高野山奥の院は、壇上伽藍とともに高野山の二大聖地で、弘法大師入定の地でもあります。
また平成16年には「紀伊山地の霊場と参詣道」でユネスコの世界遺産となりました。
ミシュランガイド日本版では、「高野山」として星三つを獲得しています。
一の橋。
ここから弘法大師御廟までは約2kmの参道となります。
参道には、樹齢約700年の杉木立がそびえ、皇族、諸大名をはじめ、文人や庶民にいたるまで、あらゆる階層の人々の墓石や祈念碑、慰霊碑が約20万基を超え、建ち並んでいます。
伊達正宗の慰霊碑は3か所もありました。
信仰する方が慰霊碑を納めたと、上池院のお坊さんから伺いました。
伊達正宗人気あるのですね。
杉木立の中の、不思議な空間です。
汗かき地蔵
戦国武将の慰霊碑が幾つもありますが、標識がないと、どなたのものか判明がつきません。
全部の慰霊碑に精通している方、おられるわけないですよね?
ちょっとここで、明智光秀と石田光成の慰霊碑を探し出します。
石田光成は参道の脇にあったのですぐにわかりましたが、明智光秀のがなかなか見つからない。
慰霊碑をうろうろしました。
関ヶ原の戦いの東軍の黒幕は、他ならぬ明智光秀だったという説があり、山崎の合戦の後、生き延びて僧「天海」となって徳川家康に仕え、関ヶ原や大坂の陣にも関わっていたという話なんですが、これが事実だったと仮定すると、関ヶ原の戦いは「石田三成vs.明智光秀」の戦いだったということにもなります。
石田光成の慰霊塔。
やっと見つけました!
明智光秀の慰霊塔です。
石田光成の塔の、やはり近くにありました。
この明智光秀の慰霊塔の丸い部分なんですが、今まで何度も割れたそうです。
新しいものに交換してもすぐに割れる、それを何度も繰り返し、もうあきらめてそのままなのだそうです。
もしかすると石田光成と、あの世でも戦いあっているのではないかと、そんなふうに思っている方もいらっしゃるようです。
そう簡単に丸い部分が割れるものなのか、他の慰霊塔も見て回りましたが、割れているのを確認できたのは、明智光秀だけでした。
水かけ地蔵。
皆さん玉川のお水を容赦なく、ぶっかけていました。(驚)
いよいよ御廟橋に来ました。
ここから先は撮影禁止で、「奥の院」に至ります。
玉川は、綺麗な清流です。
奥の院でお勤めを終えた後、納経帳を頂き「結願おめでとうございます」と言われて、胸がこみ上げてきました。
これで終わったんだと。
嬉しくもあり、なにか切ない感じもあって、もしかしたらまた四国遍路に出掛ける日が来るのかもしれません。
お大師様のお食事が、ちょうど運ばれるところでした。
合掌。