紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

自分の将来

2007-01-31 16:11:26 | 6.自転車日記
このところ、メールやコメントをもらって思うのは、みな自分の将来どうなるのだろうと、そろそろ我が身の心配を始めている。このBlogを読んでくれている人の8割方は、同年代の人かなと思う。
私ももちろん、考える。もう考えなくちゃいけない年齢だからだ。
頭と身体とバランスよく年をとれば問題なのだけど、身体が元気すぎる人は、脳の方が先におとろえる。脳の働きが活発だと、身体の方が先にダメになる。バランスよく年をとっていければいいのだけど。

私の理想は、最後まで山登りをして、山の上で死んだら同行者に迷惑がかかるので、山を下りて、乾杯ビールを飲んだとたん、さようならするいうのだけど、そううまく行かないのが人生だね。(笑)
まあ、でも低山でもいいから、人生最後まで山登りを続けられたら本望かな。

それには身体をきたえ続けないとダメだなあと思うこの頃。
1月も今日で終わり。チャリ子のサイコンを、1ヶ月ごとに何km走ったかわかるように、設定した。
また明日、2月になったらリセットしてしまうので、1月の記録を書いておこう。

1月=162.29km。


積算距離=260.1km。
去年の11月に買ってからの、距離。いつ1000km達成するか楽しみ。

どちらも、サイコンのコードを切って、計れなかった時もあるので、実際はもうちょっと長い距離走っている。

父の介護・2

2007-01-29 16:40:06 | 22・両親のこと
父は特養ホームに入所して、約2年そこに籍はあったけれど、入退院を繰り返していたので、半分も暮らしていなかった。この「暮らす」という感じが、病院と施設との違いだと思う。
施設は、あくまで生活の場であって、病院は、看護してもらう場である。
父は、要介護3だったけど、身体的にはものすごく元気で、足も丈夫だった。認知症のために要介護になったわけで、元気な人が重い認知症になると、まわりの人は24時間みていないとならない。

そして、24時間、誰かが介護にかかわるようになった時が、家族が家で介護する限界だと私は思っている。父は特養に入る前は、365日、24時間介護が必要になっていた。

といっても、これは我が家の場合であって、私も姉もフルタイムで仕事をしていないし、その時は健康だったからできたことである。もし、もっと仕事に関わる時間が長かったり、健康じゃなかったりしたら、24時間介護に行き着くよりずっと早くに、限界がくるだろう。

2年間お世話になったY会のN園では、父は温かい雰囲気の中で、ほんとうに手厚い介護を受けた。その頃からずっと、母もそこでショートステイをさせてもらっている。

(写真トップは、施設のさくら祭り)
施設では年に2回、さくら祭りと敬老の日の集いがあって、その時は大勢の家族も、日本全国から集まってきた。これがなかなか楽しくて、私は毎回欠かさず出ていた。

父の介護・1

2007-01-27 21:28:21 | 22・両親のこと
今日、父上を介護しているSさんのBlogに、長々とコメントをさせて頂いた。
そして、書いているうちに、急に父を介護していた時のことを思い出したので、父のことを書きたい。

父の介護は、初めてのことだったので無我夢中で、いつも後手後手に回って、本当に混乱した。
その頃、母は元気だと思っていたため、母に頼り切りだったのもまずかった。
父がある時重い感染症で入院して、初めて母が軽い認知症におちいっていことと、母の持病が相当に悪くなっていたことを知った。
その日から、両親二人の介護で、仕事もできない、山も登れない、自分の家のことすら満足にできない2-3年の月日があった。けれど、その頃のことを書くと、相当長くなるので省く。

Sさんが1人で介護をしている父上を特養に入れようとしていることについて、かなり迷っているようなので、ここでは特別養護老人ホーム(特養)のことを書こうと思う。
姥捨て山・・という感じは、なんとなくわかる。私たちもそれに似たような気持ちは持ったことがあるような気がする。でも、実際は、姥捨て山ではなくて、そこでは介護の専門家が介護を担ってくれる。

初めて父のために特養の申し込みをした時、まだ母と私たち姉妹で、父の介護は何とかできていた。当時父は認知症で、介護度3だった。だから、どうしようか、すごく迷った。でも、申し込んだのは、その前、母が入院した時に、父の介護は私たち姉妹だけでは、手に負えないのがわかっていたからだ。
父は私たちに、身体介護をさせない。オムツを替えさせない。お風呂にも入らない。それでは人間らしい暮らしはできないので、全くお手上げだった。
あの頃は、あまりに大変で、父への愛情はどこかに吹っ飛んでしまったくらいだ。

父は母さえそばにいれば、だいじょうぶなのだけど、母も軽い認知症が出て、持病によっていつまた入院するかわからない。それで、迷った末、高井戸のY会にある特養に申し込みをした。
1年ちょっとで入れたのは、その時に新しい特養が開設したからだ。そうじゃなかったら、入るのはもう少し後になったと思う。

特養に入所できるという連絡がくる直前、父が10時間行方不明になるという事件があった。
父は徘徊があって、時々どこかへ行ってしまうのだ。近くの姉が、しじゅう両親の家に行ってくれたのだけど、24時間見ているわけにはいかない。
それでも、たいていは1ー2時間ほどで家にもどるのだけど、その時は冬の12月だというのに、薄いシャツ1枚で家を出たきり、いなくなってしまった。
見つかったのは、今でも奇跡だと思っている。ころんでケガをして、近くを通りかかった人が救急車を呼んでくれたのだ。もっと奇跡的だったのは、父が自分の家の電話番号をいえたこと。もう何にもわからなくなっていた父が、よく電話をいえたものだと、姉と一緒に感心したり、驚いたりした。

病院から連絡があったのは、夜の11時頃。
警察に連絡したり、姉と二人で車に乗って、あてもなく近くを何時間も探し続けていたが、冬だし、あんなに薄着では朝までもたずに死んでしまうだろうと思っていた。

けれど、父は軽いケガだけですんだ。その直後、4月に開設する特養ホームに入所できますという知らせがきた。申し込みをした時には、すごく迷ったけれど、その時には全く迷わなかった。これで父も私たちも救われたと思った。

(写真トップはY会の庭の池にいたカモ。ヒナが生まれると、患者も家族も入所者も看護婦さんもお医者様も、みんな一緒になって話しながら眺めていた。みんなの顔には知らず知らずのうちに笑みがわいて癒される時間だった。)

病院週間

2007-01-26 06:35:10 | 11・健康
今週は、病院ばかり行っていた。
火曜は自分の検査、水曜は自分の健診(去年誕生日健診でうけそびれていたもの)、木曜日は母の付き添い。
火曜日は、なんと朝の10時に家を出て、帰ったのが夕方5時。自分の健康を維持するのもけっこう大変なものがある。けど、これからの人生、元気で好きなことをやっていくためには、仕方がない。

火曜日は、ほんとうに急いでいたので、チャリ子で行こうとして、サイクルコンピューターの線を切ってしまった。(泣)
あまり構造はよくわからないのだけど、サイコンは、車輪が1週すると、車輪の円周から計算して、今日は何キロ走ったとか数字が出るのだと思う。時間も計れるようになっているので、時速なども出る。

自分で、被覆をちょっとはがして、適当につないでみたけど、サイコンは動かなかった。
けれど、昨日もう一度トライしてみた。ゆっくりと明るい所で観察したら、線は大きく2本に別れていて、それぞれに細い針金が何十本も束になって通っていた。その2本を、それぞれつないでみたら、なんとちゃんと動いた。よかった。

サイコンがないと、何か自転車で走る喜びが半減してしまうような気がする。
ああ、今日は25km走った~と、あとで自己満足して思うのが、喜びにつながる。
そして、サイコンをつけた昨日は、高井戸の病院往復で25km走ったのだった。満足。


魔法をかけられた木

2007-01-25 07:04:57 | 20・日々のできごと
さとさんと一緒に行った蓼科。
ああ雪国だなあという景色があらわれると、トントンならここ写真に撮るよね、という話しになる。
そんな写真を、何枚か撮った。「shiki彩々」の世界。





氷(つらら)の格子の間から眺めてみると、不思議な木が1本。
魔法をかけられて、雪の世界に閉じこめられちゃったみたいだ。
魔法が解けるのはいつ?

だめ? 全然shiki彩々になっていない? 
写真がデカすぎて、バランス悪いかも。でも写真デカくないと、顔が見えない。

連句新年の巻

2007-01-23 06:49:38 | 7・連句・俳句・短歌
2007年、年もあらたまったので、連句をスタートさせた。
新年の季語、または冬の季語で発句を募集したところ、つぎの句が集まった。

弾みよく 飴切る音や 初大師 ☆

雪の道 登りて拝す 朝の富士

木枯らしに 負けるものかと  大根(だいこ) 抜く

鱈半身豆腐椎茸葱大根

湯けむりの かなたにおわす 雪の富士

大鷹や 初日に向かひ 飛び立ちぬ
 
初浅間山(あさま) 空へ伸びゆく ハイウェイ   

しらじらと 白髪も目立つ 初茜

今年また あなたまかせの 寒さかな

鳩よ舞え 空の青さや 初日の出


やはり新年らしい句が集まった。
エマノン歌仙・その10参加者9人に、一番よい句(好きな句)を選んでもらったところ☆の句に決まった。

弾みよく 飴切る音や 初大師   茶目猫


私が連句を始めて13年になった。最初6人くらいで巻いていたのが、今回の歌仙は9人。それぞれのメンバーが友だちや、またその友だちなどを誘うので、だんだん人数が増えてきた。仕事その他での事情で、参加できない人が3人。
今年もゆるゆると歌仙を巻いていきたい。
職業も年齢も関係なく、対等な関係で句を詠んでいくのは、楽しい。
そのうち、せっかち歌仙もスタートする予定。

連句の部屋

(写真トップは、去年の夏の反省会の時の)

キナバル山登頂を祈っています!

2007-01-21 06:42:40 | 15・心に残ること
今ちょうど変愚院さんがキナバル山登山のために、マレーシアに行っている。
変愚院さんのホームページを見て、私はキナバル山のことを知り、去年娘と良流娯さんと3人で登りに行ったのだ。そうじゃなければ、きっとキナバル山のことは知らないままだったろう。

昨日、変愚院さんがキナバル山に登っていると考えたそのとたん、息が苦しいような気がして、思わず深呼吸してしまった。
そうだ。私には、けっこう高度的に辛い山だった。でも、すばらしい山だった。

変愚院さんはじめ、千日山歩渉会のみなさまのご無事の登頂を祈っています。

キナバル山とボルネオ旅行

◆トラックバック
二度目のキナバル山へ
(変愚院さんのBlog)

蓼科二日目

2007-01-20 07:16:52 | 4・テレマークスキー日記
翌日は、朝起きたら青空が見えた。おぉ、ラッキー!
それでも、ゴンドラをおりた山の上は、マイナス3℃くらい。この時期ふつうはマイナス13℃くらいということなので、かなり暖かい。3月の陽気だそうだ。
ゴンドラの上からは、前日見えなかった横岳も見える。(写真トップ)

ゴンドラで上に登り、途中あまりにいい景色なので、ストップして写真を撮りながら滑って行く。





南八ヶ岳も見える。編み笠~権現、赤岳、阿弥陀、横岳。いつか縦走した山々。



ゲレンデを滑ったり、時々ふかふかの深雪に入って滑ったりした。深雪はころぶと、なかなか起きあがれないけど、楽しい。



テレマークターンは、去年の講習を思い出してやってみたけど、なかなかうまく行かない。
何回かに一度、決まる時があるくらい。バックカントリーでは、安全第一でゆっくり滑って行くので、上達はしないから、もし今年4月頃時間があったら、ぜひまた講習を受けたい。

そして、夕映えの中の蓼科山に別れを告げて、茅野の駅で、京都に帰るさとさともお別れして、東京に帰ってきた。



蓼科一日目

サトのテレマークスキー体験記

蓼科一日目

2007-01-19 16:16:32 | 4・テレマークスキー日記
1月は週末は全て介護で埋まっているので、平日だけれど、その日仕事休みのさとさんと一緒に「エクシブ蓼科」に泊まって、近くのピラタススキー場でテレマークスキーの練習をしてきた。
次回からスキーは全てバックカントリーに出て山歩きなので、ゲレンデでテレマークターンの練習するのは今回限り。

さとさんが会員の人と知り合いということで、私にしてはめったにないリッチで優雅なホテルに泊まらせてもらった。ここは確か、知り合いのY子さんが去年結婚式を挙げたところ。広くて、レストランや温泉、クアハウスなどあちこちに行こうとするたび、迷った。

写真はロビー。


初日は、全くガスって、ホワイトアウト。でも、気温は低くはなく、下は雨だったけれど、スキー場はなんとか雪で助かった。

ゴンドラに乗って、上にいっても、横岳も縞枯山も何も見えない。寒々とした光景。(写真トップ)

ガスの中から、ぼわーっとあらわれるさとさん。

真っ白いガスの中を滑って行く私。


そして、夜はお楽しみタイム。クワハウスと温泉、おいしいお料理とお酒、楽しい会話で生き返った。



蓼科二日目