2009年からブログを綴ってきましたが、何の目的で継続してきたかというと、私の日々の生活の中から、読者の皆様の役に立つ事を情報として公開しながら、自分の人生というものを遺して行きたいと思ったからなんです。
その前はbiglobeで数年間自由に綴っていたのですが、ある時私と同じブログタイトルでを書き出した方がおられて、パチスロマニアの情報を日に何度も更新する内容だったので、私は自身の投稿を止め、結果1年半か2年後には自然に数年分の投稿が削除されました。
そのあとmixiで投稿を再開したのですが、ある日私のブログを客観的に思うと、とてもくだらないと感じてしまって止めました。
暫く何もしないでいると、生きている活動をするなかで、記憶がどんどん薄れていったり、曖昧になってくるのを感じました。
振り返りの機会がないと、発展しないような気がしてきて。
そう思うと、人のためにも自分のためにも役に立つことがしたいと。
そうして今日もブログを更新しています。
先日「ミシェランガイド2017 宮城」というタイトルで、思うことを綴りました。
でも、なんか私の中で、引っかかるんです。
「ミシェランガイド2017 宮城」を発行するにあたり、どんな選考理由を考えて、掲載店舗を選出したのか、意図が私にはよく理解できません。
ネットで調べると、それが本当なのかどうか鵜呑みにはできませんが「その目の前の皿(丼)の料理の味を採点」とありました。
ならば、接客や価格や店の雰囲気とか清潔さは、採点に入らないのでしょうか?
なにか変だと思いませんか?
自分で働いたお金でどこかのお店で食事しようとしたら、「財布事情から今日のランチは、安価で空腹を満たすもので良い」とか、「多少のお金を使っても、良い食事と時間をすごしたい」とか、「その日はなんだか体の調子が悪いので体に優しいランチを食べたい」とか、食事の目的っていろいろとその時々のシーンがありますよね?
もしも「多少のお金を使っても美味しい食事」を考えたならば、店の雰囲気とか接客とか、味以外にリサーチして選ぶことが多いと思うんです。
仮に「味」だけでジャッジするってことは、とても難しいことだと思うんです。
何故なら個人個人好みも違うし、その日の天候とか体調の良しあしで味覚も変わるのですから。
「ミシェランガイド2017 宮城」掲載のために、1回だけその店舗で一つの料理だけを食べて、それをもとに掲載店舗を決めてるなんてことは、まさかないと信じたいのですが・・・。
掲載エリアがあまりにも限定的で、掲載されて良いはずの店がなく、それより味の面において劣っていると明らかに感じてきた店舗が掲載されていたりして、私は不思議に感じてならないのです。
特に、私の好きな、ラーメン分野で、そう感じてしまったのです。
普段私はそれを載せる目的がよく解らない情報源は、たとえ参考にすることがあっても鵜呑みにはしたくないと思っています。
食べログも見ますが、それが全てではないと思っています。
食べログである日、ラーメン屋さんのスープの内容をさも中身をさも見たかのように詳細に書いている方の投稿を見て、驚いてしまいました。
それは私の行きつけのラーメン屋さんなんですが、店主さんの味を追求する姿勢を応援しており、投稿者が来店した時のスープの中身教えてもらったところ、投稿の内容は笑っちゃうほど外れまくっていました。
ちなみにその行きつけのラーメン屋について、自身のブログで一度も公開したことはありませんし、今後紹介するつもりもありません。
私情が入ってしまったら、私自身の書き続けてきた食のブログは価値のないものになってしまうと考えるからです。
そもそも食事は生きるためのもの。
情報ばかりに縛られ過ぎず、もっと自分の食事に自由でいいんだと思う。
なんとなく入ったお店で、会計の時に後悔する時もあります。
でもそういう時もあるからこそ、美味しいお店を発掘した時、本当に幸せに感じる食事もある。
「ミシェランガイド2017 宮城」は所詮ヒトが作ったもの。
それとも「神の舌」???