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印刷図書館倶楽部ひろば

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団塊世代に懐かしのライトパンフイルム、みのりフイルム

2015-04-09 15:43:03 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
団塊世代に懐かしのライトパンフィルム、みのりフィルム          
印刷図書館クラブ
印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-8

印刷コンサルタント 尾崎 章


1959年発売のオリンパス光学(当時)のハーフサイズカメラ「オリンパス・ペン」(発売当時価格6000円)が創生したハーフサイズカメラ市場は、フィルムがまだ貴重な存在であった当時に「2倍の写真が撮れる」「手軽に携行出来る」として大人気となった。
カメラ各社も競ってハーフサイズカメラ市場に参入、日本光学(当時)旭光学(当時)以外のカメラメーカーが普及型から高級機種、女性向け機種等々、様々な機種のハーフサイズカメラが発売され「ハーフサイズ全盛期」を迎える展開に至った。


短尺フィルムのライトパンSS,みのりフィルムSS

ハーフサイズカメラが普及した時代は、まだ「一枚毎に慎重に撮影する」消費者傾向が残っており、2倍の写真が撮れるハーフサイズカメラで72枚及び40枚の撮影が出来る36枚、20枚撮りフィルムは逆に荷が重い存在となるケースも発生する事になった。
私が写真チェーン店の現像所でアルバイトをしていた1960年後半でも、1本のフィルムに「正月スナップ→花見→海水浴→スキー」等の年間行事が写し込まれているネガフィルムに遭遇して思わず苦笑いをした経験が多い。個人の年間フィルム平均消費量が2本以下の時代であった事より当然起こりうるパターンであった。
ハーフサイズ需要層が押し上げた「もう少し短いフィルムが欲しい」という短尺フィルム需要に応えたフィルムが㈱六和の「みのりフィルムSS」と愛光商会㈱の「ライトパンSSフィルム」で団塊世代には懐かしのブランドである。


「ライトパンSS」と「みのりSSフィルム」(35㎜16枚撮り)


ライトパンSS,みのりフィルムSSは、OEM製品の先駆け。

「みのりフィルムSS」は小西六写真工業(コニカミノルタ)「ライトパンSS」は富士写真フィルム(富士フィルム)より製品供給を受け、1964年当時の価格は「みのりフィルムSS」16枚撮り、「ライトパンSS」16枚撮り共に100円で有った。当時のモノクロフィルム「ネオパンSSフィルム」(富士フィルム 20枚撮り)「コニパンSSフィルム」(小西六 20枚撮り)が150円で有った事より割安フィルムとしての存在感を発揮、「ライトパンSS」16枚撮りは2000年まで販売が継続されるロングライフ製品となった。
「みのりフィルムSS」を販売した㈱六和は、「みのりフィルムSSは、一本100円で買えます!」をキャッチコピーとしてカメラ雑誌等で積極的な販促展開を実施している。
また、「みのりフィルムSS」「ライトパンSS」フィルムは、共に35ミリフィルム以外のロールフィルム市場でもブローニーサイズ6枚撮り(1964年当時 80円)ボルタ判12枚撮り(1964年当時価格 60円)の製品展開を実施している。
特にボルタ判フィルムは、コダックと同様に富士フィルム、小西六写真工業も未参入で有った事より「みのりフィルムSS」「ライトパンSS」が市場を二分する事になった。


ボルタ判フィルム


ボルタ判フィルム市場は、みのりフィルムSSとライトパンSSの独壇場

ボルタ判フィルムは、1936年にボルタ・ベェルグ社(ドイツ)が発売したカメラ「ボルタヴィット」用に製品化されたフィルムでリーダーペーパー(遮光性裏紙)に35mm幅のフィルムを貼ったロールフィルムである。
世界のフィルム市場をリードしていたコダックが当該フィルムの製品化を見送った事より120,135,220等のロールフィルム番号が無く、ボルタ判の総称で呼ばれる事になった。
ボルタ判フィルムを使用する国産カメラの本格展開は、1948年に宮川製作所の「ビクニーB」が最初とされ大和光機・萩本商会、東郷堂等の製品がこれに続きボルタ判低価格カメラ市場が創生されている。
1948年に萩本商会(萩本欣一さん御尊父の会社・大和光機製)が発売したダン35シリーズは、ダン35Mでボルタ判・135ミリフィルム兼用化を図り、ダン35Ⅲでは画面サイズ24×32mmのニホン判対応も行っている。
東郷堂が1951年に発売したボルタ判二眼レフカメラ「ミューズフレックスⅡA」は、1950年に発売され国民的大ヒットした「リコーフレックス」と同等仕様を採用してコンパクト性を武器にボルタ判二眼レフの本格普及を試みている。


「ミューズフレックス」(東郷堂)と7ボルタ判フィルム


しかしながら、1950年に一光堂が発売したプラスチックボディのボルタ判カメラ「スタート35」が、単玉レンズ、2速シャッター、固定焦点の簡略機能と700円の低価格で小学生をターゲットとしたホビーカメラ市場を創生、各社がこれに追随した事より「ボルタ判フィルムは、ホビーカメラ用フィルム」のイメージ定着する事に至っている。
ボルタ判の「みのりSSフィルム」12枚撮りは60円(1964年当時)1991年当時の「ライトパンSS」12枚撮りが170円、フジカラーHR100の供給を受けたボルタ判のネガカラーフィルム「ライトパンカラーHR100」が320円(1991年当時)であった。


「スタート35」(一光堂)とボルタ判フィルム


マミヤが造ったボルタ判カメラ・マミヤマミー

ハーフサイズカメラ「オリンパス・ペン」が発売される1年前の1958年にマミヤ光機(当時)が本格的ボルタ判カメラ「マミヤマミー」(3900円)を発売した。
3群3枚構成のトリプレットレンズ、4速シャッター、シャッターチャージ・セルフコッキング、ファインダー色別表示距離計等々、マミヤらしいスペックを搭載していた。
画面サイズもボルタ判の標準とされて24×24mmから24×28mmに変更、ボルタ判フィルムで10枚撮りを可能としていた。
この「マミヤマミー」、東京・新宿の中古カメラ店等で1万円前後の価格で販売されている事が有り、ボルタ判フィルムのリーダーペーパーとスプールが有れば35mmフィルムを貼り付けて容易にボルタ判フィルムを手造り出来、懐かしのボルタ判撮影を楽しむ事が出来る。


「ライトパンカラーHR100」(ネガカラー)


六和、愛光商会は、どんな会社

「みのりフィルム」を販売した㈱六和は、ロクワブランドの写真用品ビジネスを展開していたが、1962年に小西六写真工業の製品卸業・㈱ひのまるや と合併して社名を㈱チェリー商事に変更、小西六関連の写真材料とチェリーブランドの写真用品ビジネスを展開した。
1987年に小西六写真工業㈱が㈱コニカへと社名変更を行った際に㈱チェリー商事は㈱コニカマーケティングと合併、チェリーブランド製品はコニカブランドに変更されて継続販売が行われたが「みのりフィルム」ビジネスはこの期に終了している。

また㈱コニカマーケティングも2000年のコニカ、ミノルタ合併時に写真用品事業終了に至っている。「みのりフィルム」は、東京・青梅市の小西六グループ工場で生産されたが、当該工場もコニカのフィルムビジネス撤退前後に閉鎖されている。
一方、愛光商会㈱のフィルムビジネスは、1982年「ライトパンカラーⅡ」(35mmネガカラー10枚撮り340円)1991年「ライトパンカラーHR100」(35mmネガカラー10枚撮り330円)とフィルム供給元の富士フィルムのネガカラー展開に合わせた新製品対応を行いライトパンフィルムビジネスを継続した。特にアグファが開発したラピッド方式カメラに対応する「ライトパンカラーⅡ・ラピッド」(1983年 560円)を供給する積極展開は注目を集めた。愛光商会のフィルムビジネスのベースである「ライトパンSS」(モノクロ16枚撮り)は2000年まで販売継続されるロングライフ製品となった。


「マミヤ・マミー」(マミヤ光機)


「アグファ・ラピッド」フィルムと「ライトパンカラーⅡ・ラピッド」


フィルムビジネスを終了した愛光商会は、自社ビル「愛光ビルディング」のテナント業と産業化学薬品の販売業へと業態変革を行ったが、2010年に三井不動産による会社買収により会社解散に至っている。
現在も港区西新橋の外堀通りに10階建の「愛光ビルディング」は残っており、「愛光ビルプレート」から往年の「ライトパンフィルム」ビジネスを忍ぶ事が出来る。
「ライトパンSS」「みのりフィルム」は団塊世代の写真愛好家に懐かしのブランドである。


西新橋・愛光ビルディング



月例会 2015年3月度会合

2015-03-23 15:32:46 | 月例会
[印刷]の今とこれからを考える 

      「印刷図書館クラブ」月例会報告(平成27年3月度会合より)

●印刷産業がもっている“財産”を大切に

 文字は本来、公共のもので、原則として著作権は伴わない。しかし、書体となるとデザインが付随して、著作権が発生する。さまざまな異形書体が出現しているが、変形するほどに大元のかたちが分からなくなってしまう。許されるデフォルメの境が難しい。書体そのものがだんだんあやふやになっているのが実情だ。企業が独自の書体を他社に提供しても、それによって使用料を支払ってもらえるといった商習慣すらない。産業レベルで大元の「字体」を明確に定め、データベース化しておく必要がある。産業全体を俯瞰してものごとを考える業界人が少なくなってきた今こそ、真剣に取り組まなければならないと思う。見逃し素通りさせてしまうと、印刷産業がもっている貴重な資産を失うことになるだろう。書体に限らず、印刷産業が大切にしている固有の技術やノウハウを顧客に主張する努力もしない。重要性を印刷業界としてもっと理解して習熟し、次世代に教育していく必要があるだろう。


●大きな気持で印刷の文化を築いていこう

 印刷関係者は、もっとも身近な印刷産業の歴史を残そうという気がないようだ。印刷会社も自社の歴史を大切にしていない。古いものを壊してしまうことを厭わない。先達が注いだ努力、苦労が、情報化、デジタル化のなかでものすごい勢いで失われている。今こそ、印刷の歴史や文化を築くことに力を注いでほしい。例えば、デジタル情報は装置がなければ見られないのに対し、印刷情報は光さえあればすぐに見ることができる。人々に役立つそんな有用性を、印刷業界としてもっと喧伝すべきである。長寿企業が多いのは日本くらいで、これは、自分の儲けより他者の利益を考えてきた(商売三方良し)ことの“証”といえる。誇っていい。昔は、社会的価値とか文化財保護に気を配る器の大きい経営者が多かったが、そういう人も少なくなった。日本人全体も、先祖とか家系を重んじる欧米人に比べて、きわめてドライになってきている。どうなっているのだろうか? 非常に残念だ。


●「地域情報誌」の育成にビジネス領域がある

 地域繁盛店の誕生は、フリーペーパーで知れ渡ることがきっかけとなるが、今では、一歩進んでネットで情報が広がり、隠れた評判店にお客が押し寄せるようになった。ネットの力はすごいと思わせるが、しかし、ネットで流される情報は主観の集まりで、その主観に任せた意見が通用してしまう危うさがある。あくまで主観であるべきことが、ともすると客観になりがちな部分がある。ネットにはたくさんの情報が載っているが「本当に欲しい情報がない」と嘆く人も多い。再読もできないし、信用できない情報があるかも知れない。やはり、フリーペーパーによって得られる冷静さが必要だ。本には、自ら探して納得のうえで購入し、しかも精読できる強みがある。そこに、印刷特有の文化が育つ。地域情報誌を育てることは、印刷業界が取り組むべきビジネス領域だろう。こじんまりした市場でも成り立つような媒体をつくるところに、印刷会社の役割がある。情報をデジタル処理するノウハウがあれば、十分支援できる余地がある。


●イノベーションの現実から、何を掴み取るか


 文筆家のなかには、既存の出版社や流通機構を通さないで、読者に作品を届けたいという思いがある。現に街の書店には、作家本人あるいは小さな出版社が発行したエッセイ集や郷土誌、地元案内などの本が並んでいる。コンビニエンスストアの棚にも、選び抜かれた特定分野の売れ筋本が置かれている。取次を通さないで販売することが簡単に認められるようになったので、こうした傾向はこれからも増えていくだろう。出版ビジネスとして成り立つかどうかは、新しい発想、アイデア如何にかかっているが、イノベーションに類するビジネスであるに違いない。イノベーションの進展で技術が急速に進歩すると、ある時点で消費者が望む水準を超えるときがくる。それ以上の機能は、いわゆる過剰品質となる。各社同じ土俵でのコスト競争に陥ることになる。電気製品、電子機器の最近の動向をみれば、良く解る。土俵から脱出するためには、用途に応じた単機能の、それでいてニーズに即応した製品につくり分け、異なる顧客市場に販売していくしかない。出版界における既存の流通機構の限界も同じことがいえる。印刷会社としてこうした動きとどう付き合うか、じっくり観察して果敢に挑戦してほしい。


●教育を通じて、学生に印刷の魅力と将来性を

 大学の科目から「印刷科」がなくなって久しい。印刷業界の専門学校も、どちらかというと後継者教育に力を注いでいる。教養としての基礎教育、基本としての技術教育より、ビジネス知識に力が注がれるようになった。経営学の世界でも、理論的な基礎知識より、日常の実務に手っ取り早く役立つ実践的な手法を教えることが重点になってしまった。大学の専門学校化が指向されている今、もしかすると、あらゆる教育分野、産業分野で同じような方向にあるのかも知れない。底辺を拡げ、土台を固めるための学問の場がなくなってきている。若い人が落ち着いて学ぶ機会を得られない。重大な問題だと思う。これでは、進路先の産業について関心を深めることもできないし、将来の夢をもつことも不可能だ。印刷産業に関しても例外ではない。印刷メディアは社会的に必要なこと、印刷産業が魅力的であることを教えたいものだ。印刷業界からの積極的な発信、呼び掛けが欠かせない。


●ユニバーサル・デザインが紹介されて15年

 ユニバーサル・デザインの考え方が日本に導入されてから、15年ほど経った。健常者、目や耳の不自由な方、高齢者、子供など、多様な人々が誰もが等しく、しかも不便を感じずに利用できるようにと、インフラ設備、看板類、各種製品、その他あらゆる分野に浸透してきた。普及している背景には、バリアフリーへの理解、少子・高齢化の進展、災害対策など社会的課題の増大があるが、印刷物による協力も盛んにおこなわれている。印刷業界では、誰でも公平に読める印刷物を「メディア・ユニバーサル・デザイン」と称して、提案営業のツールに組み込んだりしている。印刷業界が提案するユニバーサル・デザインは、文字・書体、色彩・配色の切り口から、大活字本、角丸絵本、点字本に始まり、読みやすい書体(ユニバーサル・フォント)の開発、道路地図、交通路線図の色分け……と、枚挙に暇がない。電子フィルターを通して色補正し、デジタル印刷システムでユニバーサルに印刷するといった技術も使われている。


●印刷業界の社会貢献に結びつけたいものだ


実は「誰にでも公平に読めるように」という社会的要請と、「広告としてのアピール効果を」というプロモーション要求に、印刷会社は挟まれている。どちらを採用すべきか、つねに悩まされる。発注者の理解が足りないと、とかく混同視される。しかし、文字や色合いをデジタル処理し、そのデータを自在にデジタル印刷できる技術をもっている。同じコンテンツを使って、あらゆる読み手(顧客)の事情に応える印刷物を作成することができる。これは、絶対的な強みだ。無駄な生産を避けることも可能で、多様なニーズをもった顧客との共存共栄をはかれる。問題は、顧客ニーズを的確に見出すこと、その対象顧客に正確に印刷物を届けることにある。マーケティング企画から製品デリバリーに至るサプライチェーンを整えて、人間生活にやさしい印刷物を届けたいものである。共存共栄の道を、ユニバーサル・デザインを通じて開きたい。印刷技術の進歩で容易に可能になるだろう。受注促進に使おうとして、1社だけでユニバーサル・デザインに固執してはならない。印刷業界あげての用途提案、発注先を含む企業間の連携が欠かせない。ユニバーサル・デザインという領域のなかで、マーケティング感覚が醸成される。その発展形のなかで印刷業界の社会貢献ができるなら、それに越したことはない。


以上

グッドデザイン大賞カメラ オリンパスXA2とキャノンT50

2015-03-13 14:01:09 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
グッドデザイン大賞カメラ オリンパスXA2とキャノンT50

≪印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-7≫

印刷コンサルタント 尾崎 章


グッドデザイン賞は、1957年に当時の通商産業省(現:経済産業省)によって創設された優秀デザイン商品選定制度で現在は公益法人・日本デザイン振興会によって制度運営が行われている。
グッドデザイン賞の対象は、商品デザインの全領域で毎年約1000件の商品が受賞しており、制度創設以来の受賞件数は4万件を超える状況にある。当時の通産省がグッドデザイン商品選定制度を開始した背景には、日本独自のデザイン奨励があり海外商品のデザイン模倣防止も目的に含まれていた。1984年からは全工業製品が対象となり、また1964年から公募方式へと制度変更が行われている。
グッドデザイン大賞は審査員投票数の最多製品に与えられ、2007年より内閣総理大臣賞に位置付けられている。ちなみに同賞のシンボル「Gマーク」は亀倉雄策氏によるデザインである。


グッドデザイン大賞受賞カメラは、オリンパスXA2とキャノンT50の2機種のみ

グッドデザイン賞受賞カメラは数多いが、グッドデザイン大賞受賞カメラは、オリンパスXA2(1980年受賞)とキャノンT50(1983年受賞)の2機種のみである事を知る人は少ない。


グッドデザイン大賞受賞カメラ、オリンパスXA2(左)とキャノンT50(右)


オリンパスXA2

1979年にオリンパス光学(当時)が発売した35mmコンパクトカメラ:オリンパスXAは従来のコンパクトカメライメージを完全に覆した黒色ポリカーボネート樹脂のボディを採用、特に中央部が半球型に盛り上がったスライド式バリアでレンズとファインダーをカバーするカプセル型のユニークデザインで注目を集めた。外観デザインのみならず搭載レンズ・ズイコー35mm f2.8レンズ(5群6枚構成)も優秀でボディ構造の制約を受けながらもコンパクトカメラの水準を大きく上回っていた。


オリンパスXA2

グッドデザイン大賞を受賞したXA2型(34.800円)は、1980年に発売された改良型で焦点調節に3点ゾーンフォーカスを採用して利便性を高めると共にグレー、ブルー、レッド等のボディカラーバリエーションも設定、同色の専用ストロボと共にデザインの魅力を大きく拡大している。

オリンパスXA2のデザインは、日本カメラ史に名を残す同社・開発担当者である米谷美久氏(1933~2009)が担当している。同氏が担当したカメラは、ハーフサイズカメラ市場を創生したオリンパス・ペン、独創技術とデザインで世界が注目したハーフサイズ一眼レフ・オリンパス・ペンF,小型軽量一眼レフ・オリンパスOM1等々、多岐に及んでいる。
晩年の作品には、カメラ好き女優・宮崎あおいさんのCMで女性向けミラーレス一眼市場を短期間に創生したオリンパスEP1が有る。


米谷デザインの傑作 オリンパス ペン

オリンパスXA2のズイコー35mm f2.8レンズは、一眼レフ用の35mm広角レンズと遜色ない描写性能を有し、露光コントロール精度も高くカラーリバーサルフィルム撮影にも問題無く対応した為にサブカメラとして高い支持を得た経緯もある。作例写真は、ドイツ・ミュンヘンとオーストリア・インスブルックを結ぶ鉄道の国境駅:ミッテンバルドのバイオリン博物館前広場を撮影したものでコンパクトカメラとは思えない描写力である。
ミッテンバルドは、バイオリン造りとカラフルなフレスコ画の家並みが魅力の小さな町である。


ミッテンバルド・バイオリン博物館



未来派一眼レフ・キャノンT50

キャノンが1983年3月に発売したフィルム一眼レフ・T50は「新指向・未来派デザインのフィルム一眼レフ」をコンセプトに商品化され、ユーザーの撮影意思に応える自動化機能を優先した単純明快なプログラムAE専用機である。


キャノンT50

当時のフィルム一眼レフはハイアマチュア、カメラマニアの要望に応える為に、絞り優先AE,シャッター速度優先AE,マニアル等、露光制御機能を多様化する傾向にあった。キャノンは、新ジャンル開拓を図るべく「あえてプログラムAE専用機」としており、ストロボ発光制御等の自動化機能を多く搭載した事より「オートマン」の愛称がつけられ注目を集めた。
直線を主体としたシンプルデザインはキャノン社内デザインによるもので、オリンパスXA2に続いて1983年のグッドデザイン大賞を受賞している。
キャノンはT50の上位機種として3年後の1986年に著名工業デザイナー:ルイジ・コラーニ(ドイツ)によるフィルム一眼レフ・T90を発売、樹脂外装の特性を活用した曲線デザインのキャノンT90は1986年のグッドデザイン賞を受賞しているがT50の評価には及ばなかった。

海外の著名デザイナーによるカメラにはジョルジェット・ジュージアーロ(イタリア)による一眼レフ:ニコンF3,F6,D3,ポルシェデザイン事務所(ドイツ)によるコンタックスRTS一眼レフと高級コンパクトカメラ:コンタックスT、マリオ・ベリーニ(イタリア)によるコンパクトカメラ:フジカDL100、アンドレ・クレージュ(フランス)によるコンパクトカメラ:ミノルタAF-Eクレージュ 等々数多くの製品がグッドデザイン賞創設以降に発売されているがグッドデザイン大賞受賞には至って無い。


フジカDL100(マリオ・ベリーニ)


ミノルタAF-Eクオーツデート(アンドレ・クレージュ)



グッドデザイン・ロングライフデザイン賞を最初に受賞したオリンパス・トリップ35

1984年にオリンパス・トリップ35がグッドデザイン・ロングライフデザイン賞をカメラ製品で初受賞している。1968年発売のオリンパス・トリップ35はハーフサイズ判のベストセラー機・オリンパス ペンEESをベースに画面サイズを35mmフルサイズに拡大した小型EEカメラで、当時の国鉄キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」によって創生された旅行ブームにターゲットを当て旅行用カメラ「トリップ」とネーミングしている。


オリンパス トリップ35

同カメラは、「低価格(13.500円)」「簡単な取扱」「ハーフ判と比較にならない描写性能」そして「小型軽量」が女性需要層に評価されて販売期間20年、シリーズ生産台数1000万台を超えるベストセラー機となっている。
グッドデザイン・ロングライフデザイン賞の受賞は、発売より16年目で同賞が正に最適のカメラと云う事が出来る。

グッドデザイン・ロングライフデザイン賞・受賞カメラには、同じオリンパスの一眼レフ:OM-1N(1989年)、中判サイズのフジGX680Ⅱ(2009年)、ペンタックス645(1996年)、コンパクトカメラのキャノンIXYシリーズ(2009年)、そして本編vol-5で紹介のニコンFM10(2012年)がある。当然のことながらグッドデザイン・ロングライフデザイン賞受賞カメラは製品ライフの長いフィルムカメラの独壇場で、製品ライフ2~4年のデジタルカメラには該当製品が無い。


グッドデザイン・ロングライフデザイン賞を受賞した日めくりカレンダー

グッドデザイン・ロングライフデザイン賞を受賞した印刷製品がある。
2012年に新日本カレンダー㈱(大阪)が制作した「日めくりカレンダー」12種がその年のグッドデザイン・ロングライフデザイン賞を受賞している。


新日本カレンダー・日めくりカレンダー

グッドデザイン・ロングライフデザイン賞は、①人々に長く愛され ②日本の生活文化に貢献したデザイン製品に贈られる特別賞で、新日本カレンダー㈱の「日めくりカレンダー」は創業以来90年間に及ぶ製品ライフと2012年に「復刻版・日めくりカレンダー」を加えて日めくりカレンダー文化を継承し続けている事が評価対象になっている。

「毎日めくる事で、一日一日を新しい気持ちでスタート出来る」カレンダーが創生する日めくりカレンダー文化は拡大基調にあると同社はコメントしている。また、担当デザイナー・杉本正人氏によるデザインも秀逸である。
印刷製品がグッドデザイン賞の対象になる事が稀な為に、新日本カレンダー㈱のグッドデザイン・ロングライフデザイン賞受賞は快挙という事が出来る。

(終)









月例会報告(平成27年2月度会合より)

2015-02-23 13:52:29 | 月例会
[印刷]の今とこれからを考える 

      「印刷図書館クラブ」月例会報告(平成27年2月度会合より)


●フリーペーパーへの取り組みに何を学ぶか

 印刷会社も結構、フリーペーパーに取り組むようになった。全国ではかなりの数にのぼっていて、しかもスポンサーをつけずに自力で事業化している。多い例では50ページものを18万部、平均的にみても1万5,000部から3万部は確保している。社員が取材、記事作成、編集、ページアップ、印刷のすべてを社内でこなす。印刷機が空いた時間にその印刷をおこなうのだが、「そこまでできるのなら、これも編集してくれ」という依頼や、印刷そのものの仕事も増えてきているそうだ。地元の県内をいくつかの地域に分割し、それぞれの客層を調べて個々のニーズに沿った商品情報を提供したり、住民の去就を詳細に紹介したり、さらには住民の有志を情報提供者として登録するなど、地域にぴったり密着した身近な情報誌に仕立て上げているのが成功の要因だ。印刷会社自身が出版分野にまで手を広げる、こうした動きから、過去の延長線上の“現状第一”では、印刷ビジネスとして限界があるということが分かる。現に、地方の印刷会社の方が全く新しい感覚で経営に当たっている様子が伺える。


●若者たちは「キリシタン版」の印刷を試みる……

 熊本県下のある工業高校が、キリシタン版に用いられた活字の鋳造と印刷を再現する授業(実技指導)をおこなっていて、評判になっている。この科目は、そもそも生徒たちが自ら工業にかかわるテーマを掲げて、実現に向けての計画の立案、資料調査、工具類の製作、組み立て製造などを一貫しておこなう課題研究であるところに特徴がある。6年前からテーマにしているキリシタン版の再現では、そうした教育方針に沿って、実際に資料館訪問、文献調査、そして当時の技術を基本にした母型や鋳型の製作、さらに活字の鋳造、印刷機の製作まで、すべて生徒たちの手でおこなってきたという。活字の鋳造に関して当初の砂型から金型へと切り替えるなど、次第に当時の技法に近づける努力を重ねている。グーテンベルク印刷機を忠実に再現できているわけではないが、印圧を加える方法を改良するには、それなりの創意工夫が必要になる。実際にキリシタン版を印刷していた頃にも、人知れず努力が注がれていたはずで、その事実を生徒たちが身をもって感じることができるという、実技ならではの教育効果が得られているようだ。


●紙メディアや印刷に対する関心を高めるために

 かつてのキリシタン版の印刷方法をトレースしている高校生にとっては、感動的な経験になるに違いない。実技のためにいつの時代の印刷技術を使っているのだろうか、どうやって印刷したのだろうか、実際に見てみたい。当時、表面が粗い和紙に活字を押し付けて高品質に印刷することは、非常に大変だったはず。そのような難題の一端でも高校生たちが体験することは、例え将来、印刷人にならなくても、印刷メディアを支えてくれる貴重な“財産”となるだろう。モバイル端末、タブレットPCが普及して便利な社会になったが、その反面「手づくり」に関心を抱く若い人が増えていると聞く。「再生紙を開発したのは日本人」と教えると、学生たちは大いに興味をもってくれる。そのようなことからでも、紙メディアや印刷に関する関心を高めてくれることを願っている。


●「ファブレス工場」と「ファウンドリー工場」の狭間で

「ファブレス工場」という経営用語がある。「製造工程をもっていない工場」という意味だが、海外企業に生産委託するグローバル化、国内企業に製造を依頼するネットワーク化、あるいは自社製品のOEM化などで存在感を高めている。その一方には「ファウンドリー工場」という形態がある。直訳すれば「鋳物工場」となるが、要は生産工程の土台となる部分、つまり素材づくりから始めて部品加工、さらに最後の製品組み立てまで一貫しておこなう工場のことを指している。すべて自社で内製するので量産体制が築け、生産管理も容易といった有利な点がある。しかし、企業環境が激変する時代にあっては、動きの鈍さ、制約の多さが足枷となって、返って経営を苦しくしている面がある。ファブレス工場が製品の企画・設計・販売、ファウンドリー工場が製造を担うと考えれば、決定権はあくまでファブレス工場にある。ファウンドリー工場ではブランド製品をつくり難く、取引上のイニシアティブや付加価値も取れない。それなのに、日本のあらゆる産業のメーカーは歴史上、疑うことなく、総合的なファウンドリー工場であり続けることに意義を見出してきた。それが今、逆に弱みとなっている……。


●印刷会社はファウンドリー工場としてやってきたが

 書籍や雑誌をつくる“大きな産業”を前提とするなら、企画デザイン・編集を受け持ってきた出版社はファブレス工場、印刷・製本工程を担当する印刷会社はファウンドリー工場ということになるだろう。両者はこれまで分離したかたち(分業)でお互いに協力し合ってきた。印刷会社は製造に集中するために大型の生産設備を導入して、出版社の多様な要請に応えてきた。出版市場が拡大し続け、印刷機の減価償却が容易にできていた時代は、この関係でよかった。しかし、取引(受発注)の絶対量が減ってしまった今、付託に応えたいと思って導入した設備の減価償却を負担し切れない状況が生まれている。編集と製造を離してきた分業の意味が消えつつある。このことが、印刷会社の経営が厳しくなった要因の一つとなっている。商業印刷分野についても同じことがいえるのではないか。


●印刷会社はファブレス工場化を考えてみては?

 印刷・出版産業の枠を広く捉えるなら、ファブレスとファウンドリーの両方の性格(機能)をもっていることになる。分業を基本に、市場環境の変化に沿ったビジネスモデルを上手につくれれば、もっと伸びていけるはずである。データ加工やメディア制作に強い印刷会社が川上工程に遡って、ファブレス工場化することで、新たな道も開けてくる。顧客支援のマーケティング機能を強め、顧客密着の営業体質型印刷会社になれば、ファブレス工場に変身できる。それとも、あくまで生産に特化した製造業体質の印刷会社として生き抜くか。生産集中で設備の稼働率を高め、減価償却を速めて、将来にわたって最新設備を購入し続けられるか。印刷業は今、両者に二極分化する傾向にあるが、印刷産業のなかで相互の受発注関係を築けることも強みとなる。


●せっかく製作した印刷メディアの売り先を考えよう

 印刷会社はこれまで、自社で製作した印刷製品の売り先づくりをあまり考えてこなかったきらいがある。発注者(直接の顧客)しか見てこなかったせいか、印刷業界はサプライチェーンづくりが一番遅れている。発注者の要請には応えられても、せっかくつくった紙メディアを最終顧客に届けることができなかった。日本ではすでに、多様な小口需要が無限に広がっているロングテールの時代を迎えたといわれる。大量生産すれば、無条件に売れるというわけではない。どこかで必要とされている価値を探り出し、いかに的確に売るべきかを考えるべきである。


●最終顧客につながる価値を提供できるビジネスを

 産業構造、市場環境、需給関係が一変したことに、印刷会社はなかなか気づけない。印刷業界に限らず、どの業界も自身の産業構造が固まってしまっているが故に、新しい産業の将来像を描けないのかも知れない。関係する取引チャンネルにはそれぞれ既得権という厄介なものがあり、それが変身の制約となっているケースもみられる。どうしても目先の現象的な売れ具合を先決にしがちだ。これでは、未償却の印刷機が取り残されるだけである。印刷産業としてのあり方を再検討して、最終顧客につながる独自のシステムを構築する必要がある。そのためには、印刷産業全体で取り組み、そのうえで需給市場の全体像を見つめ直すことから始めたい。大きな視野での創造性がなければ、時代に即したビジネスモデルは見出せないだろう。

グーテンベルグ・ミュージアムの本木昌造とマインツ街歩き

2015-02-10 14:07:33 | 印刷人のフイルム・フイルムカメラ史探訪
グーテンベルグ・ミュージアムの本木昌造とマインツ街歩き

印刷人のフィルム・フィルムカメラ史探訪 VOL-6

印刷コンサルタント 尾崎 章

ライン川とマイン川の合流地点にある都市・マインツは交易上の重要拠点、そしてドイツ3大・大聖堂とされる975年起工の大聖堂を有する宗教都市として繁栄を極めた歴史的経緯が有る。更に「黄金のマインツ」と称えられたマインツは「近代印刷技術の父」とされるグーテンベルグの生誕地でも有り、1455年に出版された「グーテンベルグ聖書」(四十二行聖書、200部発行)を展示するグーテンベルグ・ミュージアムは印刷人にとって必見のミュージアムである事は言うまでも無い事である。


マインツ中央駅から徒歩10分のグーテンベルグ・ミュージアム
マインツ中央駅から路面電車に沿ってバーンホフ通り、シラー通りを東に進み、シラー広場をデパートや専門店の並ぶルードヴィッヒ通りに左折すると正面に大聖堂を望む事が出来る。グーテンベルグ像の立つグーテンベルグ広場を過ぎて次のリーブラウェン広場の一角に目指すグーテンベルグ・ミュージアムがある。


グーテンベルグ・ミュージアム入口部分


マインツ中央駅


シラー通りと路面電車


グーテンベルグ像



リーブラウェン広場とグーテンベルグ・ミュージアム


リーブラウェン広場には書籍のモニュメントが多数設置されており、マインツ市のグーテンベルグ・ミュージアムへの思い入れを見る事が出来る。またマインツ大聖堂、グーテンベルグ像、グーテンベルグ・ミュージアムを始めとする当該地区の建物はいずれもライトアップされており、薄暮の時間帯には更に美しい景観を楽しむ事が出来る。


マインツ大聖堂


薄暮のグーテンベルグ・ミュージアム



グーテンベルグ・ミュージアムの本木昌造
グーテンベルグ・ミュージアムには、各国の印刷に関する歴史展開を紹介するコーナーがあり、日本コーナーでは「日本のグーテンベルグ」と称される本木昌造が紹介されている。
長崎の蘭学者であった本木昌造(1824~1875)は日本の漢字に適した「蝋型電胎法」による本木活字を創り、明治初期の新聞・雑誌印刷に多用され国内の活版印刷技術確立に大きく貢献した事より「日本のグーテンベルグ」と称えられている事は周知の通りである。
グーテンベルグ・ミュージアムは、以前より本木昌造に注目していたが展示すべき資料も無く、同館の日本コーナーは大手印刷会社寄贈の活字を展示する程度に止まっていた。
2000年以前に数回グーテンベルグ・ミュージアムを訪問して日本コーナーの実情を把握していた小職は、「本木活字復元プロジェクト」による蝋型電胎法に準拠した本木活字復刻終了の偉業を称え当該資料のグーテンベルグ・ミュージアム展示を実現すべく同館の極東担当であったハンネローレ・ミュラー女史に意向打診を行い、2004年6月に㈱インテックス 内田信康代表取締役社長(当時:長崎県印刷工業組合理事長、本木昌造顕彰会会長、近代活字保存会会長)とマインツを訪問、関連資料の寄贈を行った経緯がある。


内田信康氏とハンネローレ・ミューラー女史

グーテンベルグ・ミュージアム館長:ハネバン・ベッツ博士は日本の活版印刷技術を確立した本木昌造に関する資料寄贈を歓び常設展示を決定、今日に至っている。
内田信康氏は、長崎・諏訪神社に保存されていた本木活字の鋳型を造る為の木製「種字」3293本に注目、これをベースに本木活字復元プロジェクトを㈱モリサワ・森澤嘉昭会長と共に立ち上げた国内印刷史に特記される功労者で「世界のトップレベルに有る日本印刷技術の根幹となった本木活字の復元は、印刷人としてのささやかな恩返し」の名言は日経新聞でも広く紹介され、印刷界はもとより広く産業界から称賛された事は記憶に新しい。
昨年(2014年)秋のドイツ出張時にグーテンベルグ・ミュージアムを訪問、日本コーナーは本木昌造の写真と活字、そして内田信康氏より寄贈を紹介する説明文のみを展示する内容に整理されている事を確認している。


日本コーナーの本木昌三展示(2005年時)


写真ファンにも楽しいマインツ街歩き、懐かしのアグファフィルム看板の健在

グーテンベルグの街・マインツは、フィルム写真・フィルムカメラファンにも楽しい街歩きが出来る。
マインツ中央駅からグーテンベルグ・ミュージアムを目指す途中のシラー通・シラー広場に面した写真店foto rimbachにアグファフィルムの立派なビルボード看板を見る事が出来る。


シラー通りの写真店


懐かしのアグファ看板

アグファ・ゲバルトは2004年11月にフィルム事業部門を別会社:アグファ・フォトに売却して事業撤退、アグファ・フォトも2005年5月に破産申請を行い世界3位のフィルムメーカーは終焉を迎えている。その後、MAKO社(ドイツ)フェッラーニァ社(イタリア)製のフィルム供給を受けたアグファブランドのフィルムが数社より発売された時期もあったが、現在は当該製品を見ることも無くなっている。
アグファフィルム全盛期には、欧州の至るところで見られたアグファレッド看板は懐かしのシーンとなったが、マインツ:foto rimbachのアグファビルボード看板は、往年のアグファを忍ぶ貴重な歴史的存在となった。


ルードヴィッヒ通りの写店


フイルムカメラが並ぶ中古カメラコーナー

アグファ看板を過ぎルードヴィッヒ通りに入ると右手にライカショップの看板を掲げた写真店BESIER OEHLINGがある。同店は中古カメラコーナーも有り数十台の中古フィルムカメラの販売を行っている。日本と並ぶ写真大国のドイツは、各都市に中古カメラ店が健在でブラブラ街歩きで中古カメラ店を見出した時の悦びもドイツ旅行の大きな楽しみである。

以上