から進められていたことになる。その作業には、ヴァリニャーノの指示を受けた日本人と外来の宣教師を含む相当数の人員からなる“プロジェクトチーム”が当たっていたとみるのが、もっとも妥当だ。


●「きりしたん版」印刷の史実をもっと詳しく学ぼう

ヨーロッパの印刷文化を日本に紹介した“張本人”であるヴァリニャーノに関して、ザビエルより深く知る必要がある。「きりしたん版」については、20年間に70種類を1台の印刷機でつくったというが、日本においても同様の活版印刷機が製造されているはずだ。他の印刷機、印刷工房の史実がない。100人規模の作業員も必要だが、それについての記録もない。日本最初の金属活字による「きりしたん版」印刷について、ほとんど研究がなされていないのは、まことに残念なことである。国字の鋳造についてはもちろん、印刷工房の規模、従業員数、印刷機、用紙、製本、搬送、さらには古活字との関係など、全くといっていいほど解らない。書誌学分野における研究と並行して、印刷畑からの説得力ある研究が進められたらと願っている。日本における金属活字印刷は、本木昌造が出発点となっているが、それよりずっと以前からあったことを、印刷文化史の全体像を浮き彫りにしていく過程でもっと詳しく学ぶ必要があるだろう。
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『日本アニメを支える女職人の凄さ』 久保野和行

2013-08-06 10:47:09 | エッセー

『日本アニメを支える女職人の凄さ』  久保野和行


スタジオジブリ・宮崎駿作品「風立ちぬ」が7月20日に公開された。「崖の上のポニョ」から5年ぶりの作品に引かれて、さっそく映画鑑賞に出かけた。今までと違うのは実際の登場人物がいることであり、それがどうしてアニメーション化されるかも興味があった。


大正時代の作家・堀辰雄の作品名を取り上げ、同時に同じ時代を過ごした堀越二郎さんの生涯を描いている。私自身、堀越二郎さんという名前すら知らなかった。知る人ぞ知る「零戦の設計者」であった。今年は生誕110年を迎える。当時の状況、特に航空業界は欧米諸国から、遅れること20年といわれた時代に、東大出たての人物に、三菱重工が期待をかけて双肩にかけたのが「零戦の設計」だった。


この人物を取り上げた宮崎駿監督が、どうして実在人物に興味を抱いたのかを調べてみたら、宮崎駿さんの一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の次男だった。幼少時代は身体が弱かったので運動が苦手だったが、ずば抜けて絵は上手であった。同時に熱心な読書家でもあり、手塚治虫のファンでもあった。


学習院大学卒業後、東映動画に入社して、この業界のスタートを切るが、なかなか思うような人生を送れない時代が続く、しかし、きっかけはテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」が最高視聴率を上げる成功で地位を確保した。その後、徳間書店の出資を得て「スタジオジブリ」を創設した。
そこから「もののけ姫」が生まれ、「千と千尋の神隠し」は興行成績を塗り替え、観客動員2300万人の空前絶後の金字塔を立てた。




しかし、そんな宮崎作品を支えた、かけがえのない女性がいる。東映動画では1年先輩格にあたる保田道世さんです。この方は宮崎作品全ての色彩設計を担当している。なんととなく眺めている映像の、背景の色や、登場人物の着物や洋服の配色など、それこそ多種多彩な彩を、絢爛豪華にも、詩情ゆたかな静かさも表現できる、裏方の職人芸でもある。


これほどの作品群に、たった1人のアーティスト保田道世さんが支えきっているからこそ、宮崎駿さんから「戦友」の呼び名で作品を作り続けている。


印刷業界に長くいると分かるが、これほど多くの色を扱うことが、いかに困難かを体験しているからこそ、その能力と努力には頭が下がる。エンディングには多くのスタッフの名前が並ぶが、その中で、たった一行の中に見つけた『色彩設計 保田道世』は別の面での感動を覚えた。


零戦設計者の堀越二郎さんもこんな言葉を述べている。
「私は一瞬、自分が、この飛行機の設計者であることを忘れて『美しい!』と、喉咽の底で叫んでいた」




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