紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

中学時代の担任S先生のこと

2005-11-02 06:31:19 | 15・心に残ること
最近、私のBlogを読んでくれて知り合った明子さんが、私にコラムを送ってくれる。
何のコラムかというと、勤め先の中学の学年通信に書いているコラムである。
明子さんは、今4人目のお子さんの育児休業中で、家で赤ん坊と他の3人のお子さんの世話をしているのだ。
育休が終わったら、また学校の先生として復帰することになっている。

コラムは、赤ちゃんがハイハイしたり、つかまり立ちしできるようになったりする、そんな毎日のことが母親の目で書かれている。

中学生の子にとっては、ふだんは学校という場でしか知らない先生の素顔というか生活を、コラムを通して知っていくことになる。
そのことを、多分今は、先生は赤ちゃんとこんな風に過ごしているのね、くらいしか思わないだろうけれど、何人かの生徒の心には、子どもを育てながら仕事をしていた先生の姿、として焼き付いていくのではないかと思う。

私が中学時代の先生のことをずっとそういう風に覚えているように。

中学時代2・3年生の時の担任S先生は、初対面の時、すごいこわい女の先生だと思った。
理科の専科で、1年生の時は、にこりともせずに授業をし続けたような覚えがある。

その先生が、2年で担任になった。
担任になってから初めて、S先生が結婚されていたこと、小学校2年の娘さんがいるのを知った。
こわい先生のイメージから考えて、それはちょっと意外な感じがした。

娘さんは、となりの小学校に通っていた。いつも放課後はその学校で過ごしているのだった。
当時は、学童などというものがなかったのだと思う。

ある日、学校に残って、行事のための用意か何をしていた。その時に、先生が
「もう娘を迎えに行かなきゃ。」といって、その場を抜けた。
先生は、いつもそうやって、仕事の途中で娘さんを迎えにいき、自分の中学に連れてきては、また仕事を続けていたというのを、その時初めて知った。
娘さんは、先生の仕事が終わるまで、教室で自分の宿題をしたり絵を描いたりしながら、待っていた。

3年生に進級すると、またS先生のクラスになった。
相変わらず授業中はこわい先生だったが、人間味のある先生というのは、その頃にはちゃんと伝わっていた。
そのためか、いつしか生徒の何人かで、放課後かわるがわる、その娘さんをとなりの小学校まで迎えに行くようになった。
2学期で、クラブ活動なんかは、受験勉強のために終わりになっていたのだろう。

私も、女子の友だちと一緒に、時々迎えにいっていた。
でも、女子生徒より、男子生徒の方が、まじめに(?)迎えに行っていた覚えがある。
そして、その娘さんを連れてきては、自分たちの教室で、しばらく一緒に遊んだ。
と書くと、なんだか受験勉強もしないで、先生の娘さんと遊んでいたようだけど、それはそれでちゃんとしていて、勉強の合い間の息抜きだったと思う。

でも、その頃、先生とその娘さんを見ながら、女の人が仕事を続けるというのは、送り迎えがあったり、そういうことの連続なんだ、と知った気がする。
そして、S先生からは、こわかった理科の授業よりも、もっとずっとたくさんの人生の勉強をさせてもらったと思っている。
そして、これはあくまで想像なのだけど、あの頃迎えに行く仲間だった男子は、その後父親になった時には、育児にちゃんと関わったのではないかなあと思う。

(写真は中学3年。何人かで奥多摩の棒の折山に登った時の。一度だけS先生とも山に登ったことがある。残念なことに写真を探したけど見つからなかった)