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地球へ ようこそ!

化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

かぼちゃの少女・・・三

2005-08-06 08:51:00 | ある被爆者の 記憶
 身動きもしないで、横臥していた被爆者の群れの中から、暁の薄明に誘われるようにして、ここかしこに黒い亡魂がこの世に最後の暇乞いをする。
 夜が完全に開け放たれてしまうと、もう亡魂は舞わない。ただ、そこには新しい黒いむくろが、転々として数を増しているだけである。 
 忌まわしい儀式の果てた遺骸は、まさしく亡がらであり、もう亡魂をすら感ぜしめない。空蝉ですら、見た目にも、その名称にも、美しさがあるのに、被爆者の遺骸だけは、これ以上の醜悪さと、ぶざまさはないほどに、破損崩壊した人間容器そのものであった。  


 平然とこう描写することに、読者は著者の神経を疑うかもしれない。しかし、著者には誇張してつたえようとする意思は毛頭ない。では、正確に伝えようとするのかと問はれると、返事に窮する。何が確かで、何が不確かなのか、判断基準を失ったが最後、確かだったものが不確かとなり、不確かなものがたしかなように見えたり思えたりしたのだから。

かぼちゃの少女・・・四

2005-08-06 08:50:00 | ある被爆者の 記憶
 戦後、”人間襤褸”と読んだ作家があったが、肉体が襤褸布同然であったことを指していたはずである。それが、人を見てそうだと思うだけでなく、我が身自体が同様のとき、もはや驚きとか恐怖よりも、精神の容器としての肉体の崩壊に、目眩む戸惑いを感じてしまうものであった。はて、どうしたらとも思わない。この崩壊した自分の肉体が、既に異物化して見えてくる。そのくせ、まだ、その襤褸布の中にいる自分を見出して、あきれたり、うろたえたりしていた。  


  「お兄ちゃん、目をあけて。」
 あの最中に広島高等工業の学生から預かった幼稚園児ぐらいの女の子が、既に人間の顔とは言えない小さな襤褸布の塊(つちくれ)を、私に突き出してきた。
 大きな襤褸が、小さな襤褸の目を拭うてやるのが、私たちの夜明けの日課であった。

かぼちゃの少女・・・五

2005-08-06 08:49:00 | ある被爆者の 記憶
 真正面から被爆しているのだから、完全に両眼は光を失っているにちがいないと、私は思ったものだったが、眼球に異状はなく、実は瞼の部分が化膿して膨張して垂れ下がり、本人の意思では、瞬きすら不可能であった。それが昼過ぎになると、幾らか脹れが退くのであろう、重く閉じた瞼に、まさしく目張りしたように、こびりついた目やにと膿汁を拭うてやると、薄目がひらく。
 そのために、この子は決まったように、その時刻になると、
  「お兄ちゃん、目を開けて。」
 と、せがむのである。
 私は思う。今となっては、この子の名前すら憶いだせない。それだのに、私はこの子のこの言葉だけは、音声までよみがえらせることができるのはどうしてなのであろう。その理由は、おそらくこうだ。この時、私はこの言葉に、焼け爛れた肉体より以上に残酷さを思うたからにちがいない。   
 人間が、神仏に「盲目を救わせ給え。目を開かせ給え」と言うのならまだしも分かる。しかし、人間が人間に、開眼を願うなど、相手が眼科医でない限り、誰が他人にそれを委託するだろう。目は自由に閉じられ、開けられするのが常の意識であるのに、その常のことをさえ、願わねばならぬこの言葉は、私に原爆の古傷よりも深いものを残している。

かぼちゃの少女・・・六

2005-08-06 08:48:00 | ある被爆者の 記憶
 大きい襤褸(ぼろ)は、小さい襤褸を包むようにして寝た。
 例によって、夜明けに倒れかかられぬように、近くに、明朝は死者となる被爆者はおらぬかどうか、確かめてである。
 もちろん、見回しながら、自分たちも死線をさ迷っている亡者の仲間うちと思わないわけではなかった。いつ自分たちが立ち上がって、この世への終焉のダンスをしないとも限らない。だが、それはそれ、これはこれと、いつも思えた。
 それが証拠のように、絶命する亡者が、棒倒しの形容通り、立ち上がっては二、三歩歩んで、他の寝ている被爆者を下敷きにする。すると、
 「痛い。畜生、何をするんだ。ふざけた真似をするんじゃない。下りろ。下りろったら。」
 「こらっ、好い加減にしろ。痛いじゃないか!」
とあちらこちらで、わめき、ののしる声がする。上の、のしかかった、たった今死者となったばかりの遺体を、下の、のしかかられた、余命を保っている被爆者が、殴ったり、叩いたりして、はねのけようとする。

かぼちゃの少女・・・七

2005-08-06 08:47:00 | ある被爆者の 記憶
 もちろん、上にのびた奴に答えのあらばこそである。
 ああ、死人に口なしとはよく言ったものと感心したりはするけれども、笑い声は一度も耳にしなかった。それはそれ、これはこれであった。明日は我が身と思うところからの抑止であったり、謹慎のためではなかった。全てが新発見ばかりであるのに、それを評価する母体や基準がすでに失われていた。空しさばかりつき上げる。既に現実に期待する気力がなかった。目に入るものすべてが、在りし日の名残りの姿のように思えるのも、既に心は肉体を離れ、浮遊する亡魂の世界の中に戯れ始めているのであろうか。
 夜が白みはじめた頃であった。
  「お兄ちゃん、白い蝶々が・・・。」
 夢でもみたのかと思った。女の子の瞼は例によって、重く、薄目すら開けられる様子もなかったからである。

かぼちゃの少女・・・八

2005-08-06 08:46:00 | ある被爆者の 記憶
 「蝶々よ。蝶々よ。お兄ちゃん、見えないの。」
 私の全身に不吉な予感が走った。女の子が私の手枕から頭を上げ、立ち上がろうとした。
 私は思わず、女の子をわが腕の中に抱き込んだ。
 「死んじゃあだめだよ。気をしっかり持つんだ。」
 自分の口から、自分の言葉が出ているのに、それがなぜだか、うそのように思える。涙がこぼれる。一体、この涙は何なのか。泣きたくて泣いているのか、泣きたくないのに泣いているのか。
 「お兄ちゃん、泣いているの。」
 案外、落ち着いた声が、私の懐の中から聞えた。
 「泣いたりなどするものか。」
 「うそ言っても駄目よ。私の顔にかかったわよ、お兄ちゃんの涙が。」
 相変わらず重い厚い厚い瞼がのしかかったままだった。ふと視線を外らした時、まさしく白い蝶が舞っているのを見た。

かぼちゃの少女・・・九

2005-08-06 08:45:00 | ある被爆者の 記憶
 「蝶だ。」
 「私、うそつかないでしょ。」
 どうして、この子に見えるのだ。それとも私も幻影を見ているのか。
 でも、まちがいなく、私の視界の中には、夜のしらじら明けの空に向かって飛ぶ白い蝶があった。 私は見失わないようにと思って、瞬きもしないで後を追った。
 「もう見えないよ。お兄ちゃん。」
 「いや、まだ見えるよ。」
 と言おうとしたら、その白い蝶を私は見失ってしまった。いや、そうではない。その白い蝶が姿を 消したのだ、とも思い、もしかしたら、この子が、あの白い蝶を消したのではないかとも思えてきたりした。

かぼちゃの少女・・・十

2005-08-06 08:44:00 | ある被爆者の 記憶
 繰り返すが、私は、どうしてもこの子の名前が思い出せない。この子に関する記憶は殆どが幻影的で、現実的なこの子に関する消息については、手繰り寄せる記憶の糸さえないことを不思議に思う。
後になってから、私は、ひょっとすると、本当は、こんな子には会っていなかったのではないだろうかと、疑ってみたりもした。
 私は、六日、広島駅頭に被爆し、線路工夫ふうな男二人に救出され、その夕刻から、八日までは、広島駅裏の東練兵場に寝ていたことはまちがいない。
 現実的な記憶として残っていることは、場所が練兵場だけに、多くの兵隊たちが、朝の体操中に被爆したらしく、熱線を受けた方角が同じだったのであろうか、兵隊たちは言い合わしたように、半裸体の背中が肉屋の看板のように真赤であったこと_。
 六日の日は一日中、兵隊たちは、そんな体で動き回っていたが、さすがに翌七日には、既に立って動き回る者はいなかった。苦しい、水をくれ、そんな断末魔の叫びとも思える声も消えて、聞こえるのは、せいぜい、呻きぐらいであった。
 そんな中で、私は突如、
 「天皇陛下、萬歳!」
 と、みごと三唱するのを聞いた。

かぼちゃの少女・・・十一

2005-08-06 08:43:00 | ある被爆者の 記憶
 言うまでもないが、寝た物の声が寝た者の耳にだけ届くのである。
 おそらく、日本兵士の最後として、はっと固唾を呑む思いをしたのは、私だけではあるまい。私は、それまでに、戦場で天皇陛下萬歳と唱えるような兵士は稀で、大概は、お母さんと呼んで死んでいくものだという穿った見方を、さもありなむと聞いていた。ああ、あれはやっぱり穿ち過ぎで、日本兵士の真骨頂は、大君に召された自覚が本ものだったと、私は素直に、これまでの自分の不明を恥じるような気持ちと、今、この世を離れていくその声の主に、敬虔な祈りを捧げねば、と思った。 
 ところが、どうしたのであろう。萬歳三唱を言うのは常であるとしても、五唱六唱はおろか、何十回となく、同じ兵士が繰り返すのである。 
 みなそれぞれが負傷し、高熱と痛みに疲れ果てている。だから、よほどのことでもなければ他を顧みたりはしない。自分のことで精一杯で、他人様をかまっているわけにはいかない。それぞれが、自分自身の変わり果てた姿に、いや応なしに、向きあわされるから、被爆者は、互いに、という意識がない。

かぼちゃの少女・・・十二

2005-08-06 08:42:00 | ある被爆者の 記憶
しかし、翌日になっても、天皇陛下萬歳と叫ぶのをきけば、さすがにみんな怪訝に思い始めたのだと思う。
 誰かが怒鳴った。もちろん、寝たままだから、この声の主も見えない。
 「おい、そこの萬歳屋、もう好い加減に止めてくれないか。」
 笑いが一度に起こった。今まで、我慢していたことが分かる笑いであった。力のない笑いではあったが、被爆後、被爆者が笑った最初ではなかったか。それは、そう怒鳴った者にしても、そうであったろうが、決して嘲笑ではなかった。むしろ、嘆願であった。みんな激痛に堪えかねている。繰り返される萬歳三唱が、神経に触ってうるさかった。止めさせたいが、他を制する余力もないので、みんながいらいらし始めたその頂点で声がかかった。
 そのタイミングのよさが笑いを誘った。そんな笑いでしかなかった。が、兎に角笑った。そして、おそらく笑ったすぐあとで、笑ったというより笑えたことに、何かを感じた。だから、笑う前よりも、笑ったあとの方が余計に静かだった。
 被爆者たちは、また孤独の深淵に喘ぎ始めた。