ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

X-MEN ファースト・ジェネレーション

2011-06-18 23:58:05 | 映画

先日ダーリンと、『X-MEN ファースト・ジェネレーション』を仕事帰りに観にいった。
『X-MEN』は、遺伝子の突然変異により、個人的なパワーが覚醒した人々(ミュータント)の
苦悩と冒険を描いたSF・アクション作品で
これまでに、『X-MEN』・『X-MEN2』・『X-MEN ファイナル ディシジョン』と続き
スピン=オフの作品として『ウルヴァリン X-MEN ZERO』が公開されている。
『X-MEN』の原作はアメリカン=コミックスだが、映画の設定はそれを完全に踏襲しているわけではない。
そして、現在公開されている『X-MEN ファースト・ジェネレーション』は
今まで語られることのなかったX-MENの起源にスポットをあてた作品である。


あらすじは…
後にプロフェッサーXと呼ばれ、X-MENを結成するチャールズ=エグゼビアは天才科学者で
強力なテレパシー能力を持ったミュータントである。
後に最強のミュータント・テロリスト軍団であるブラザー=フットの首領・マグニートーとなる
エリック=レーンシャーは、強力な磁力を発生させ、あらゆる金属を操ることが出来るミュータントだ。
一方、邪悪なミュータント、セバスチャン=ショウはミュータント軍団のヘルファイヤークラブを率い
ミュータントによる世界征服を目論み、アメリカとソ連(現・ロシア)間の対立を増大させ
第三次世界大戦を勃発させようとしていた。
ショウの企みを察知したCIAの女性局員は、それを阻止するようチャールズに依頼。
一方、エリックは母を殺した復讐の相手として、ショウを追っていた。
チャールズとエリックは、ショウを追うことで出会い、協力してヘルファイヤークラブに立ち向かうことになる。
2人は世界中から若いミュータントをスカウトし、チームとして鍛え上げるうちにいつしか親友となるのだが
ミュータントと人類の平和的共存を願うチャールズに対し、エリックは人間不信の気持ちが拭い去れずにいた。
果たして彼らは世界を救えるのか。
そして、なぜ親友だった2人が、宿敵同士になってしまうのか…。
と、ざっとこんな内容である。


これを「娯楽映画」だとすれば、お色気が少ないと捉える向きもあるかも。
映画冒頭に、下着姿のお姉さん達がぞろぞろと出てきたり
ヘルファイヤークラブの美女ミュータントがソ連軍の将校を誑し込む場面などは
もしかしたらサービスショットなのかもしれないが、不思議とお色気は感じられず
正直私はホッとした(折り紙つきのお色気苦手人間。恋愛映画は大の苦手なのだ)。
これを「アクション映画」だとすれば、ショウとエリックの決着の場面は予想外であるとか
あっさりしすぎであるとか感じられるかもしれないし
X-MEN候補生として集められたミュータントを襲撃するヘルファイヤークラブと、CIA(軍?)との格闘が
あまりにも人間が非力すぎて、アクションになっていないと感じた方もお出でだろう。
だがだが敢えて私は言う
X-MENは、そして殊に今作品は、社会的少数者の苦悩を描いた「社会映画」なのだと
ミュータントは、社会的少数者であるが、人間に対する優勢種である。
人間は、社会的多数者であるが、ミュータントに対する劣勢種である。
ミュータントは、自分の意図せぬうちに特殊な力を得てしまったことで、制御できぬ力に戸惑い
異形に苦しみ、居場所を失い、「normal(普通もしくは正常)」になることを切望している。
それは、多数(majority)が人間(normal)で、ミュータントは少数(minority)で異常(abnormal)だから。
人間は、自分たちの持てぬ力を持ったミュータントを、得体の知れない存在として恐れている。
それは、正体がわからないとか自分とは違うものだとか、理解できないものだと捉えているから。
人間は、自分の理解の範疇を超えるものや、よく知らないものを恐れる。
たいてい、社会的少数者は弱者としての立場に置かれているのだが
X-MENでは、ミュータントは人間に対して優勢種(強者)であるがゆえに脅威となり得る。
人間はミュータントを社会の構成員として受け入れるのか、それとも脅威として排除しようとするのか。
これを「社会映画」と言わずして、何だと言うのだ


もちろん私はミュータントにどっぷり感情移入してしまい、涙を流す破目になるのだが
今作品はあまりに激しく感情を揺さぶられたため、頭痛まで引き起こしてしまった
「普通になりたい。」
幼い時から「普通の子供ではない。」と周囲から言われ続けた私は
どれだけ普通になることに腐心し、いかに普通に見せるかに労苦を惜しまなかった時期がある。
普通になりたいと切望するミュータントの気持ちが、痛いほどわかる。
だが、今となっては、普通になることにあれだけこだわった自分が、なんと愚かなことだったかと思う。
子供のうちは無理かもしれないが、軋轢を生むことを恐れず、自分を偽らず、常に冷静であれば
「普通ではない」ことを周囲に理解させる生き方だって出来るのだ。
とは書いたものの、相手が私を理解しているかは確かめようがないし
「理解させる」などという考え自体が不遜なのだ。
いちばんの問題は、私が相手を理解していないことなのだと思うが
そうは言っても、理解できぬ感情や事の推移に、未だに苦しむことがしばしばある


あまりにもまとまりのない記事になって恐縮だが、今作品は是非映画館での鑑賞を



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