写真はボンダイブルーの初代iMacです。
まだちゃんと動きます。
Mac OS X & FirefoxでWebブラウジングもかろうじて可能です。
1998年、発売初日に秋葉原の石丸電気で購入しました。
当時住んでいた相模原から車で駆けつけ、
買ってからその車に乗せようとしたら箱が大きすぎて入らず...
その場で開梱して車に乗せていたら周囲の人から奇異な目で
見られました。
自分では「おたく」ではないつもりですが、
それは人それぞれということで。
...
2000年、初めての海外出張で上海や東莞の電子部品工場を回っていたら
ある工場で幾世代か経た後継のiMacを生産していました。
当時はEMSでの生産が全盛になるちょうど過渡期だったんだと思います。
上海では現地ローカルスタッフや訪問先企業のいずれも中国人の方々に
運河沿いを案内して貰ったり、色々と親切にして貰いました。
東莞でも行程の途中でそのローカルスタッフが
わざわざライチ果樹園に寄り道してくれ、
新鮮なライチをその場で頬張り、
(今思えば少し危険な、でも不思議とおなかは大丈夫だった)
日本人もアジアで生きていかなくてはならないと
自然に感じました。
...
そんな電子デバイス業界に身を置いている私と
石油メジャーに関わる日揮のエンジニアの違いは大きいかも知れないけど、
それでも彼らもアルジェリアに対して似たような感情を抱いていたのでは?
と想像します。
それだけに危険を回避できなかったのは残念です。
思うに
現地ではどれだけローカルスタッフと日本人の関係が親密だったか?
危険予知に関する情報収集やシェアが十分だったか?
どこまでのリスクを想定していたか?
VIP来訪において無理はなかったのか?
など気になることは多々あります。
...
これからも彼らの中で生きていく、
後を継ぐエンジニアがいると思います。
その中で生きていくことは必然で
今回の出来事は乗り越えるべきことかも
知れないけど、
だからこそ一方でその出自や文化の違い、
リスクも考慮し、
こうした悲劇を繰り返さないように
冷静に考えていきたいです。
...
私にとってはボンダイブルーのiMacを中国で見た日から
日常はすぐ横で広い世界と繋がっているんです。