もう 仕方ない この大きさで書くしかない。だって これより小さいサイズは昨日UPした字の大きさだよ? どゆこと?
まあ、おばばにゃあ 丁度いいサイズかも?
今日は HIROSIMA 原爆記念の日。8:15分 1分間の黙とうをする。平和について考える。ワタクシは何をすれば平和に近づけるのか?
実は、今日、何をするか? 昨晩決めていた。
横浜の有隣堂さんに電話をかけて、
「 ヒロシのソロキャンプ 」初版本の予約を入れた。たまたま ユーチューブのヒロシチャンネルを見ていたら、このご本が8月6日に出版されることがわかったからだ。
ワタシは、「 ヒロシです。」のヒロシさんが、このところ大層お気に入りで、断捨離で本を捨てているのに、買うことにしたのだった。
おわりに・・・から抜粋。
「 みんなで」 という言葉
これまでの僕の人生は「 みんなで 」という言葉にふりまわされてきた。
「 みんなで班を作って!」そんな先生の言葉に、小学生の僕は怯えていた。…
僕は「一緒の班になろう!」と声をかけられるほどの存在感もなく、かといって自分から「僕も入れて!」といえるほどの図々しさもなかった。
…もちろん僕はあぶれてしまう小学生だった。僕は、数個のグループができあがって盛り上がっている中、居心地の悪い教室という檻の中から出ることもできず、恥ずかしさと惨めさを感じながらじっと立っていることしかできなかった。
「なんでみんなで班を作らなきゃあいけないんだろう?ひとりでよくない?」と思いながら、いかにもあぶれたことなんて気にしてませんよ~という表情や姿勢を作るのに必死だった。
「 みんなで 」という言葉は平和でどこか正義めいたものにすら感じるのだろうが、僕は違う。
ずばり同調圧力という印象しかない。自分の興味のないことでも、空気を読んでグループに入ること。やりたくないことでも、誰かがなんとなく与えてくれるポジションを演じること。異論があっても黙って従う協調性のこと。僕にとっては「みんなで」は負の言葉でしかなかった。
大好きなキャンプでもその違和感はずっと付きまとっていた。そう、僕が好きな「キャンプ」を嫌いな「みんなで」やっていたからだ。強烈な「みんなで」が押し寄せてくる。キャンプは「みんなで」やるものと思い込んでいたから仕方なく「みんなで」行っていた。
「 ひとりで行ったらどうなるのだろう。」ふとそう思い、ひとり用の装備をそろえ、ひとりキャンプ場へ行ってみた。最初こそ少し不安だったが、好きなキャンプをひとりで好きに楽しめた。
… 「みんなで」という装備を置いて行ったら、びっくりするくらいの軽量化ができたのだ。僕にとって一番不要な装備だった。
… ソロキャンプをきっかけに、僕の人生は大きく変わった。無駄な装備「みんなで」を捨てて楽になり自然体の自分を取り戻したのだろう。毎日が楽しくなった。精神的にも健全になった。
するとどうだろう。まわりに人が集まり、ソロキャンプグループ「焚火会」ができた。…
不思議なもので「みんなで」を捨てたのに「みんなで」ソロキャンプをやっている。…
焚火会の「みんなで」やるソロキャンプが、僕は好きだ。誰になんといわれようが構わない。だって ソロキャンプは自由なのだから。
いいな、いいな、ひとりの時間・空間 誰にも侵されないパラダイス。
自分もちょっとしっかり考えてみよう!ワタシは 「みんなで」が,実は好きではないのだ。