goo blog サービス終了のお知らせ 

印刷図書館倶楽部ひろば

“印刷”に対する深い見識と愛着をお持ちの方々による広場です。語らいの輪に、ぜひご参加くださいませ。

デジタル写真時代に市場から消えた減力液と補力液、懐かしのファーマー減力液

2016-06-23 14:33:45 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-21
印刷コンサルタント 尾崎 章


デジタルカメラ用及び印刷プリプレス向けの各種レタッチソフトが充実した今日、フィルム及び印画紙の銀画像濃度低減、そして減力液で印刷用フィルムの網点サイズを修正するハンドレタッチ作業は「半世紀前の語り草」になっている。
当然の事ながら、写真薬品として販売されていた減力液、補力液の市場から姿を消して久しい。「ファーマー減力液って何ですか?」と聴かれる事も皆無となった。


写真減力液の代名詞! ファーマー減力液

水質汚濁防止法及び下水道法の改正によって重金属、健康に有害な物質の排出が大きく規制された1973年以前に銀塩感光材料用として最もポピュラーな減力液がファーマー減力液(Farmer’s Reducer)であった。

 
ファーマー減力液の主剤:赤血塩


考案者の英国写真技術者E. Howard Farmer の名前からファーマー減力液(ファーマー氏減力液)と名付けられた減力液は、赤血塩(フェロシアン化カリウム)とチオ硫酸ナトリウム(ハイポ)の水溶液を混合して使用するもので減力液の代名詞として写真業界・写真製版業界で最も一般的に使用された経緯がある。
このファーマー減力液は、赤血塩水溶液とハイポ水溶液の混合比率によって減力効果を変化させる事が出来、一例として当時のイーストマン・コダックがハイライトからシャドウ部を均一に減力する等減減力液として発表していた「EK R-4A:等減減力液」の処方は下記の通りである。

[Kodak R-4A等減減力液]
A液  赤血塩 37.5g 水を加えて500ml
B液  チオ硫酸ナトリウム480g 水を加えて2000ml
使用液 A液30ml B液 120ml 水 1000ml


写真製版の必需品、ファーマー減力液


プリプレス工程が写真製版に依存していた1980年以前は、製版カメラでの版下台紙・線画撮影ネガフィルムのカブリ除去、コンタクトスクリーンを使用した網点撮影(網撮り)時に発生する網点フリンジ除去を目的とした水洗ライトテーブル上での減力作業は必須の日常作業であった。減力液を含んだ水洗水は、そのまま工場外に排出されるケースが圧倒的で水質汚濁防止法及び下水道法によって赤血塩(フェロシアン化カリウム)等のシアン化合物が規制対象となり、写真・印刷業界は非シアン系の減力液の開発・商品化に迫られる事態に至っている。


EDTA減力液に関する筆者論文、印刷雑誌1973年1月号   


赤血塩に替わってEDTA(エチレンジアミン四酢酸)鉄キレートや硫酸セリウムを使用する減力液が各社より商品化され印刷業界は短期間に非シアン系減力液に切り替わった経緯がある。


非シアン系減力液の主流は硫酸セリウム減力液

非シアン系減力液は、EDTA鉄キレート系減力液→硫酸セリウム系減力液の流れとなり印刷業界向けの代表的製品としては、富士フィルム「FR-1」、印刷薬品大手・光陽化学工業の「R-SUPER」を挙げる事が出来る。


印刷界で多用された非シアン系・硫酸セリウム減力液


写真用途向けとしては、ナニワ写真薬品「ナニワ減力剤」、中外写真薬品が輸入代理店となった英国・イルフォード社の「エルブラウン減力剤」等が発売されており、「ナニワ減力剤」は2012年頃迄の販売が行われ、写真現像所等で印画紙のカブリ除去に使用されていた模様である。
筆者も光陽化学工業の「RD減力液」(EDTA系)「R-SUPER」減力液の製品化にさいして技術サポートを行った経緯が有り「非シアン系減力液」は懐かしの想い出である。
商品としての減力液は市場から無くなったが赤血塩は単品写真薬品として大手カメラ店の写真薬品コーナー等で販売が継続されており、手軽にファーマー減力液を調合する事が出来る。


最後まで販売されたナニワ減力剤 1リットル用 750円   



エルブラウン減力剤 1983年・写真用品カタログNo15より 



写真製版レタッチ作業者は、高額所得者!

写真製版全盛の1960~70年代のカラー印刷は写真製版を前提としており、写真製版の色補正マスキング処理では色再現要求品質に十分対応出来ない状況にあった事は周知の通りである。この当時は人物の肌色やイメージカラー・記憶色等々のカラー原稿と差異が生じる色相に対して熟練作業者による「レタッチ作業」が不可欠で、網点ネガ・ポジの網点サイズを減力液で修正する「ドットエッチング」(略称ドットエッチ)は、経験を要する熟練作業領域であった。

例えば代表的な記憶色の「日本女性の肌色」は、シアン8% マゼンタ40% イエロー60%の網点で構成されており、写真製版では再現できない網点サイズを減力液で記憶色に近づけるドットエッチが不可欠で有った。
この為、製版品質をレタッチ作業者の技量が左右する事になり、当時は週刊誌の裏表紙に「印刷:○○印刷、製版:山田 太郎」とレタッチ作業者名が表記されていた事を記憶されている方も多いと思われる。当時の大卒新入社員・初任給7~8万円程度に対してベテランレタッチ作業者の月収が40万円を超える「写真製版全盛期」の語り草である。
このアナログ写真製版時代のレタッチ作業も、カラースキャナーによる電子製版の普及、ミニコン及びワークステーションを使用した画像処理システム及び画像処理ソフトの普及により2000年を待たずに標準化・省力化され、印刷製版の電子化に相反して減力液市場は一気に終息化を迎える展開に至っている。


レタッチ・イメージ写真 


露光不足、現像不足を救済した補力液

減力とは正反対に写真画像濃度を増加させる措置が補力作業で、水銀補力液、クロム補力液、鉛補力液等、種々の補力特性を持った補力液が発表・発売されていた経緯がある。
最も代表的な補力液としては水銀補力液(昇汞補力液)がある。
銀画像を毒性の強い塩化第二水銀(昇汞)で酸化漂白、亜硫酸ナトリウム水溶液等の黒化液で漂白された銀画像を再度黒化銀に還元するものでコダックが発表した水銀補力液処方は、下記の通りである。
[Kodak In-1水銀補力液]
水         1000ml
塩化第二水銀     22.5g
臭化カリウム     22.5g  
 
補力液の主用途は、露光不足及び現像不足によって銀画像濃度が不足状態にあるフィルムの救済措置である。フィルムカメラの自動露出機能が充実する以前は露光不足によるトラブル発生頻度が高く、当該問題の救済策として補力液の使用頻度は高い状況にあった。
筆者も「歌舞伎十八番」の舞台撮影時に増感現像に失敗、補力液で何とかプリント出来る濃度までの救済を行い撮影依頼者にプリントを納品した苦い経験がある。
TTL測光方式によって露光精度が飛躍的に高まったフィルム一眼レフ、カメラ背面モニターで撮影画像が確認出来るデジタルカメラでは到底あり得ない撮影ミスで、デジタル技術展開に伴って商品化されていた重クロム酸系補力液は減力液よりも早い1985年前に市場から姿を消している。
「補力」「減力」は当然の事ながら「死語」となり、塾年写真愛好家の「懐かし」の記憶となった。    
    
 

露光・現像不足ネガ(左)と補力液で濃度補力を行ったネガ(右)

   
以上



 
 

懐かしきフィルムカメラのエプロンデザイン

2016-05-19 10:15:25 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
「懐かしきフィルムカメラのエプロンデザイン」

印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-20
印刷コンサルタント 尾崎 章



フィルムカメラの基本構造は、①レンズを取付けるレンズボード部 ②フィルム感光材料の保持部 ③レンズ、ミラーの光学系部 ④遮光性のボディ本体の4部分より成り、35ミリフィルムカメラ等の登場によってレンズボード部とボディ本体が一体化されている。
国内カメラ市場で35mmフィルムカメラが大きく台頭する1947年以降にカメラボディのレンズ取付部に「エプロン」と称する金属板を取り付けるデザインが流行した時期がある。
「エプロン」に関する正式定義は無いが、「エプロン」形状がカメラデザインに大きな影響を与える事より国内では1947年から1960年代にかけて数多くの「エプロン」付きカメラが見られた。


コンタックスⅠ型がカメラデザインに及ぼした影響

1932年にドイツ・ツアイス イコン社は、「ライカ」を凌駕する35mmフィルムカメラ「コンタックスⅠ型」を発売して世界の注目を集めた。「コンタックスⅠ型」は、基本長103mmの連動距離計、1/1000秒対応の金属シャッターを搭載して先行ライカを性能面で圧倒している。
また、「コンタックスⅠ型」はファインダー及び距離計窓、エプロン形状等々のカメラデザインの秀逸性でも注目を集め、国内カメラ各社が「コンタックスⅠ型」を意識したデザインのカメラを次々と販売する展開が開始されている。



ヤシカ35  


1947年発売のライカ型カメラ「ミノルタ35-Ⅰ」、1948年発売の「ニコンⅠ型」が「コンタックスⅠ型」デザインを踏装、1958年に㈱ヤシカが発売したレンズシャッターカメラ「ヤシカ35」は「コンタックスⅠ型」「ニコンⅠ型」に類似のデザインを採用、外観デザイン、レンズ性能そして価格のコストパフォーマンスで人気を集めた経緯がある。


ミノルタ35-Ⅰ 


「コンタックスⅠ型」のエプロンは、矩形型の基本形で、1947年以降に発売されたオリンパス、東京光学、理研光学、マミヤ光機等々の国産カメラデザインに大きな影響を与える事になった。



カメラ・エプロンの基本形は矩形の金属版

1947年発売の「ミノルタ35-1」,1948年発売の「ニコンⅠ型」(日本光学)「オリンパス35 Ⅰ型」(オリンパス光学)「ミニヨンB」(東京光学)1953年発売の「リコレット」(理研光学 現:リコーイメージング)「トプコン35」(東京光学)等の35mmレンズシャッターカメラは「矩形型エプロン」を装着してメカニカル性を重視・強調したデザインを採用している。
フィルム一眼レフでは、1952年の国産初の一眼レフ「アサヒフレックスⅠ」(旭光学)がレンズマウント部の左右に「矩形型エプロン」を配している。また1955年にオリオン光学が発売した国産初のペンタプリズム搭載一眼レフ「ミランダT」もエプロン風のレンズマウント部デザインを採用している。
旭光学では、エプロン付きデザインを「アサヒフレックスⅡB」(1954年)「アサヒペンタックスK」(1958年)「アサヒペンタックスS3」(1961年)「アサヒペンタックスSV」(1962年)等の製品に採用、特にベストセラーモデルの「アサヒペンタックスSV」によってエプロン仕様のペンタックスデザインが広く定着することになった。


アサヒペンタックスK  


旭光学は1964年発売のTTL測光一眼レフ「ペンタックスSP」でエプロン無ヘのデザイン変更を行っている。
旭光学とは逆に東京光学は1963年に発売した世界初のTTL測光一眼レフ「トプコンREスーパー」に大型エプロンを装着、TTL測光はもとより当時最新鋭のシステムカメラとしてメカニカルなデザインが一世を風靡している。


トプコンREスーパー  

「トプコンREスーパー」は当時の親会社:東芝が「ミラーメーター」開発以外に工業デザイン面での協力を行い、「優れた性能をアピールする直線的メカニカルデザイン」を採用した事が報じられている。東京光学では、姉妹機「トプコンRE2」、世界初のレンズシャッターTTL一眼レフ「トプコンUNI」も同一デザイン展開を実施、エプロン付きデザインの「トプコン・TTLトリオ」として注目を集めた経緯がある。

矩形型エプロンの最終製品には、ツアイス・イコン社との提携により㈱コシナが2005年に発売を開始した「ツアイス・イコン」がある。デジタルカメラ時代にフィルムファンに支えられて健闘したが2013年に惜しまれつつ販売を終了している。




ミノルタAシリーズの半円形エプロンデザイン


千代田光学(現:コニカミノルタ)は1955年発売の「ミノルタA」に半円形型のエプロンを採用、続いて「ミノルタA2」「ミノルタA2L」,1957年発売のレンズ交換式「ミノルタ スーパーA」のAシリーズカメラに同一エプロンデザインを採用している。


ミノルタA2 


ミノルタAシリーズは米国市場での評価も高く、1958年発売の国産初のセレン光電池露出計連動カメラ「ミノルタオートワイド」まで半円形エプロンデザインを継承している。
余談ではあるが、当時の千代田光学はレンズに「CHIYOKO」と刻印しており、「エプロンをした千代子さん」として密かな人気があった事が報告されている。


ミノルタA2「CHIYOKO」 


ミノルタカメラは、高級コンパクトカメラブームの1990年にセゾングループ・デザインハウスのデザインによる特別仕様モデル「Minolta Prod 20’s」(48.000円)を全世界2万台限定で発売している。この「Minolta Prods 20’S」は丸型デザインのエプロンが注目を集め、「クラシックデザインカメラは、エプロンが不可欠」という基本が再認識されている。


ミノルタプロッド20‘S 



フジカ35M,コダック・レチネッテの逆三角形エプロン

富士フィルム初の35mmレンズシャッターカメラ「フジカ35M」は、レンズ性能を始めとするカメラの優秀性はもとより、東京芸術大学・田中芳郎教授によるデザインも注目を集めた。田中デザインの富士フィルムカメラは、「フジペット」「フジペット35」「フジペットEE」「フジカラピッドS」から女性向け「フジカミニ」迄、多岐に及んでおり、中でも「フジカ35M」は海外でも高い評価を受けている。1957年発売の「フジカ35M」は直線を基調としたデザインで、特に逆三角形のエプロンが印象的であった。


フジカ35M


ドイツ・コダックが大衆機・レチナシリーズとして1959年に発売した「Retinette 1A」は、丸みを帯びた逆三角形エプロンのスタイリングで人気を博したカメラである。クロムメッキの緻密性が高く発売後50年を経過したにも関わらず美しい外観が魅力的で現在でも中古カメラ市場で人気がある。
一方、米国コダックが1951年に発売した「Signet 35」は、前述「Retinette 1A」とは好対照にダイカスト仕様の重厚なカメラである。


コダック レチネッテ1A


もともと「Signet 35」はアメリカ陸軍の通信部隊がコダックに発注した軍用カメラで「Signet」の名前はSignalを語源としている。
民生用としても発売された当機は、カメラ正面及びカメラ上部・軍艦部が完全左右対称のデザイン、ファインダーと一体化したエプロンデザインが好評を博し「御洒落カメラ」として人気を集めた。本機のエクター44mm f3.5・テッサータイプレンズは、描写性能に優れており今日でも若い女性に人気のある「往年のMade in USA」製品である。


コダック シグネット



異形エプロンデザインの頂点、大成光機ウェルミー35M


小西六写真工業が1956年に発売した「コニカⅡA」は不規則な曲線形のエプロンを装着して注目を集めた。同社の記録によると「両手でカメラを保持した時に指が触れる部分は貼り皮」として「撮影者が指に違和感を持たない」ホールド感の追求結果によるエプロン形状と記されている。確かにカメラを両手で保持した際に指がエプロンに触れる事は無く、この自由曲線がカメラ外観に「優しい」イメージを与える効果も生じている。
この優美なエプロン形状は、残念ながらマイナーチェンジ機「コニカⅢ」では矩形型エプロンに戻されている。


コニカⅡA


「コニカⅡA」のエプロン形状コンセプトを更に発展させた究極のエプロンデザイン製品がある。小西六写真工業と協力関係にあった大成光機(山梨コニカを経て現:コニカミノルタオプトプロダクト㈱)が1957年に発売した「ウェルミー35M2」である。距離計無・目測式焦点調節のビギナー向けカメラでは有るが14角の「異形」多角形エプロンによる存在感が際立ったカメラで「エプロン・ユニークデザイン賞」に値するカメラであった。


ウェルミー35



以上     
     
 
     





フィルム各社が創生した懐かしの芽生えカメラ市場

2016-04-22 13:43:56 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
「フィルム各社が創生した懐かしの芽生えカメラ市場」
 
印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-19
印刷コンサルタント 尾崎 章


第二次世界大戦終了直後より軍需用光学製品の生産を担当した国内外の光学各社は一斉に民生用製品へと生産体制をシフト、国内では1947年発売の距離計連動カメラ・ミノルタ35-Ⅰ型(千代田光学精工)を筆頭にニコンⅠ型(日本光学工業・1948年)オリンパス35-Ⅰ型(高千穂光学工業・1948年)コニカⅠ型(小西六写真工業・1948年)等々が相次いで発売される展開に至っている。

続いて1950年に理研光学工業が発売したリコーフレックス(5800円)が二眼レフ市場を創生、アルファベットのAからZまで有ったとされる製品名の普及型二眼レフ製品が各社より次々と発売され国内のカメラ保有率は飛躍的な高まりを見せている。

当時、写真大国で有った米国では、新規需要開拓として1950年代より「初めてカメラを持った子供が、写真を簡単に撮影出来る・芽生えカメラ」の需要創生が注目され、主役のコダックは「コダック・ポニー」ブランドでプラスチックボディのビギナー製品展開を開始して市場創生に成功している。
「コダック・ポニー」の成功を見てアグファ、富士写真フィルム、小西六写真のフィルム各社がこれに追随、フィルム需要を創生する「芽生えカメラ」グローバル市場が形成される事になった。


コダック・ポニー135



イーストマン・コダックの「コダック・ポニー」

イーストマン・コダックが製品化した芽生えカメラの代表的機種に「Kodak Pony 135」がある。35mmパトローネ入りフィルムを使用する当該機は、Kodak Anaston 51mm f4.53群3枚のトリプレットレンズを搭載、前玉回転式・目測焦点調節、B,1/25~1/200秒の4速シャッター等々の仕様を有していた。
機能は最小限度に簡略化されていたが、沈胴式レンズを採用する等、芽生えカメラ~初級者向けのニーズを対象としていた。
ファインダーは単純構造のガリレイ式で生産後60年以上を経過した今日でもクリァーな視野を維持している固体が多く半世紀前のフィルムカメラを楽しむ事が出来る。


富士フィルムの「フジペット」


カメラ各社より遅れて1957年9月に富士写真フィルムは、同社初の35mmレンズシャッターカメラ「フジカ35M」を発売、同年にブローニー(120)フィルムを使用する少年・少女向け芽生えカメラ「フジペット」(1950円)を発売して注目を集めた。
富士写真フィルムは、1948年にブローニーフィルムを使用する6×6判・スプリングカメラ「フジカシックス1A」でカメラビジネス参入を開始した関係も有り、芽生えカメラ「フジペット」でもブローニーフィルムを採用した。


フジペット


「フジペット」は、単玉・1枚レンズにも関わらず6×6 cmの大型画面サイズのメリットもあり1950円の芽生えカメラとしては想像できない、高いコストパフォーマンスを発揮して大ヒットに至っている。
「フジペット」は、東京芸術大学・田中芳郎教授による「シンプルかつ、先進的」デザインも高く評価され、後継機「フジペットEE」(1961年3800円)及び35mmフィルム仕様「フジペット35」と合わせたシリーズ販売台数は当時のカメラ販売台数記録を更新する100万台超を記録している。
「フジペット」の設計は、印刷業界とも関連深い甲南カメラ研究所が担当、シャッターチャージとシャッターリリースの2アクション操作と緩曲構造のフィルム面で単玉レンズ特有の像面湾曲収差を合理的に補正する等、性能及びシンプル操作面で高い評価を得ている。また、黒、赤、青、黄、緑、グレーの5色レザーバリエーションも時代を先取りした仕様として注目を集めた。


フジペットのフィルム室


「フジペット」の大ヒットで市場規模を再認識した富士写真フィルムは、2年後の1959年6月に上位機種として35mmフィルムを使用する「フジペット35」(4100円)を発売して中学~高校生向けの需要開拓を開始している。


フジペット35

「フジペット35」はフジナー45mm f3.5(3群3枚)トリプレット構成のレンズを搭載、B,1/25,1/50.1/100./200の4速シャッター等、「Kodak Pony 135」に対峙する性能を有していた。デザインは「フジペット」同様に東京芸術大学・田中芳郎教授が担当、黒・赤・緑の3色カラーバリエーションが用意された。
「フジペット」「フジペット35」は、団塊世代にとって懐かしの想い出カメラである。



コニカの芽生えカメラ「コニカ スナップ」


小西六写真工業は1953年に普及型カメラ「コニレット」を発売してカメラ需要拡大を図っている。5500円の当該機は専用パトローネ入り35mm無孔フィルムを使用、画面サイズ30×36mm、12枚撮りであった。


コニカ スナップ 


小西六写真では、「コニレット」を芽生えカメラでは無く普及型・サブカメラに位置付けており、1956年に改良型「コニレットⅡ」1959年にはセレン露出計を搭載した「コニレットⅡ・M」を発売、3機種合計のシリーズ販売台数は16万台弱と報じられている。
小西六写真では、当時のライバル富士写真フィルムが「フジペット」の大ヒットに続いて35mmフィルム仕様の「フジペット35」を発売するに至って対抗機種による当該市場への参入を決定している。

小西六写真は「35mmフィルム仕様・芽生えカメラ」として1959年12月に「コニカ スナップ」(4950円)を発売、「フジペット35」より850円高い「コニカ スナップ」は当時の協力会社・大成光機(後の山梨コニカ)が1957年末に発売した入門用カメラ「ウェルミー35M2」をベースに短期間で製品化を行ったカメラで、45mm f3.5のレンズにB.1/25.1/50.1/100.1/200の4速シャッターを搭載、ダイカストボディで「フジペット35」よりも大人びたデザインであった。
しかしながら、「ペット~ペット♪、フジペット♪、僕のカメラはフジペット、兄さんペット35,フジフィルムのフジペット~♪」のCMソングまで登場させた富士写真フィルムの「芽生えカメラ」ビジネスに対抗出来ず、「コニカ スナップ」は数年で市場から姿を消す展開に至っている。



アグファの芽生えカメラ・クリック

海外カメラ市場では、コダックの芽生えカメラ「コダック・ポニー」「コダック・ブローニー」に対抗してアグファ「クリック」(Click)が健闘した。


アグファ・クリック


富士写真フィルム「フジペット」と同様にブローニー・120フィルムを使用する画面サイズ6×6cmのプラスチックボディのカメラである。
搭載レンズは、72.5mm f8 固定焦点の単玉1枚レンズ、シャッター速度は1/50秒単速、2.5~4mの近接撮影を可能とするクローズアップレンズを内蔵、専用フラッシュガンもラインナップされていた。
1959年に発売された当機は1970年頃まで欧州で広く販売され、現在でも欧州各地の中古カメラ店で見かけるケースが多い。国内でも新宿の中古カメラ店で6000~8000円程度で販売されているアグファ「クリック」を見かけるケースが有る。



富士フィルムのキャラクターカメラ

富士写真フィルムは、東京ディズニーランドの開設に合わせて1983年頃より「ミッキーマウス」のキャラクターカメラを芽生えカメラとして数多く発売している。


フジ ハイ!ミッキーマウスMD

一例としては、「フジ ハイ!ミッキーマウス」(1989年5800円) 「フジ ハイ!ミッキーマウスMD」(1995年6300円)があり、1994年にはジャイアンツ、タイガース等の人気球団マークをプリントした「フジスマートショット ジァィアンツ」(3800円)に代表される「スマートショット」シリーズを発売、何れも33~35mm f8~9.5の広角レンズ、固定焦点、1/100単速シャッター、ストロボ搭載を基本仕様としていた。
当該製品は、レンズ付きフィルム「写ルンです」(1986年発売)とのオーバーラップも有り短期間で姿を消しているが小学生の「芽生えカメラ」としてニーズを満たしていた。
ジャイアンツ仕様の「フジスマートショット ジャイアンツ」阪神タイガース仕様の「スマートショット タイガース」は、巨人・阪神ファンにとって「垂涎の存在」となっている。


フジ スマートショット ジャイアンツ

(以上)










ナショナルカメラから始まったパナソニックのカメラビジネス 

2016-03-23 15:22:47 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
ナショナルカメラから始まったパナソニックのカメラビジネス 

印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-18
印刷コンサルタント 尾崎 章


我国を代表する電機大手の松下電器産業は、2006年に1926年より使用していた歴史的ブランドである「ナショナル」を廃止、コーポレートブランドとして「パナソニック」への統一と同時に社名の「パナソニック」変更を行っている。
松下電器産業当時は、国内家電ブランド「ナショナル」、家電海外ブランド「パナソニック」、オーディオ製品「テクニクス」の3ブランド運用を長期間実施していたがブランド統一によるビジネス拡大等を目的にブランド統一を図っている。
「ナショナル」ブランド全盛の1978年に松下電器が「ナショナル」ブランドのフィルムカメラを発売してカメラ業界参入を開始、今日の「パナソニック・デジタルカメラ」の基礎を築いた事を知る人は少ない。


AMラジオ付ポケットカメラが最初のナショナルカメラ


1978年に松下電器はAMラジオ付きポケットカメラ「ナショナル・ラジカメCR1」を発売、カメラ業界への参入を開始した。


ナショナル・ラジカメCR1とフジ110ポケットフィルム


「ナショナル・ラジカメCR1」は、コダックが1972年に発売した110カートリッジフィルム(ポケット インスタマチック フィルム)を使用するポケットカメラで、110フィルムは17×13mmの画面サイズにも関わらずキャビネ判程度迄の拡大プリントが可能であった事より市場が拡大、コダックに続いて富士フィルム、アグファ、コニカ、キャノン、ミノルタ、旭光学 等々が様々なタイプの110フィルムカメラを製品化して市場ニーズに応えている。
なかでもAMラジオを搭載して突然に市場参入を開始した松下電器「ナショナル・ラジカメCR1」は、カメラ業界はもとより消費者を驚かせた。
松下電器は山形にレンズ生産工場を有しており、得意とするストロボ生産技術とラジオ生産技術を組み合わせて小型・高性能AMラジオとストロボを内蔵した110フィルムカメラの製品化を行っている。
松下電器は、1980年に改良型「ナショナル・ラジカメCR2」とフィルム自動巻き上げ機能を搭載した「ナショナル・ラジカメCR3」を発売してラインナップ強化を行っている。
カメラへのラジオ搭載は、1959年に興和㈱・電気光学事業部からカメラ付16mmフィルムカメラ「ラメラ」が発売されているが、松下電器「ラジカメ」の約20年前に発売された製品の為にラジオ自体のコンパクト化が難しく、更にサイズが制限される状況下では16mmカートリッジフィルム「ミノルタ16フィルム」を使用する16mmカメラの搭載が限界であった。


ナショナル・ラジカメCR1とフジカポケットカメラ 

「ナショナル・ラジカメCRシリーズ」では、本格的なスピーカーを搭載した事より一般的な110フィルムカメラよりもボディサイズが大きくなったが、ラジオ付という事で市場は受け入れた模様である。
松下電器では、ポケットカメラの主要需要層である若い女性、高校生・大学生をターゲットに設定、1970年にラジオ生産工場として建設された福島工場で月産1万台ベース(販売当初)の生産が行われたと報じられている。


ナショナル・ラジカメのラジオ部  


35mmコンパクトカメラ「ナショナル チャンス」

松下電器は「ラジカメ」に続いて1983年に35mmコンパクトカメラ「ナショナル チャンスC700-AF」を発売して35mmレンズシャッターカメラ市場への参入を開始した。


ナショナル・チャンスC700AF


本体価格44.390円と普及型MF一眼レフに近い価格の当該カメラは、撮影枚数、フィルム感度、電池消耗度をコンパクトカメラとして初の液晶表示を行う等、「電器メーカーらしい」特徴を有し、更にはLSIセンサーによって内臓ストロボが自動的にポップアップされる機能も設けられ、このストロボのアップダウンに超小型モーターによる電動駆動を採用してカメラ他社を驚かせた経緯がある。
レンズは、山形工場(天童市)製のオリジナルブランド「ナショナルレンズ」を搭載、35mmF2.8のテッサーテイブレンズ(3群4枚構成)は「なかなか」の描写性能を有していた。


ナショナル チャンスの液晶表示部 

松下電器は、1985年にデート機能を搭載した「ナショナル チャンス・クオーツデートCD-700AFS」(50.000円)と普及型「ナショナル チャンス・ジュニアC-500AF」(29.700円)を発売してラインナップ拡大を図っている。
松下電器・山形工場は、ガラスモールドの非球面レンズをプレス生産する世界トップレベルのレンズ生産技術を有しており、球面収差・歪曲収差等のレンズ収差を複数レンズで補正する光学設計を不要とする非球面レンズを一貫生産する事が出来る。
現在では、光学各社への非球面レンズ供給ビジネスも活発化しており、このレンズ技術と液晶、LSI,超小型モーター技術を組み合わせたカメラが「ナショナル チャンス」であった。


ミラーレス一眼レフ市場をパナソニックが創生


2008年10月にパナソニックは、世界初ミラーレス一眼レフ「パナソニック・ルミックスDMC-G」を発売して注目を集めた。オリンパスと共にデジタル一眼レフのフォーサーズ規格をミラーレス一眼レフ向けに改良・変更を行いレンズ・フランジの短いレンズによりコンパクト性に優れたミラーレス一眼レフの製品化を実現している。コンパクト性とコストパフォーマンスに優れたマイクロフォーサーズ・ミラーレス一眼レフは、女性需要を中心に短期間に市場創生が行われた事は周知の通りである。


パナソニック・ルミックスGF1 2009年度グッドデザイン金賞受賞

パナソニックとオリンパスよるマイクロフォーサーズ・ミラーレス一眼レフ発売を契機に各社よりミラーレス一眼レフの新製品が次々と市場投入される状況に至った今日、ミラーレス一眼レフの立役者・パナソニックのカメラ事業の原点が数機種の「ナショナルカメラ」にある事はカメラ史からも忘れ去られている状況にある。
ピーク年に年間650万台のデジタルカメラを生産・販売したパナソニックのカメラ事業はスマートフォンカメラ機能の影響によるコンパクトタイプ・デジタルカメラの市場失速の影響を受けて2016年3月決算期で年間180万台への減少を余儀なくされているが、高付加価値のミラーレス一眼レフへのシフトにより「シェアを追わず、採算重視の徹底化」が図られている状況にある。

 
CP+カメラ展のパナソニックブース 
 
 
(終)

ピッカリコニカ・コニカC35EFが創生したストロボ搭載カメラ市場

2016-02-17 15:25:16 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
『ピッカリコニカ・コニカC35EFが創生したストロボ搭載カメラ市場』 

印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-17
印刷コンサルタント 尾崎 章



1974年にコニカ・小西六写真工業(現・コニカミノルタ)が民生用としては世界初のストロボ搭載カメラ「コニカC35EF」を発売して注目を集めた。


コニカC35EF
 

コニカが1968年に発売したコンパクト35mmカメラ「コニカC35」は、カメラ携行性問題解決と簡単撮影を実現した自動露出機能により「手軽に撮影できるカメラ」として女性需要層を核とした新規需要創生に成功し販売台数62万台のヒット製品になっている。
「コニカC35」ヒットの背景には、当時の国鉄が企画した旅行キャンペーン「ディスカバージャパン」効果による女性旅行ブームに伴う小型カメラの需要増が有り、更に当時の流行語にもなった人気のグループサウンズボーカリスト:井上順さんによるTV・CM「ジャ~ニ~ コニカ」効果、そして小型コンパクトカメラとして十分な基本性能を有していた事が挙げられている。

コニカは、「コニカC35」に続いて室内撮影需要に応えるべく小型ストロボを搭載した「コニカC35EF」を製品化、「コニカC35」同様に井上順さんによる「ピッカリ・コニカ」「ストロボ屋さんゴメンナさい」のCMをベースとした販促展開を実施、「コニカC35」を超える販売台数100万台超の大ヒットに至っている。

「コニカC35EF」は、高圧電流を使用するストロボ搭載による感電対策も兼ねてプラスチックボディを採用、ストロボ用の乾電池も含めてボディ重量340gと従来の金属ボディコンパクトカメラと比べて半分レベル迄の軽量化も実現している。
「コニカC35EF」の成功により競合カメラ他社も次々と同一仕様のカメラを製品化して追随を図り、短期間に「ストロボ搭載」「プラスチックボディ」が小型カメラの業界標準仕様となった経緯がある。


フラッシュからストロボへ


室内写真撮影用の補助光源としては、閃光電球・フラッシュバルブを使用する発行装置・フラッシュガンが1960年代まで広く使用されていた。


フラッシュガンを装着したミノルタV2  


閃光電球・フラッシュバルブには、レンズシャッター用のM級とフォーカルプレーンシャッター用の発光時間が長いFP級が有り、其々にモノクロ用のクリァーバルブとカラーフィルム用のブルーバルブが製品化されていた。
国内閃光電球メーカーは、東京芝浦電気(現・東芝)と松下電器産業(現・パナソニック)があり、当時の製品価格例としてはM-3(M級小型)5球入り・210円であった。


標準型と口金無AG型のフラッシュランプ 



閃光電球の展開は、電球の口金を省略した小型閃光電球(AG型)が開発・製品化され閃光電球・フラッシュバルブの携行性が大幅に向上、カメラ各社も自社カメラとの適合性を重視した小型フラッシュガンを製品化して当該需要に応えている。
AG型閃光電球の当時価格は、レンズシャッター用AG-1(クリア・10球入り)240円、AG-1B(ブルー・10球入り)260円で、口金型閃光電球同様にフォーカルプレーン用・AG-6,AG-6Jもラインナップされていた。



専用AG型ペンフラッシュを装着したオリンパスペン  

AG型・小型閃光電球に続く閃光電球・フラッシュバルブ展開としては、1970年に米国シルバニア社が開発した小型AG球4個を直方体の4面に埋め込んだ発光器・フラッシュガン不要の「フラッシュ・キューブ」がある。「フラッシュ・キューブ」はカメラボディに設置されたソケットに差し込むだけで4回のフラッシュ撮影が出来る簡易システムとしてカメラ各社の注目を集めた。
カメラ各社は、「フラッシュ・キューブ」を当時の初心者向けカメラとして注目を集めていたコダック126インスタマチックフィルムカメラ及びアグファ・ラピッドシステムカメラ等に採用、当該フィルムを使用するカメラの大部分に「フラッシュ・キューブ」ソケットが搭載される展開を示した。


フラッシュ・キャーブ付 コダックインスタマチックカメラ 


しかしながら、上級者向けカメラ及び一眼レフカメラへの普及は無く、グリップオン型小型ストロボ及びストロボ内蔵カメラの台頭により過渡的な存在化を余儀なくされている。



ストロボメーカーの苦戦

カコストロボ(東京・品川)サンパックコーポレーション(東京・大田)に代表される国内写真光源各社は、1963年より小型ストロボを製品化して積極的なビジネス展開を開始している。
特にカメラ上部・軍艦部のアクセサリーシューに取り付けるアマチュア向けの小型ストロボ市場が拡大、「カコストロボ」は小型ストロボの代名詞的存在となる程の展開を示した。
しかしながら、「コニカC35EF」(ピッカリコニカ)を契機とするコンパクトカメラへのストロボ搭載の標準化により一般アマチュア向け市場が一気に終息する厳しい状況を迎える事態に陥っている。


カコストロボを装着したヤシカハーフ17 



カコストロボ㈱は1970年代末に経営破綻を来たし、ストロボの主要パーツであるコンデンサを供給していた日立コンデンサ㈱(現・日立NIC)が事業継続を図ったものの1977年にはプロペット㈱に事業譲渡を行い当該市場よりの撤退を余儀なくされている。
井上順さんの「ストロボ屋さんコメンナさい」のCMフレーズが文字通りに具現化する展開に至っている。

一般用小型ストロボからプロフェッショナル・業務用ストロボへのシフトを先行したサンパックコーポレーション㈱は現在も当該市場で事業継続を図り、東京・目黒区上目黒に本社・工場を有した㈱ミニカムは、現在も当該地で㈱ミニテクノとして業務用ストロボ製品の製造販売ビジネスを展開、旧社名のミニカムはビル名及びマンション名として継続されている。1970年代には、同社の通りを挟んだ反対側には、印刷会社・㈱文星閣(東京・大田区)の本社・工場があり、㈱ミニカム社屋前を通って㈱文星閣を技術サポート訪問した経験がある。
ミニカムは大型フラッシュガンの市場で高いシェアを有し、筆者も学生当時に「ストロボは光量不足」としてミニカム製のフラッシュガンを使用しており、目黒の㈱ミニテクノ社、ミニカムビルは懐かしの存在である。


ミニカム社製 大型フラッシュガン




初のストロボ搭載一眼レフは、フジカST-F


一眼レフへのストロボ搭載は「コニカC35EF」の2年後、1976年に富士フィルムの小型一眼レフ「フジカST-F」によって実現されている。


フジカ ST-F 


世界初のストロボ搭載一眼レフ「フジカST-F」は、レンズ固定、ミラーシャッター方式を採用したコンパクト一眼レフで前述「コニカC35EF」と大差の無いボディサイズであった。
「フジカST-F」は29.800円の低価格にも関わらずフジノン40mm f2.8(3群4枚)の準広角レンズは描写力も高く、「コニカC35EF」に迫る360gの軽量性等々、価格を卓越したコストパフォーマンスを有していた。
「フジカST-F」は現在でも楽しめるコンパクト一眼レフであるがペンタプリズムが溶解した保護クッション剤によって腐食され、ファインダー視野にダメージが発生している確率が高い事が残念な現象である。
レンズ交換式一眼レフへのストロボ搭載は、1986年発売の「オリンパスOM707」がカメラグリップ部にポップアップ式の縦型ストロボ搭載を行っているが、現在のデジタル一眼レフが数多く採用しているペンタプリズムカバー部へのストロボ搭載は旭光学(現・リコーイメージング)が1987年に発売した「ペンタックスSFX」によって製品化が図られている。


ペンタックスSFX 



「ペンタックスSFX」はペンタプリズムのボディ埋没化によって生じた空間にストロボを設置する手法でストロボ内蔵を実現している。
「ペンタックスSFX」以降、普及型及びファミリーユースの一眼レフはペンタプリズムカバー部へのストロボ搭載が標準仕様となり、今日のデジタル一眼レフでも当該仕様は受け継がれている。



フラッグシップ一眼レフはストロボ非搭載が基本ルール?


「ペンタックスSFX」以降、各社はペンタプリズムカバー部にストロボを搭載した一眼レフの製品化展開を実施しているが、旗艦一眼レフ「フラッグシップモデル」と称されるプロフェッショナル向けの製品にはストロボを搭載しない暗黙のルール?が存在している。
日本光学(現・ニコン)のフィルム一眼レフ・フラッグシップモデルである「ニコンF4」(1988年発売) 「ニコンF5」(1996年発売)そして現行製品「ニコンF6」(2004年発売)は何れもストロボ非搭載である。
同様にキャノン製品も「EOS-1N」(1994年発売)現行製品の「EOS-1V」(2000年発売)共にストロボは非搭載で両社の方針はデジタル一眼レフにも共通しておりニコンのデジタル一眼レフのフラッグシップモデル「ニコンD3」,キャノン「EOS-1」シリーズ共にペンタプリズム部へのストロボ搭載は無い。
一眼レフ・フラッグシップモデルへのストロボ搭載例としてはミノルタカメラ(現 コニカミノルタ)が1998年に発売した「ミノルタα9」が唯一の例である。


ミノルタ α9




ニコンF6と専用ストロボ



「ミノルタα9」はミノルタカメラが万全を期して発売したプロユースのフィルム一眼レフでペンタプリズムにガイドナンバーG12のストロボを搭載した。この展開に対して写真業界で賛否両論の騒動が起こり、カメラ雑誌「アサヒカメラ」では「ワイヤレスストロボを使用した多灯撮影時の信号用ストロボとして有効」とのフラッグシップモデルへのストロボ搭載を支持したものの、「ストロボ撮影は本格ストロボで」とするプロ写真家の多くは否定的発言に固執した。
確かに、ストロボの高さが制限される内臓ストロボでは、ズームレンズのフードで発光が「ケラれる」問題もあり本格使用では制限を多々受けるが「有れば便利」な機能には変わりなく一部写真家の固定概念が問われる問題に至った経緯がある。