goo blog サービス終了のお知らせ 

ただ建築が好きな走るエンジニア、

日系某メーカーを辞めて外資系に転職。資格、建築デザイン、転職と来て今はひたすらす走ってます。2020別大2:49:13。

Moon,

2020-10-07 01:09:00 | 回想



走り終わった後の月が少し幻想的でした。
気候もちょうど良く長く走りたくなる。

(10/6)
OISO 21C
ZF3(366km)
[J]2km 5'39/km
[M]12km 4'04/km 169bpm 193spm 7.7/127=5.9% L49.9%/R50.1% 198ms
[J]6km 5'49/km
VO2max=58
Total:62km/month

昔、まだ東京の砧にいた子どもの頃、
月明かりの下を歩くと
月が後を付いてくるのが怖くて
突然走って逃げたくなりました。

今でも月を見るとその風景を思い出す。
多分、5歳か、小学校に入る少し前の話。

その頃に比べると
何だか月も遠くなったなぁ〜

それも気のせいだけど。

歳をとるって言うのは
意外とそんなもんなんだなぁ。



11年、

2020-09-22 22:09:54 | 回想
最近、クルマのオイルの減りが早くて
警告灯が点くたびに1Lずつ補充している
んですが、7月末以来3度目。

多分、どこかオイル漏れしているんだろうな
と思いつつ、12月に迫る11年目の車検を
どうしようかなと。

来春長女の大学受験を控え、万全の体制で
臨みたいからクルマを新調なんて答えは
ないんですが...

昇進と愛知の製造拠点への出向、家族帯同の
転勤を同時に迎えてその冬に購入した
今の愛車。

一番下の二女は
まだこの世に生を受けておらず、
今大学受験を控える長女もまだ小1、
中3の長男は幼稚園の年少でした。

このクルマは2列目が3人均等割りで
子ども3人が仲良く座れる。
(実はこのクルマを買った時点で
二女の運命が決まった
と言っても過言ではない(笑))

更に3列目に実家の両親を乗せられる。
(たまたま出向先は実家の近くだった)

そして価値観を変えてくれた
フランス車。

リーマンとか、東日本大震災を思うと
決して前途洋々の世の中では
なかったかも知れないけど、
そこにはそれなりの意気込み
がありました。

でもまぁ、色々ありました。

納車日にボンネットの傷を見付けて
ボンネットの再塗装。
(当時は今よりもっと神経質だった)

これは序章に過ぎず、

半年、通勤帰宅の坂道で急にトルク消失、
3速固定で27kmを何とか帰還。
(でも3週間の入院中にちょっといい
代車で実家の両親も乗せて能登に温泉旅行)

2年半、通勤帰宅のカーブでいきなり電源消失
パワステ、倍力装置が効かなくなった
クルマを何とか路肩に止めた。

3年半、残業23時の会社駐車場で無反応、
終電もなくレッカーを待った。
(会社は陸の孤島だった)

ここまでは新車延長保証に入っていて
良かったとして

その後、神奈川に帰って来てからも
突然のバッテリー死2回。
1回は長女を迎えに行った駅前で
動かなくなった

もう1回

他にも
サイドエアバック故障点灯、
交換(10万円)等々。

前回車検前にはエアコンが効かなくなり、
エバポレーター交換で38万円...
(今のクルマは冬でもエアコン切っては
いけないんですね。クルマ屋さんに
その間に腐食したのだろうと言われました)

面白おかしく書こうと思ったのですが、
それには紙面が足りなかった。

このクルマに乗るまでは2回乗り継いだ
スカイラインが一番だと思っていました。

直6とか、マルチリンクの独立懸架とか、
ウンチクにも支配されてたかな。

でも、このクルマで東名名古屋インターから
高速に入った瞬間からの吸い付く様な安定性。
後輪はリジッドサスなのに。

日常域でちゃんと仕事をする
1.6Lのダウンサイジングターボ。

あ~ぁ、

何か自分は勘違いしていた、
何か自分は大事なものを見落としていた、

そこまでは言わないにしても
考えさせられる出来事でした。

その後、エレキやソフト系の資格を取り、
仕事の内容を徐々に広げ、
東日本大震災の直後に二女が生まれ、
芸大で建築学んで色んな価値観に触れ、
出向解除で神奈川に戻り、
部署を抜け出し、会社を変わり、
走り出し、この11年が過ぎ去った。

これから何が変わる訳でもないけど、
やっぱり考え続けている。

やりたいことがちゃんとできているかって。





変わるもの、変わらないもの

2020-09-10 23:34:16 | 回想
昔、スカイラインに乗っていました。
学生だったから下から2番目のGTEって
グレードでエンジンもSOHCだったけど、
それでも直6シルキー、マルチリンクサスの
足回りも素晴らしかった。

でも何年か乗っているとセンターピラーの
ないセダンは何となくドアが開きにくくなり、
ABSやエアバッグもなくて怖かったから
9年目に次のスカイラインに乗り換えました。
ちょうど結婚する少し前の話。

2世代あとの次のスカイラインは
一番下のグレードだったけど、
マルチリンクサスが引き継がれ、
エンジンがDOHCになってオオっと思ったけど、
乗ってみると安全のために剛性と重量が増して
何となく鈍重な感じでした。
でも一度東名で前の車が急停車したときに
ABSがキレイに働いて命拾いしたと思いました。

今乗っているクルマはサイドエアバッグも付いて
高速道路での安定性もスカイラインより上だと
思うけど、まぁ、クルマの感性的なところって
この30年あんまり変わっていないと言うか、
当時でもそれなりにいい線行ってたじゃんと思います。

一方でABS→エアバッグ→自動ブレーキ→ADAS、
安全性能の進化はすごいなと思います。

自分も意外と根っこのところは変わっていないと
思うけど、変わらないところと変わったところ、
家族の安定と言うか、安全性能はそれなりに進化
したかな?

そう思う節目の日でした。



人吉

2020-07-05 11:19:00 | 回想
僕が新卒で入った会社は最初の年に
1ヶ月の工場実習がありました。

と言ってもラインでオペレータなど
できるはずもなく、機械の条件出しや
データまとめのお手伝い。

地方の孫会社でも半導体の工場は
とてもクリーンで機械も全部動いてる。

社食は種類は少なかったけど、親の
2/3くらいの値段でしかもおいしい。

一応本体の社員だからか、いや若くて
珍しかったから、みんな親切。

毎日人吉市中心のチサンホテルから
30分に1本くらいのバスで通勤してた
けど、バス停で待ってると誰かが
クルマで通りかかって乗せてくれる。

帰りの時はウッチャン?ナンチャン?
どっちだかの実家の前とかわざわざ
寄り道してくれた。

秋で工場のお祭り、結構盛大だった、
あの頃は。しこたま芋焼酎を飲んで、
気付いたら体育館で介抱されてた。

週末は肥薩線に乗り、大畑のループ橋、
スイッチバック。日本一の車窓、
乗客は同期のもう一人だけで、わざわざ
停車して缶コーヒーを奢ってくれて
3分くらい?談笑した運転士。

余談だけど、同期のもう一人は秀才で
几帳面な奴だったけど、
僕は結構いい加減の困りもので、
週末に二人で特上のうなぎ、
3000円くらい、今まで食べた中で
一番旨かった、食べた後で
ポケットに千円札一枚しか入ってなくて
その同期を慌てさせた。

銀行とATMが少なくて週末も開いてなくて
すっかり忘れていたけど、
お金のことはだらしないのはだめですね。

後日半人前になってからも
出張で幾度となく訪れて
いいこと、悲しいこと、色々あった。

チサンホテルの目の前を流れていた
球磨川はとても流れが速かった。

溢れたら大変なんだろうということは
容易に察しが付くけど、
無事を祈るしかない。












ちょっとネガティブ入ってます。

2020-06-06 00:33:00 | 回想
今日は4月17日以来、実に48日振り?
にオフィスに行きました。

どうしても実験室に行かなくては
ならなくなり、ついでに色んな雑用を
片付けるために。

でも逆に言うと、それ以外はテレワーク
でほとんど不便を感じてない。
(無理にリュック背負って帰宅ランなんて
やらなくてもいいし、いや走りたい?)

でも、来週からはもう少し出社日が
増えるんだろうな。何でもTeamsで
見せて下さいとは行かないだろうし。

もともと海外の仲間とはバーチャルに
やっていたからあまり違和感ない。

逆に全員フェイスツーフェイスの
ミーティングの方が不可能。

同じチームでも散っているから。

でもそんな時に思い出すのが
前の会社で工場に出向していた4年間。

実は出向になる前の4年間はその工場に
毎週泊まりで出張していた。

あれは何だったんだろうって?

工場に特別室設けて貰って事業部から
大勢が押しかけてフェイスツーフェイス
でお決まりのミーティングを繰り返す。

新幹線で「えいご漬け」と読書が
捗り、名駅のわらじとんかつ、
櫃まぶし、手羽先、きしめん、、、
あと、浜松のうなぎ、

楽しかったけど。

でいっそのこと事業部ごと出向したら
半年でリーマンで吹っ飛んで、
偉い人みんないなくなった後の3年半。

なぜか、九州の製造子会社に牛耳られて
何でも九州から偉い人が出張してくる
水曜日を待たないといけない。

何のためにわざわざ出向までしたのか?

うちは妻も僕も実家がたまたま愛知
だったから、まあ孝行?のお世話に
なれたけど。

今回のCOVID-19で似たような矛盾に
気付いた人が沢山いるんじゃないかな。

そう言う役に立たない足枷の偉い人の
面倒を見るのはもうこりごり。




静岡マラソンの思い出

2020-02-22 23:04:00 | 回想
静岡マラソン走りたかったなぁ~
やっばり少し残念です。
 
過去3年連続で出場して
決して相性の悪い
レースではなかったし、
実際思い出も多い。
 
ちょっとだけ振り返っていいでしょうか。
 
2017静岡マラソン
OGPイメージ

【とりあえず】静岡マラソン2017完走 - 41歳から、エンジニアの生きる道

フルマラソンはしんどい。最後動かなくなった脚を必死にごまかして何とかゴールにたどり着きました。でも家に帰るまでが本当のマラソン。東海道線鈍行...

【とりあえず】静岡マラソン2017完走 - 41歳から、エンジニアの生きる道

 
全然予期せず初サブ3となったレース。

実際はレース内容がグタグタで
嬉しさ湧く前に悔しさ先行
 
前半突っ込みすぎ、
30km過ぎは抜かれまくり、
レース後は鵞足炎に暫く悩まされました。

でもそういう向こう見ずがたまには
必要だよね。と今は思います。
 
初めて別大を目指そうと思ったのも
このレースの後でした。
 
2018静岡マラソン
OGPイメージ

ギリギリアウトは実力。 - 41歳から、エンジニアの生きる道

今晩は長男とキロ7分x4kmジョグを再開しました。脚の調子はまずまずです。でも終盤、左わき腹に少し突き刺すような痛み。本格的に走るにはまだ回...

ギリギリアウトは実力。 - 41歳から、エンジニアの生きる道

 
このシーズンは緒戦の湘南国際でサブ55、
2月初旬までは絶好調でした。
 
本当はそこで別大を走りたかったけど、
子どもたちの受験と重なり断念。
 
その分、静岡マラソンで出し切りたい
と思って臨んだけど、
すでにピークが過ぎてました。
 
ピーキングの難しさを感じたのが
このレースです。悔しかった。
 
セカンドベストで決して悪い内容じゃ
なかったんだけどね。
 
やっぱり35km過ぎの坂が嫌だった。
 
2019静岡マラソン
OGPイメージ

2019静岡マラソン完走、シーズンベスト - 41歳から、エンジニアの生きる道

Bブロックスタートで何とかグロス55分切りで完走しました。来年の別大はこれでカテ2だぁ~。最後尾だけど。一応、ネットタイムも14か月ぶりに更...

2019静岡マラソン完走、シーズンベスト - 41歳から、エンジニアの生きる道

 
このシーズンは7戦走って
サブ3を5回出すも伸び悩み。
 
期待に胸膨らませて初出場した
別大もかろうじてサブ3。
 
そこから3週間で
出場したレースでした。
 
記録証の提出を忘れてBブロック。
2年前と同じように突っ込むしかない。

プレッシャーの中で走って何とか
ネットPB、別大カテ2に
あと2秒でギリギリ滑り込み。
 
ラストスパートは未だに
全レース中で一番だったと思います。
 
35km過ぎの坂もなくなって良かった。
 
そんな感じで頑張っただけ結果を残せる
静岡マラソンが好きです。
 
来年も狙うと思います。
 

冬休み4日目、走る前の乳製品は要注意。

2019-12-30 08:27:00 | 回想



昼間は家族とみなとみらいへ。

クイーンズスクエアの
たかなしミルクファームで
乳製品をたくさん使ったランチ。

チーズがおかわり自由で
食べすぎました。

乳製品、特に牛乳は
あまり得意ではありません。

嫌いじゃないけど、
あとでおなかがグルグルする。

あと微妙な風味?鮮度?に
敏感でした。

僕は小学校を2度転校したんですが、
給食の牛乳の変化に戸惑った覚えが。

3年生までは世田谷で明治乳業、
4年生が名古屋で雪印、
最後の2年は名古屋近郊で愛牧ミルク。

雪印だけはどうしても飲めなかった。
今でもパッケージ見ただけで避ける。
何となく風味の違いなので、
個人差だと思うけど。

少し脱線するけど、
そう言えば昔は牛乳キャップ集めて
メンコみたいに遊んでましたね。

色んな種類のキャップを求めて
祖師ヶ谷大蔵の商店街を
砧から千歳烏山?まで彷徨って
真っ暗になってから帰って
怒られたことを思い出しました。

そんな牛乳がリッチなランチに化けても
やっぱりおなかはグルグルする。

夕方、今日は30キロと思って
江の島を目指しましたが、
往路12キロ付近の浜須賀あたりで
少しやばくなって折り返しました。

サブ3ペースで必死でした。



(12/29)
OISO 9C
adiZERO japan boost3(435km)
[M]21.1km/1:28:04 4'10/km 164bpm 197spm 7.5/120=6.2% L49.3%/R50.7% 204ms
[J]3km 5'53/km
VO2max=59
Total:266km/month



韓流と中国のSF大作の話、

2019-10-29 23:34:32 | 回想
長女が台湾へ修学旅行。
我が家は嵐が過ぎ去った凪の様です。
小ぎれいに落ち着いています。
でも気持ち物足りない。

半月ほど前、僕も出張で台湾へ行きましたが、
いつものごとく往き帰りのフライトで映画三昧。

いつもは邦画か、ハリウッド系流行作を見るのですが、
その時はなぜか韓流と中国のSF大作、そして邦画。

予期せず軽い驚きがありました。

韓流は「マネー(原題)」という作品で
ぶっちゃけ言うと大学生の頃だったか、
チャーリーシーン主演の「ウォール街」って
言う作品を見たことがあるのですが、
それを韓流に焼き直した感じ。

確かに焼き直しなんだけど、
韓国の方がお隣さんだから没入しやすい。
ユ・ジテが単純にカッコいい。
馴染みやすくていい作品だと思いました。

次に見た中国のSF大作は「流転の地球」って
なんだかすごそうなタイトル。
実際にたまげましたね。そう来るかと。
ハリウッドじゃなくてもこういう作品ができるんだね。
そしてハリウッド一辺倒がいかに偏った価値観を
形成していたか改めて知りました。

まぁ、めちゃくちゃな部分もあるんだけど、
新しい時代の予感。

ネタバレになることは言わない。

そして「ラプラスの悪魔」を見て
少しがっかりしたことはもう言わない。
まぁ、東野圭吾だからね。

アジアでみんなもっと仲良く元気になるべき時代。















11年前。11年後、

2019-06-13 23:20:05 | 回想
水曜日は夕方から雨が降る天気予報を信じてランオフ。
今晩は夕方まで会議のリード、その後残業でラン断念。

今週は結果、余り走れていないので明晩の帰宅ランを
どうしようか思案中。完全帰宅ランか?

こんなブログのリードを書きながら、何か書き始め
られるのでは?と思案しても回想しか思い浮かばない。

回想から役に立つことが導けるとはそうそう思えず、
結局いつも書きあぐねてしまう。

ランの記録の合間に行き場を失った思念だけが残る。

早いものでベタなタイトルでブログを書き始めて7年半。
あと1年ちょいでタイトルどうしようかなと言う歳になる。

そして最近少し意識するようになってきた11年後の定年。
(その頃には定年延長で働き続けるのかも知れないけど)

ちなみに11年前の今頃は半年後に部署ごと愛知へ
異動することが内示された時期でドタバタしていた。

チームを任され、異動は大きな投資と夢を託され、
終いには昇格と引き換えみたいな形で旅立った。

今思うとそのとき既に幾つかのきな臭さはあった。

異動は事実上、期限なし子会社への出向で
あらゆる手ですり抜けて上手く?本体に残る人間もいた。

大きな投資と言いつつ、それはリーマンショックの
本当の影響を体感する前に決まった話だった。

そもそもその決定の直前に重大な二択があって
それを選ばなかった恩人の上司は職場を去った。

まぁ、ボロボロになりながらも4年間がんばった。
そして自分のチームだけ本体に戻った。

でも自分のチームは気付けば愛知で集まったメンバー
だけだった。恐らく僕のせいでチームを潰した。

会社を辞めた人、愛知や九州の関連会社へ
戻ったり行ったり...

大手メーカーで最先端開発、設計を担う場所で
自分でも信じられない光景だった。

でもそのチームではかけがえのないメンバーにも
出会えた。これからの11年まだ一緒にがんばれるかも知れない。

これまでの11年間で経験したことを無駄にせずに
これからの11年間を前向きなものにしていきたい。






40℃超えのあの日のこと、

2018-07-18 23:02:14 | 回想
40℃超えですかぁ~
はぁ~

名古屋より西には行けないなぁ~
と体の危機本能が訴えています。

それほどではないにせよ
夕方のみなとみらいも蒸し風呂みたいでした。

こんな時は3日続けて走らない。
素直に直帰しました。

もう10年以上も前の話ですが、
当時も40℃超えの記憶が...

当時、今回40℃超えを記録した地域にほど近いところで
ある新製品の立ち上げに取り組んでいました。

新製品の立ち上げには信頼性の試験が欠かせませんが、
その中の一つに40℃での試験がありました。

その試験では人間が目視で直接状態を確認する項目があって
そのために40℃の部屋に入らなければなりませんでした。

確認には結構時間が必要で
Tシャツで入っても出るときは汗びっしょり。

ある日、その部屋を訪れると入口の扉が開けっ放し。
入口近くに座る係の人に聞くと「今日は外の方が暑い」と。

温度調節が効かなくなって開け放たれていたのでした。
そのときのことを思い出しました。

その後、色々あったけど、何とかその新製品は
発売の日を迎えることができました。

滅多にないことだから記憶に刻まれる。
そしてまたそのうちに繰り返す。

10年後には何を思うだろう。












地名リレー

2018-06-02 23:05:18 | 回想
1995 相模原 熊本県
1996 牛久 鹿嶋 相模原 熊本県
1997 ditto
1998 亀山 相模原 水俣
1999 北九州 相模原
2000 横浜
2001 横浜 上海 東莞 珠海
2002 厚木 幸田
2003 厚木 幸田 東浦 福島 山形 宮城
2004 厚木 青梅 国分
2005 厚木 東浦
2006 厚木 東浦 浜松 ペナン
2007 厚木 稲沢
2008 厚木 稲沢
2009 東浦
2010 ditto
2011 ditto
2012 ditto
2013 厚木 東浦
2014 厚木 東浦 稲沢
2015 横浜 韓国 昆山
2016
2017
2018

僕が線を引いたものを作ってくれた(と少なくとも思っている)ところ。
いろんなところにお世話になってるんだなぁ~

とても感謝しています。



友人、

2018-03-31 22:07:27 | 回想


まだ10歳で出会った当時、
彼は違うクラスだったけど、

サッカーが上手くて話がおもしろい、
いわゆる人気者でした。

僕は勉強も運動も
取り立てて見るところのない
ただの転校生でした。

思い返せば、
小中で同じクラスになったことは
なかったのでは?

ん、一体どこで知り合ったんだ?

中3で僕の陸上の県大会に向かう
バスにサッカー部の彼が
同乗してたのはなぜだったっけ?

そうだ、中2の生徒会で一緒だったんだ。
お互いに少し性格がひねくれていて
毒のある会話を繰り返すうちに
仲良くなったのでは。

時に言い過ぎることもあったけど。

それぞれ違う高校に進みました。
それでも家が近所だったから
頻繁に行き来してました。

ある年の夏休みの日、
家のポストに観光地の饅頭の箱が
無造作に入っていました。

我が家で後にまで語り継ぐ毒饅頭事件。

それはもちろん毒饅頭なんかでは
なかったんだけど、

誰が投函したか分からず
ちょうどグリコ森永事件などの
余韻もあって

最寄の警察に届け出てしまいました。

警察に届け出た後になって
あの饅頭どうだったとその彼。

慌てて警察には投函主が
分かりましたと届け出て
事なきを得ました。

と思ったのも束の間、

後日の新聞地方欄に
○○町で留守中に不審物投函騒ぎ、
実は学校の友人の土産だった

みたいな短い記事が掲載され、
少し話題になりました。

彼は翌年の年賀状に
その記事の切り貼りを載せて
みんなにおもしろおかしく。

おたがいにひねくれて
毒のあるコミュニケーションの象徴的な
出来事でした。

市内の進学校に進んだ私に対して
地元の普通の感じの高校に進んだ彼。
でも高三になって
常に模試の偏差値が高かったのは
彼でした。

なぜか学校に勧められるがままに
遠くの旧帝大の一つと早慶など
東京のあまた私大、
多分7~8校受験してすべてに合格し、

本当は早慶のどっちかに
行きたかったんだけど、
受験でお金を使い切り? 国立にしか行けないと真剣にどうしようか
相談に来て我が家に一晩
泊まったことがありました。

こっちは一番行きたい大学は
落ちてたし、
我が家に届いたばかりの
大画面テレビで映画を観ながら
適当に相槌打っていたら、
4月には仙台に旅立っていました。

大学四年間はアイスホッケーに
熱中してたけど
なぜかからだがどんどん
大きくなっていきました。

そして文系の学部に進んだのに
何故かSEになった彼。

その頃には何故って考えるのは
面倒くさくなって気にしませんでした。

社会人二年目にもう一人の友人含め
三人で東北縦断の旅に出て
男鹿半島で見た本当の水平線に沈む
夕陽は今でも印象に残ってます。

その数年後、勤めていた東京の会社を
辞めて愛知に戻った彼。

仕事と旅を適当に織り交ぜて
過ごしていたと思います。

愛知に戻って落ち着いた住みかは
これまた何故かうちの実家と
同じ団地、棟、階段で
うちの実家は1階で彼は5階。

何故か、私より私の親に頻繁に
会ってました。

ある年、やはり同じ棟、階段の4階に
同じ小学校だった女の子が
もう女の子じゃなかったけど、
引っ越して来ました。

その子は訳あって離婚して
こども三人と一緒だったけど、
彼と仲良くしてくれました。

実は小学校のとき少し憧れていた子で
毎日仲良くできる彼に
嫉妬を感じたりもしました(笑)。

僕の実家の周りはそんな感じで
少し賑やかなんですよね。

来年もそんな同級生と桜が見たいです。



大抵のことはどうにかなる、

2018-02-26 23:05:18 | 回想
長らく会社員生活を続け家族を持ち
既に50歳手前の47歳になるけど、

子どもたちを見ていると自分の幼かった頃も
思い出します。

本当に両親に申し訳ない子どもだった。
のは世田谷に居た9歳まで。

小4で名古屋へ転校して生まれ変わったので。
多分、そういうことはよくあるんだと思う。

落ち着きがなく、よく忘れ物する子どもだった。

小1のとき、筆箱に折れた鉛筆1本しか入ってなくて
授業態度が悪くて母が呼び出された。

小2のとき、バレンタインデーにチョコくれたクラスの女子を
通学路で突き飛ばして骨折させてしまった。すごく怒られた。

小3のとき、忘れ物チェック表っていうのがあったんだけど、
自分が断トツトップだったので、それを捨てて自分の忘れ物数を
半分にしたものを偽造したら学級裁判にかけられた。

パチンコ屋隣のゲーセンでコンセントの抜き差し繰り返しで
ゲーム機を誤動作させてクレジット100にして遊んでた。
ら、ある日警報器が鳴って走って逃げた。

銭湯でも同じことした。

近所の酒屋の配達のお兄ちゃんが意地悪だったので、
配達用自転車のカギを隠したらすぐにバレて母が平謝りだった。

住んでいたアパートの壁を焦がして母が大家さんに平謝りだった。

幼稚園のときだけど、毎日帰り道ピンポンダッシュしていたら
ある日待ち伏せていた兄弟に見つかってイジメられた。
次の日はそこのお母さんがケーキをごちそうしてくれた。

...

書き出すと止まらない。

でも転校した先の名古屋では小6のときには学級委員やって
中2のときには生徒会長やってたからね。

運が良かった...

うちの子どもたちは嫁さんに似て正直で本当にいい子だと思う。
努力も偉いと思うけど、どんな結果でも自信を持って進んで欲しい。

大抵のことはリカバリー可能だから。

明日は神奈川県立高校の合格発表日。

(Run in today)
MM 7C, OISO 5C
Nike Flyknit Racer(724km)
[MJ] 2km/11:37(5'49/km)
[OJ] 5km/33:38(6"38/km) w/ my son(4km)
VO2max 57
Total:243km/month

高校入試、

2018-02-05 23:57:20 | 回想
長男の受験を無事終え、
長女が受験する公立高校の出願倍率を眺める日々です。

倍率が軽く1.3倍超える、
ところによっては2倍とか。

公立と私立ではやっぱり違いますからね。
でもそれより行きたい学校へ進んで欲しい。

僕は小3までは東京の世田谷、
そのあとはずっと名古屋で過ごしました。

そんなに経済的に余裕があるように見えなかったので
ずっと国公立で。しかもずっと名古屋。

名古屋の高校は神奈川ほど私立の選択肢に恵まれていない?
ので、高校は自ずと公立に。

増しては中学受験など思いも寄りませぬ。

一応ある程度人気のある高校だったけど
受験の倍率もせいぜい1.15倍くらいだったかな。

学力試験も教科書に忠実、素直な問題でした。

でも出願前に中学の先生にしつこいくらいに地元の高校の
推薦枠を薦められました。

名古屋と言ったけど、実は実家は名古屋近郊の郡部で、
地元の高校は当時流行り?の管理教育で有名な学校。

中学もその附属みたいな厳しさでした。
当然頭髪は五分刈りですよ。毎週木曜日に定規でガツン。

その反動で絶対に地元の高校へは行かない、
地下鉄に乗って市立高校へ行くんだと決めてました。

大人の都合なんてクソくらいだ。
周りの声に惑わされずに自分の道を行っておくれ。

(Run in today)
MM 6C, TJD 1C
Nike Zoom Flyknit Streak(163km)
[MM]1.9km/10:19(5'31/km)
[EMT]14.3km/57:59 Ave:4'04/km 166bpm 203spm 121cm
4'28-4'20
-4'08-4'05-3'59-3'57-3'53(20'02/5km)
-3'51-3'51-3'55-3'59-3'51(19'27/5km)
-4'27-4'09-1'08(4'07/km)
VO2max 59
Total:63km/month

よく分からないときに速くなれる。

2018-01-20 22:57:39 | 回想
少し力を抜いた時に速く走れるって
書いて思い出したのですが、

中高校生の頃もそんな思いをしたことが
あったなぁと。

走り方そのものではなくて練習に対する
スタンスの話ですが。

小5のマラソン大会でほぼ最下位だったのが
小6でいきなり2位になって中学陸上デビューした話は

どこかでしましたが、
中1で陸上を始めるとそこにはライバルがいました。

小6の最後に成り上がりでいきなり速くなっても
中学校でどのくらい通用するのかは想像付かなかったと思います。

中1の夏の地区予選で1,500m走ってみたら意外と上位だったけど
県大会へ進めるほどではない。タイム4'55くらい。

そのとき4'45くらいで県大会へ進んだ奴が同じ中学に。
やっぱり速い奴はいるんだなぁ~と思う一方で、

県大会くらいなら自分も行けるかも知れないと
秘かに?思いました。

そいつは、成績抜群で陸上トレーニングについて
よく勉強していてみんなの練習メニューを作ってくれました。

私もそれに従うだけ。
競い合うけど、やっぱりいつも2番手。

秋の体育祭1,500mも郡大会3,000mも冬の駅伝、マラソン大会も
いつも2番手。

差は僅か?なのに正直勝てる気がしませんでした。
中2になっても状況は同じ。

そんな中、私は中2の1年間、生徒会の役員になりました。
週に何度かは部活動に出ず、自ずとトレーニング量は減りました。

まぁ、差は縮まるどころか、どんどん開いていく...
ライバルは着実に進んでいく。

当時夏の大会は中1と中2が学年別1,500m、中3が3,000mでした。
郡大会は学年混合で3,000m。

中2秋の郡大会3,000mは10分ちょっとで走っていたと思います。
ライバルは9分台、中3に一人速い先輩がいて私たちは2位、3位。

夏の大会3,000mの県大会標準記録9'40だったので、遠いなぁ~と。
身長の伸びも止まり、練習もボチボチ。

でも生徒会から解放された中3春の記録会でいきなり9'30台???
練習等で予兆はまったくなかったのでビックリ。

そのまま地区予選も順当に抜けて7月初旬の通信陸上県大会で9'15。
全国大会標準9'13には届かなかったけど5着表彰台に立っていました。

ちなみにそのレースの1着は8'40くらいで当時の全中新記録。
3着まで全国大会標準突破するハイレベルレースでした。

今は9分切るくらいじゃないと全国大会行けないみたいですね。
進歩してるんだ。

余談だけど当時は全国大会に行くには指定されたレースで標準記録を
突破するか、誰も突破者がいないときは県1位が選ばれる仕組みでした。

指定レースは通信陸上の他に7月下旬の中学総体県大会があって
もう一回挑戦できたんだけど、それは順位は3着だったけど9'22で沈没。

でも中学総体県大会6着までに入ると東海大会へは行ける、
でも東海大会は指定レースじゃないからそこでのタイムでは全国へは行けない。

複雑な仕組みでした。

その成り上がりの末には県下駅伝トップの高校からスカウトの先生が来たり、
色々とおまけが付きました。

それで将来食っていけるとは思わなかったので普通に勉強して
公立高校へ進学しましたけど。

結局速くなったのは何らかの努力の結果だったとは思うんだけど、
それが何だったのかは未だによく分かってないです。

でも我武者羅の結果ではなさそう。
そういう場面に高校でもう一度出くわすことになります。

ちなみにその中学のライバル(勝手にそう呼んでるけど)は、
その後も走ってて40台後半になった今もサブ45で走っています。

やっぱりちょっと追いつけそうにはないんだよねぇ~