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山咲雛子の日記

毎日何かを好き☆と感じ、感謝して、頑張っています。時間が沢山あったら、ゆっくり自然の中で過ごしたいです♪旅もしたいな♪

世界遺産 高野山奥の院

2017年01月20日 | 神社・仏閣

高野山奥の院は、壇上伽藍とともに高野山の二大聖地で、弘法大師入定の地でもあります。

また平成16年には「紀伊山地の霊場と参詣道」でユネスコの世界遺産となりました。

ミシュランガイド日本版では、「高野山」として星三つを獲得しています。

一の橋。

ここから弘法大師御廟までは約2kmの参道となります。

参道には、樹齢約700年の杉木立がそびえ、皇族、諸大名をはじめ、文人や庶民にいたるまで、あらゆる階層の人々の墓石や祈念碑、慰霊碑が約20万基を超え、建ち並んでいます。

伊達正宗の慰霊碑は3か所もありました。

信仰する方が慰霊碑を納めたと、上池院のお坊さんから伺いました。

伊達正宗人気あるのですね。

杉木立の中の、不思議な空間です。

汗かき地蔵

戦国武将の慰霊碑が幾つもありますが、標識がないと、どなたのものか判明がつきません。

全部の慰霊碑に精通している方、おられるわけないですよね?

ちょっとここで、明智光秀と石田光成の慰霊碑を探し出します。

石田光成は参道の脇にあったのですぐにわかりましたが、明智光秀のがなかなか見つからない。

慰霊碑をうろうろしました。

関ヶ原の戦いの東軍の黒幕は、他ならぬ明智光秀だったという説があり、山崎の合戦の後、生き延びて僧「天海」となって徳川家康に仕え、関ヶ原や大坂の陣にも関わっていたという話なんですが、これが事実だったと仮定すると、関ヶ原の戦いは「石田三成vs.明智光秀」の戦いだったということにもなります。

石田光成の慰霊塔。

やっと見つけました!

明智光秀の慰霊塔です。

石田光成の塔の、やはり近くにありました。

この明智光秀の慰霊塔の丸い部分なんですが、今まで何度も割れたそうです。

新しいものに交換してもすぐに割れる、それを何度も繰り返し、もうあきらめてそのままなのだそうです。

もしかすると石田光成と、あの世でも戦いあっているのではないかと、そんなふうに思っている方もいらっしゃるようです。

そう簡単に丸い部分が割れるものなのか、他の慰霊塔も見て回りましたが、割れているのを確認できたのは、明智光秀だけでした。

水かけ地蔵。

皆さん玉川のお水を容赦なく、ぶっかけていました。(驚)

いよいよ御廟橋に来ました。

ここから先は撮影禁止で、「奥の院」に至ります。

玉川は、綺麗な清流です。

奥の院でお勤めを終えた後、納経帳を頂き「結願おめでとうございます」と言われて、胸がこみ上げてきました。

これで終わったんだと。

嬉しくもあり、なにか切ない感じもあって、もしかしたらまた四国遍路に出掛ける日が来るのかもしれません。

お大師様のお食事が、ちょうど運ばれるところでした。

合掌。