山咲雛子の日記

毎日何かを好き☆と感じ、感謝して、頑張っています。時間が沢山あったら、ゆっくり自然の中で過ごしたいです♪旅もしたいな♪

元旦

2012年01月01日 | 

2012年元旦

新年あけましておめでとうございます。

今年も旅と温泉、食の幸せと我が家の猫をブログで綴っていきます。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

皆様にとって素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈りしています。

氏神さまに初詣したあと、広瀬川の河川敷を散歩しました。

堰止められた流木が、川面に映った「空を飛ぶ龍」のように見えました。

川のたゆみない流れと共に、穏やかな日差しに恵まれ、ここにいることの小さな幸せを感じた2012年のスタートでした。


花火

2010年08月28日 | 
毎年楽しみにしている「広瀬川灯籠流し花火大会」。
自宅から歩いていける気軽さが好き♪

河川敷で夕飯を食べ終わった頃、一発目の花火が上がります。



綺麗!



花火が消えると共に、火粉やら残骸がこちらに流されてきます。
団扇であおぎながら、防御!



最後は「ナイアガラの滝」で締めくくりとなります。



たった1時間弱の花火大会でしたが、なんか幸せ気分…



静かに、ただただ切なく…やるせない私の夏が終わっていきます。

川の声

2010年02月24日 | 
小学2年の時に、橋の欄干の下の川面に落ち、広瀬川下流で溺れました。

渦巻く川底に引き込まれそうになりつつ、グルグルと回転しながら目に映ったのは水の中の生物たち。
こんな世界があるのかと、次第に静かな気持ちに移りゆき、もう駄目だと覚悟したその時、遠くから聞こえてくる声に救われ、今に至っています。

それから、中学生になり、今思えば、恋でしょうか。
思春期の複雑な思いを抱え、川べりで過ごす時間が好きでした。
川べりからの黄昏の美しさや、淀みから響く川のせせらぎに、自然に心が安らいでいくのでした。

それから年月が経とうとも、私は温泉、プール、海、川べりの散歩…水のあるところが大好きで、今は川のそばに住んでいます。

さて、この頃のポカポカ陽気に誘われ、川面に行ってみたくなり散歩にでました。
土手は、秋の頃からの緑化工事がそろそろ終わる頃です。

既存のコンクリートの堤防に、円形の枠組みを組み、その上に土を被せて芝生を植え付けていたはずでしたが…

あれ?



芝生が消えた?



しかも小さい中州が…


歩行者専用の堤防の上からはこんな感じに見えますが、下に降りると…
川面が完全に造成中のような工事ぶりです。




向こう岸は、JR長町駅東側の、もともと旧国鉄貨物操車場、機関区跡地や工場、住宅地区だったところを、都市基盤整備公団事業主体が「長町副都心土地区画整理事業」として整備されました。
計画時、面積91.5ha、居住人口7500人、従業人口33000人、事業費が約1286億円。
当初は仙台市音楽堂や空中中華街の建設計画もありましたが、おじゃんになってしまいました。
その後は、市民病院移転計画もあがるものの、地価下落などの影響を受けて二転三転している用地が広がっています。




だからといって、この河川は何にも関係ないはずなのですが…
数年前も川べりに生い茂っていた背の高い木々が、大幅に姿を消した記憶がまだ新しいというのに…

長く河川の環境と共に根づいた木々の命が絶たれ、切り刻まれて、まるで死体のように積み上げられられた木々からは、土の匂いと春を控えたえもいえぬ匂いが漂い、痛々しく感じました。



川を通じて、人も生物も植物も微妙な生命バランスに関わりあい共存しているはずが、一方的にこんな排除を下す理由は一体何なんでしょうか?

あたたかい春の陽気に待ちわびて、膨らんだ木の命が芽を出しかけ摘まれ放置された姿に、切なさを感じました。


広瀬川第20回灯籠流し

2009年08月22日 | 
宮沢橋にて、毎年開かれる夏の風物詩「広瀬川灯籠流し」が20回を迎えました。



記念としてこのイベントでは初めてさとう宗幸さんによる「青葉城恋歌」がステージで披露されました。

いまだに「青葉城恋歌」を越える、仙台を舞台にした歌はヒットしていません。
「横浜」や「東京」「大阪」はいろいろありますが…



河川敷には、暗くなればなるほど人が集まってきました。
たくさん屋台も出て、賑やかです。



大年寺山もたそがれていきます。

まるで自然が、眠るように薄い漆黒のカーテンを何枚も何枚もゆっくりと閉じていくような、このゆるやかで静かな時間が、私はすごく好きです。



たくさんのお坊さんが来てお経をあげ、温かい手のうちから静かな川面に灯籠が離れていきます。



20時10分、花火が打ち上がりました。



目の前に、大輪が咲くがごとく、綺麗です。
私の場所まで、火薬の匂いが立ちこめ、自分もその場に参加している実感が沸きます。
今年は花火の予算が削られて、短い時間ながらも、素晴らしい花火でした。



最後は、ナイアガラの滝。



あまりの完璧なまでの美しさに、思わず立ち上がる人さえいました。

夏の終わりとともに、不思議と涙がこぼれてきました。

仙台散歩⑥大年寺山

2009年08月20日 | 
大年寺のふもとの裏山に続く小道を発見し、昔の街道を思わせる雰囲気の、石畳が残る杉木立の道を歩いてつかの間、アスファルトの細い道路に出て、向山の宮沢テニスクラブを横目で見てゆるい坂を上ると、やがて開放的な公園に出ました。



これが、大年寺公園なのですね。
まだ一部工事中でしたが、かつてこの土地の所得をめぐり、二転三転したことがまだ記憶に新しいのは私だけでしょうか。



wikipediaには、このようなエピソードが書き記されています。

仙台市は石井亨市長のもとで伊達家の墓所も含め大年寺山に公園を整備する構想を立て、土地取得を進めた。
この過程で仙台市が1991年と1992年に4倍の費用で土地を購入したことが1993年9月に明るみに出た。
市民団体の仙台市民オンブズマンは、土地を売却した4社を相手取って代金返還代位請求訴訟を11月に起こした
。最高裁まで争われたこの裁判では、予算・決算報告を起点にして計算した監査請求期間1年をすぎてからの請求は認められないとの判決が2003年に確定した。

市税の使われ方が実際こんな状況では、日々あくせく働いて納めた税金が、貴重な財源が、泡のごとく知らず知らずに消えていく現実は、一市民として悲しすぎではありませんか?



さて、大年寺山は仙台市都心部の南側に回り込んだ愛宕山と大窪谷地を隔て南方にある山で、標高119.5メートル。
古くは野出口山、また茂ヶ崎と呼ばれ、広瀬川も近く、県内3社共同のテレビ等が立ち並んでいるのが特徴です。



伊達家の墓地の扉は閉め切られていて、伊達家の家紋「竹に雀」が施されています。
「竹に雀」は上杉氏に養子を入れようとしたときに頂戴したもの。
伊達家の家紋は全部で9あり、十六葉菊、五七桐、蟹牡丹、竪三つ引両、竹に雀、九曜、鴛鴦の丸、ナズナ、雪に薄等会うそうです。
このように紋が多いのは、それだけ歴史が長く、伝統がある家であることの証でもあるそうです。



伊達綱村の頃の1696年、廃寺になっていた仙英寺を茂ヶ崎に移し、大規模な寺院の造営に乗り出し、翌年には黄檗宗の鉄牛和尚が招かれ両足山大年寺を開いたそうです。
これ以後は伊達家代々の墓所となり、江戸時代にはその保護を受けて広壮な伽藍を営んだそうですが、当時の大年寺は、全国の黄檗宗の寺院の中でも規模が大きいものであったそうです。
また、明治には廃仏の風潮を受け伊達家が仏式を止めたため荒廃し、その時代の建築物は南の入り口にある惣門のみなのだとか。



伊達家との関係が切れた黄檗宗は、昭和の初めに大年寺を再興し、現在の大年寺に至ります。



この地点は中世には茂ヶ崎と呼ばれ、茂ヶ崎城が置かれた場所でもあります。
天気が良ければ、水平線が確認できるかもしれません。
また長町副都心が一望できます。

余談になりますが長町副都心と呼ばれる広大な敷地は「仙台市音楽堂」が計画されていましたが白紙。その後の中国人投資家による「空中中華街構想」も白紙。
結局、仙台市民病院が移転することに決定しました。
もと国鉄基地を買い取ってまで、そういう使われ方をする必要があるのかと思うだけでも、力が抜けます。



長い階段を下りると風情ある山門に出ます。

山門の途中、古墳時代には中腹にたくさんの横穴墓が作られたそうで、看板さえないのですが、山の北側に大年寺山横穴墓群、南側に二ツ沢横穴墓群と茂ヶ崎横穴墓群があるらしいです。
小さい横道らしきものが確かにありました。



黄檗宗の大年寺です。



同じ山続きにも、広瀬川周辺にも黄檗宗の寺院が今でも点在します。



大年寺山は、伊達家家臣の佐藤さんが山を守るように任じられ、今に至るとも聞きますし、私がまだ若かった頃、山の山腹には窓に鉄格子がかかる不気味な建物があったりした記憶もあります。

昼は仙台平野で過ごすカラスの群れが、夕方になると大年寺山の寝床に戻っていく様子をみると、仙台在住、佐伯一麦さんの「遠き山に日は落ちて」を思い出します。

私の家の窓にはいつも、切り取った絵のように、緑溢れる大年寺山が見えます。