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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

☆ 関東大震災100年、福田村事件追悼慰霊碑保存会代表に聞く事件の真相

2023年08月31日 | 平和憲法

  =関東大震災100年=
 ☆ 「福田村事件」を語り継ぐ
   「複合差別」がもたらした悲劇 (週刊新社会)

 関東大震災から5日後の1923年9月6日、千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)で香川県からの売薬行商団15名のうち、幼児を含む9名が福田村と隣の田中村(現柏市)の自警団によって惨殺された。従来、朝鮮人と間違われて殺されたと言われてきたが、そうではなく「複合的差別」が原因だと、福田村事件追悼慰霊碑保存会代表の市川正廣さん(79歳)は指摘する。事件の教訓に学び、いまに続く差別の実態を見てみよう。

 市川さんは元野田市の職員、若いころ同和対策課に配属され、以来部落差別や人権問題に取り組んできた。
 関東地方南部を襲った関東大震災は、大火災による被害も引き起こし、東京、神奈川、千葉等関東各地で死者・行方不明者10万5千人余を出す史上最大級の天災だった。そして、その混乱は、朝鮮人6600人以上、中国人700人以上の虐殺を引き起こした。
 9月3日には内務省警保局長が各地方長官宛に朝鮮人の行動を取り締まるよう電文を発し、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの流言蜚語(りゅうげんひご)は、政府によって正当化され、虐殺を容認する空気がつくられた。

 戒厳令も敷かれて殺気立つなか、3月に郷里の香川県を出て、京都、大阪、群馬を経て千葉県に入り、当時の野田町でーカ月ほど売薬行商をしていた一行は、暑さを避けるために9月6日早朝、茨城県に渡るため、利根川の三ツ堀の渡しに向けて大八車を引き出発した。約10キロの悪路の道のりだ。
 途中にある北総鉄道野田町駅(現東武鉄道野田線野田市駅)脇を通るとき、一行はふるさとの秋祭りにはこの駅から乗車して帰るのだと思ったであろう。
 しかし、この一行は怪しい集団として自警団や警察から見張られていた。
 単に「不逞鮮人(ふていせんじん)」だけではなく、当時の千葉県警察部のポスターを見ると、「浮浪者」「押し売り」などと並び「不正行商人」が来たら通報しろという時代だ。
 やっとの思いで渡船場に着き、船頭と渡し賃の交渉をしていた時、鐘が鳴らされ、駆け付けた(待機していた?)100人程の福田村と田中村の在郷軍人会などの自警団に取り囲まれ、「見かけぬ集団」は、「不審者」と疑われた。

 香川県知事が発行した売薬鑑札を見せ、また、村長らが日本人だと言ってもおさまらなかった。巡査が本署に問い合わせに向かった後、激高した集団による殺戮が始まった。
 殺されたのは2歳、4歳、6歳の幼児や妊婦も含め9名。遺体は利根川に流された。縛られていた残りの6名も殺されようとしたときに本署から駆け付けた部長が止めた。
 この事件で福田村と田中村の各4名が逮捕され、全員有罪、7名が実刑判決を受けたが、大正天皇死去による恩赦で放免された。実刑を受けた1人はのちに田中村の村長となった。
 しかし、これだけの大事件だったが、その後長く封印された。加害者側は口を閉じ、襲われた生存者も思い出したくない記憶を語ろうとしなかった。
 なぜ香川から関東まで薬の行商に来ていたのだろうか。そこにはいまに続く部落差別がある。当時農地は大地主に支配され、部落出身者は小作人にもなれなかった。狭い香川県内には農地や他の産業も少なく、生活するには自活するほかなく、県外に行商に出るということになる。そう、惨殺された一行は被差別部落出身だった。

 ☆ 背景に「複合差別」

 事件を掘り起こしたのは香川県歴史教育者協議会の石井雍大(ようだい)会長(当時)。千葉県の同協議会から連絡を受け、被害者を探し、書き残された文書発掘や聞き取りを行った。
 その結果2000年に、香川県では「千葉福田村事件真相調査会」が、千葉県ではそれに呼応して「福田村事件を心に刻む会」が立ち上がった。

 千葉県野田市で開催された同年7月の「福田村事件を心に刻む会」の結成総会には、香川県からも参加があり、地元からは旧福田村の最後の村長を務めた新村勝雄さん(合併後に野田市長、その後日本社会党衆議院議員)が参加し、幼いころの記憶を語り、個人として被害者に心からのお詫びと協力を表明した。
 市川さんは刻む会の事務局長として、3年後の事件発生80年に向けて、過去を直視し、現代を考え、「未来への伝言」となる慰霊碑建立に尽力。
 慰霊碑の設置場所や石碑に「福田村」と刻むことにも苦労を重ね、事件発生80年となる2003年に事件発生場所に近い円福寺の大利根霊園に、住職の協力を得て「関東大震災福田村事件追悼慰霊碑(墓碑)」を建立できた。
 除幕式は香川県の関係者も参加したが、野田市は当時の市長の私的参加にとどまった。

 市川さんは現在「福田村事件追悼慰霊碑保存会」の代表を務める。これまで3千人を現地案内し、事件について語り続けている。
 9月1日には映画『福田村事件』の上映が始まるが、市川さんは「朝鮮人誤認説」は間違いだと指摘する。
 加害者は政府の朝鮮人を取り締まれとの方針に協力したと弁明し、罪の軽減を図ったことは想像できる。しかし、売薬鑑札を含め、日本人だということはわかっていたはず。
 市川さんは関東大震災の不安と恐怖の中で、朝鮮半島出身者への民族差別、職業の選択肢が奪われた部落差別、排他的なよそ者差別が交錯、重なりあった「複合差別」と見る。
 鈴木有野田市長も6月議会で公式に哀悼の意を表明した。排外主義が強まる風潮の中、事件を教訓とする人権教育の重要性は高まるばかりだ。

『週刊新社会』(2023年8月23日)

 


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