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「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該14名によるブログです。

本日です!奥野泰孝事案:人事委員会口頭審理のご案内

2019-09-02 09:29:44 | 人事委員会審理
直前のお知らせで申し訳ありません。


府立支援学校教員・奥野泰孝さんの 2015 年「君が代不起立」戒告処分取消し請求、 大阪府人事委員会第3回口頭審理、傍聴支援の、直前のよびかけです。

9月 2日(月) 午後2時~3時 大阪府咲州庁舎(WTCビル)29F
・大阪地下鉄中央線「コスモスクエア」駅下車、南東へ約600m。
・または、ニュートラム南港ポートタウン線に乗り換え、
「トレードセンター前」駅下車、ATCビル直結、約100m。

*今回は、奥野さんの本人尋問です。
  担任する卒業生徒への「(障害者への)合理的配慮」行為に対する処分の撤回を求めて証言します。
公開口頭審理 はこれが最後です。
満席での傍聴支援になるように、参加のご協力をお願いします。




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大阪市立泉尾北小学校「天皇即位記念」児童朝礼:大阪市教委の認識と対応を問う交渉報告

2019-08-24 10:27:49 | 大阪の教育
子どもたちに渡すな!あぶない教科書大阪の会の伊賀さんから、大阪市泉尾北小学校「天皇即位記念」児童朝礼に関する大阪市教育委員会との交渉結果の報告と今後に向けてのお願いがありました。
唖然とさせられる市教委の回答ですが、ぜひ、最後までお読みください。

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昨日(8月23日)には、大阪市立泉尾北小学校で行われた「天皇即位記念」児童朝礼に
ついて大阪市教委の認識と対応を問う交渉(協議)を行いました。交渉には33名の市民
の方が集まってくださり、2時間、熱のこもった交渉を行うことができました。私た
ちは、「児童朝礼」の内容について一つ一つ市教委の見解を問いただしていきました。
しかし、大阪市教委は、今回の「児童朝礼」とそれを行った小田村校長の姿勢を「不
適切ではない」との立場を示し、最後まで容認し続けました。

(1)小田村校長が新天皇を「第126代」と子どもたちに説明したことについて、市教委
は、「宮内庁が公表している天皇系図に記されている。」「小田村校長はこれを参考
にしたものと考えている」と答えました。宮内庁HPにあるからといって、歴史的事実
ではないものを子どもたちに示し「少しでも覚えてもらえると嬉しい」(泉尾北小H
P)と紹介することは不適切です。

この点を追及しても、市教委は、「『第126代』が歴史的事実かどうかは分からない」と
曖昧な態度をとり、「第126代」と説明したことが適切であったかどうかの見解を明らかに
しませんでした。

 「第126代」が全く歴史的事実でないことは明らかであり、戦前の政府が、大日本
帝国憲法下で天皇の神がかり性、万世一系に説得力を持たせるために、1920年代に歴
代天皇の系譜を無理矢理作りあげたものです。

 また、市教委は、小田村校長が宮内庁の天皇系図を参考にしたと言っているわけで
はなく、全くの想像で回答していることが分かりました。あまりに杜撰な回答としか
言いようがありません。

(2)泉尾北小HPに小田村校長と山口あやき氏が「皇紀2679」と記した色紙を持った記
念写真が掲載されています。私たちは、そのことについて見解を問いましたが、市教
委は、HP上では「皇紀2679」の文字が見えない(画像の問題でぼやけている)ので
「見解はない」としました。「見解はない」ということは、事実上問題なしの立場を
表明したことに等しいものです。市教委は、色紙に「皇紀2679」と書いてあることを
確認をしたことまでは認めましたが、見えていないから問題なしの対応でした。極め
て無責任な態度です。

 私たちは、小田村校長が「寺子屋だより」(株式会社寺子屋モデル会報)の中で、
「山口さんはお話もしてくださいましたが、『仁徳天皇のかまどの煙』の話や今年で
2679年ということで、先生方も『目を白黒』させておりました。今の教師の実態であ
ります。」と書いていることも明らかにしました。これは、小田村校長が山口氏が
「皇紀」を使ったことを積極的に評価していることが分かります。市教委は、小田村
校長に聞き取りをしたと言いましたが、このような事実については、把握していませ
んでした。

 私たちは、改めて学校現場で「皇紀」を使用すること、「皇紀」の色紙で記念写真
を撮りHPに掲載した小田村校長の行為そのものの問題性について問いたいと思って
います。

(3)山口氏が戦前の唱歌「神武天皇」「仁徳天皇」を歌い、教育勅語児童読本「民のか
まど」の話をしたことについて、市教委は、「文科省通知(4月22日)や学習指導要領
を逸脱するものではない」「小田村校長からは(山口氏は)断定的に話したのではな
い、と聞いている」と回答しました。この話で、子どもたちがどのように「多角的に
考え」られるか問うても、「断定的に言っていないからだ」と明確な回答を避けまし
た。

 また、山口氏が「行くぞ!日の丸」を歌ったことに対しても、市教委は「文科省通
知、学習指導要領に逸脱するものではない」と回答しましたが、その根拠となる条文
については示すことができませんでした。

 さらに、市教委は、小田村校長から「山口氏はオリンピック・パラリンピックを応
援する雰囲気で歌っていた、と聞いた」とも回答しました。しかし、市教委は、山口
氏がオリンピック・パラリンピックのことを発言していたかどうかを確認していませ
んでした。あくまで小田村校長の「雰囲気」で判断しただけでした。

 そもそも、山口氏を呼んだのは小田村校長であり、小田村校長は泉尾北小HPで
「とてもいいお話もしてくださいました」と述べており、2人は共鳴していることが考
えられます。市教委は、小田村校長の言葉だけで判断しており、客観的な聞き取りを
していないことは明らかです。少なくとも教職員からの聞き取りはどうしても必要で
す。 

(4)私たちは、質問書で今回の「児童朝礼」についての市教委の見解を聞いたにもか
かわらず、回答には市教委の見解は全くなく、市教委の想像での回答や一般論に終始
していました。回答の不十分さは、市教委総務も認めざるを得ませんでした。今回の
交渉では、市教委の見解を聞き出すことから始まり、そこに多くの時間がとられ、市
教委と小田村校長の今後の対応について突っ込んで問いただすことが出来ませんでし
た。

 そこで、今回曖昧になった点を市教委に再回答を求めることにしました。市教委の
聞き取り(調査)の問題点についても情報公開請求を行い、事実を明らかにする取り組
みも進めたいと思っています。それを基に再交渉を要求していきたいと思っていま
す。今回の交渉では市教委の頑なな擁護姿勢を突き崩すことは出来ませんでしたが、
一つ一つ市教委の矛盾を明らかにし、粘り強く取り組みを続けたいと思っています。
今後ともご協力をよろしくお願いします。 
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大阪ネット通信(8/17)

2019-08-18 19:43:59 | 大阪ネット
「日の丸・君が代」強制反対・大阪ネットの事務局・山田光一です。
台風一過、猛暑は継続という中で、皆さま、お変わりはありませんでしょうか?
標記の「大阪ネット通信」(8/17)を送信させて頂きます。今後ともよろしくお願いいたします


「日の丸・君が代」強制反対・大阪ネット通信(8/17)

①安倍政権の大軍拡・社会保障切り捨てー改憲・戦争国家づくりと対決を

 メディアを総動員しての改元・オリンピックの宣伝や対韓敵対政策によって、安倍内閣はナショナリズム鼓吹と天皇を利用した「国民統合」を図っています。そのもとで、戦争責任と戦後補償に頬かむりし、森友・加計や年金問題等に蓋をしたままで、改憲・「戦争する国」づくりを引き続き進めています。しかし参院選の結果、参議院での改憲勢力は2/3割れとなり、一定の歯止めをかけることになりました。また自民党の得票率の低下や9条改憲・消費税増税・原発反対が世論の多数を占めていることも再度確認されました。今後もアベは野党の分断・無所属の取り込み等であくまで改憲を執拗にすすめてくることは間違いありません。これらの策動を封じ込めるか否かは、やはり野党・市民の共闘の前進と大衆的な市民運動の展開の力にかかっていると思います。

⓶「戦争する国」を支える愛国心教育、「日の丸・君が代」強制を許すな

 戦争国家づくりの重要な柱になっているのが教育への介入・支配です。行政の教育介入を可能とした改悪教育基本法にそって、歴史を隠ぺい・歪曲し、「個人よりも国家が優先」・戦争肯定の教科書採択・道徳教科化・統一テストの数値目標化など、国と大企業のための教育支配を強めています。そして「子どもたちを再び戦場に送る」教育を担わせるために、教職員統制を上意下達と職務命令によって、いっそう徹底していこうとしています。学校における「日の丸・君が代」強制は、これに従わない教職員を処分・排除するとともに、上からの命令には逆らえないことを生徒にも見せつけ、「戦争する国」に都合のよい従順な国民を育てていこうとするものです。

➂おおさか維新による排外主義、天皇・神話刷り込み教育にSTOPを

 大阪市では、育鵬社の中学校歴史・公民教科書の採択、反戦平和教育や人権教育つぶしに続き、学力テストや統一テストによる学校ランク付けと点数による個人評定の絶対化、そしてこれらを教員の評価・給与に反映させた制度改悪が強行されようとしています。大阪市泉尾北小学校での天皇即位記念朝礼問題や大阪府立学校での知事・府教委の全生徒への拉致問題資料の配布、「アニメ『めぐみ』」の視聴通知・指示等もこれらの延長線上にあるものです。皆さまの以下の取組みへのご参加・ご協力をお願いするものです。
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全国集会元気をもらった! 山田肇報告記

2019-08-08 11:51:56 | 全国から
今回の全国集会にZAZAメンバーは8名参加しました。そのうちの山田肇さんの報告を掲載します。
https://blogs.yahoo.co.jp/yamada55132/39039748.htmlからの再録です。


全国から集う!全国で闘おう!
第9回「日の丸・君が代」問題等、全国学習・交流集会が、
7月21日(日)、東京の日比谷図書館文化館・地下ホールで開かれた。

今年の全国学習・交流集会は、「日の丸」「君が代」の強制等と闘う
多くの人々が集まり、元気をもらう集会となった。

まずは、『「日の丸・君が代」と子どもの良心形成』と題する
世取山(よとりやま)洋介さん(新潟大学准教授)の講演。
世取山さんの講演の大すじは、
2012年、安倍第二次政権による教育再生実行改革の中で、
教育政策を振り返り、「日の丸・君が代」強制をとらえたい。
さらに、子どもの人格形成・良心形成という観点から、
「日の丸・君が代」強制がどのような意味を持つのか、
を考えるということだった。

その講演の中で、心に残ったこと。
「教育内容改革」と称して、
アクティブ・ラーニングとICTの活用が進められているが、
電子黒板とアイパッドによる教育は、まさに教育の規格化・陳腐化。
子どもの成長にとっては何の意味も持たない教育になってしまっている。
つまり、子ども・教師の相互的関係にもとづく授業が排除され、
子どもたちの発問や葛藤の中で真理に到達する
というプロセス(授業)が学校教育からなくなっていってしまう。

教師が教師であることを許さないシンボルとしての
「日の丸・君が代」の強制から
子どもの自律的な形成を不可能にする教育のシンボルとして、
「日の丸・君が代」が強制され、政治的に利用されるものとなっている。
当初から危惧をおぼえていた
教師への「日の丸・君が代」強制は子どもへの強制に帰着する、
ということが、今や現実のものとなっている。
それゆえ、「日の丸・君が代」問題の意味を
市民に広く理解してもらうには、
教育とはそもそも何かということを理解してもらうことがポイントとなる。

つまり、「教育の規格化・陳腐化」と
子どもへの「日の丸・君が代」の強制は表裏一体をなしている。
子どもの「欲求の自由な意見表明」を抑圧し、
子ども一人一人の「人格の全面的発達」をさまたげるものとして、
「日の丸・君が代」の強制が進行している。
教育とはそもそも何か、どうあるべきかという観点から
「日の丸・君が代」の強制の問題を語っていくことが大事だと理解した。

世取山さんの講演に続いて、東京の学校現場で進行していること、
また、根津公子さんはじめ、東京の「君が代」不起立処分者の闘いの報告。
そして、私たち大阪の闘いや千葉、神奈川、愛知、福岡等の闘いの報告。
「改憲・戦争阻止!教え子を再び戦場に送らない!
広島教職員100人声明」を出して、8月5日全国教職員ヒロシマ集会
への参加を呼びかける広島からの報告。
さらには、東京の各市民団体からの発言等々。

午前中から午後にかけての集会を終えた参加者は、
5時から銀座・数寄屋橋に向けてデモを行った。

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「日の丸・君が代」と子どもの良心の形成(世取山洋介さん)講演:聞き書き版

2019-08-08 09:00:09 | 全国から
7月21日の「日の丸・君が代」問題等全国交流・学習集会におけるメイン講演は、私たちの今後の運動にとって非常に示唆に富む素晴らしいものでした。

いずれ公式報告集が出ますが、それまでは、どうぞ大阪ネットの寺本勉さんの「聞き書き版」で、そのエッセンスを味わいください。


「日の丸・君が代」と子どもの良心形成

世取山(よとりやま)洋介さん(新潟大学准教授)

はじめに

今日は参院選の投票日。そこで、2012年からの安倍第二次政権による教育再生実行改革の中で教育政策を振り返り、「日の丸・君が代」強制をとらえたい。さらに、子どもの人格形成・良心形成という観点から、「日の丸・君が代」強制がどのような意味を持つのかを考えたい。

安倍第二次政権における教育再生実行改革

安倍政権は、再成立以降の七年間で、教育改革をはじめとした自らの政策・野望を実現してきた。
教育再生実行改革においては、人材育成を唯一の目的として、国民の「統合と排除」、つまり統合とともに排除を行うことがポイントになっている
2012年までの教育改革は、競争的市場原理主義に基づいて、学校の階層化による校長の権限強化によって、エリート層の育成、立ち遅れた学校の淘汰が進むと考えられていた。しかし、それではうまくいかないということで、2012年以降、特定の産業を重点的に発展させるという産業政策にもとづく労働力政策を打ち出し、そのことを、学校体系の複線化による「効率的なエリート選抜」「非エリート向け教育の陳腐化」「いずれにも適応できないものの排除」を柱として、実現しようとした。
その展開がどのように行われたのか、行政組織・学校体系・学校組織の改革、教育内容の改革、生徒指導の3つの面で考えたい。

2015年の地教行法改正が持っていた意味は、地方交付税を紐付きにして(国庫負担制度化)、特定の方向へと誘導する、具体的には、学校統廃合と小中一貫校創設、高校の多様化、つまり学校体系の複線化を誘導することにあった。創設された大規模小中一貫校では、規模が大きすぎて、生徒一人一人と向き合うまともな教育ができずに「収容施設」化している。今まで通りに小学校を維持できるのは、豊かな財政を持つ自治体だけになり、その結果、従来の6・3・3制を歩めるのはエリートだけということになる。
高校多様化の中では、たとえば高校3年間で、その地域の特産物を作り出そうとして、作られた「特産物」を道の駅で売るという教育が行われている。この子たちの高校3年間は何だったのか、という思いになる。
中教審答申(2015年)に基づく教員改革によって、教師の本務である「教育」のダウンサイジングがすすみ、チーム学校の名の下に教員が担う教育を切り刻んでいっている。教員が担ってきた教育の中で、生活指導は大きな位置を占めてきた。子どもの生活を抱え込んで、科学的に子どもをとらえる伝統があったのだが。一方で、給特法はそのままにして、教員の無定量の労働時間の存続と正当化がはかられ、学期内の超過勤務は存続させている。

2018年、学習指導要領が、それまでの全国的な最低水準の維持のための統制から、全面的にあるべき教育を規定するものへと変えられ、方法までに及ぶ全面的な統制へと向かっている。では、学習指導要領の法的拘束力は、全国的な最低水準の維持のために必要との最高裁判例だが、この段階でも法的拘束力は果たしてあるのか、という問題が出てくる。この問題について、文科省は沈黙しているが、元文科省官僚の前川氏らは、いまや法的拘束力はない、指導・助言というべきだと主張している。
その中で、アクティブ・ラーニングとICTの活用が進められている。アイパッドによる教育では、ソフトは民間に任せている。電子黒板を全教室に導入して、教師の仕事は電子黒板の操作へと切り縮められるのではないか。まさに教育の規格化・陳腐化によって、子どもたちの葛藤の中で真理に到達するというプロセスが学校教育からなくなっていく。電子黒板とアイパッドで進められる授業では、ある意味「美しい」場面が展開されるが、子どもの成長にとっては何の意味も持たない教育になってしまっている。
教科書検定基準の改悪(2017年)によって、教科書には政府見解や最高裁の判断を書き込むことが義務付けられた。特別の教科として「道徳」が新設されたが、その教科書では、22の「徳目」を子どもたちにどのように刷り込んでいくのか、をはっきりと書かないと検定に合格しないようにされた。「道徳」の授業では、「恥」という概念を「道徳」の基礎において、子どもの教育を行うことが求められている。近代的な「恥」の概念とは、自分の人格が嫌だと思うこと、人格を取り替えたいと思うことである。そこには、近代的な個人の確立が前提とされている。だから、戦前の教科書では「恥」が出てくるのは、兵士の敵前逃亡の場面だけだった。「道徳」の授業の中身は、徳目に従って行動できないときに「恥」を感じなさい、人格を入れ替えなさい、というもので、子どもたちに「恥」を知れということを教えるものだ。

生徒指導では、いじめ防対法(2013年)では、懲罰主義の拡大と、何でも第三者委員会に任せて、学校が主体であることの希釈化が打ち出された。さらに、教育機会確保法(2016年)によって、人材育成に基づく「統合と排除」の周辺への拡大がおこなわれた。

展開の全体的特徴と学校で起きていること

こうした展開の全体的特徴として、一つは利用できるものは何でも利用するというショック・ドクトリン的手法があり、もう一つは青写真をしっかりと持っていて、それをどのように実現するかは体系的には持っていないが、問題が出てきたときに、問題の解決策であると称して、そのパーツの現実化を図ろうとしてきたことがある。
この流れのもとにあって、学校で起きていることは何か?
学校については、教育の責任範囲が人格の全面的発達から、「学力」形成への縮減がおこなわれ、さらに学校内での階層化がすすみ、つまり上意下達の組織に変えられた。
教師については、本務である「教育」を授業へと縮減させるとともに、労働時間政策が授業準備や自主研修などを労働時間の中に組み入れられないままで進められている。本務である「教育」の一環としての生徒指導は、規則制定とその機械的適用に縮減されている。
子どもにとっては、先生は授業する人、ないしはゼロトレランスを実行する人として現れる。自分のことを全体として分かってくれている大人が学校にはいなくなり、学校に頼る意味がなくなる。自分の悩みなんか学校や教師に相談できないという不信感を持つだろう。電子黒板などを使った陳腐化された授業を受けることだけが学校に行く意味になる。

「日の丸・君が代」問題の位置付けの変化

こうした中で「日の丸・君が代」問題の位置付けが変わっているのではないか?
東京の「10.23通達」(2003年)とそれ以降の「日の丸・君が代」強制は、校長独裁制実現のための手段であった。当時の石原慎太郎知事にとって、新自由主義的教育改革に乗り出す格好の口実となった。その結果、論争的主題を教師は子どもたちに提示して、そこから考えることの意味を教えるという教育を進めることを不可能にしてきた。その意味では、国家主義イデオロギー統制は副次的であったのではないか、と私は考えている。
レジュメには、陳腐化した教育の中で、「光り輝く筋(?)」としての国家への帰属意識・忠誠意識の涵養の手段という新しい位置付け、と書いたが、安倍にとって、国家が国民を統合する際のイデオロギー統制とは、国家が作った共同体イメージの中に国民を統合していくことだと考えられる。この国家イメージを象徴するものとしての「日の丸・君が代」という位置付けになる。
しかし、その国家イメージはまだうまく作り出せていないのではないか。政府によってねつ造されるはずの「共同体」イメージの内容は、経済的自己責任と大国日本への忠誠である。そういう長時間低賃金労働と福祉国家の縮小を受け入れた上での、経済的自己責任を受容する自由で強い個人の集合体としての日本、そして日本がグローバル経済競争に打ち勝つことに熱狂し、それに忠誠を誓う個人の集合体としての日本という物語をいかに作れるか、が問題となっている。
道徳の「特別の教科化」にもかかわらず、「共同体」イメージのねつ造が進んでいないからこそ、イメージねつ造と「日の丸・君が代」の利用が進むはずだ。そのためには、再びショックドクトリン手法を使うのではないか
文科省の4・22通知では、代替わりに伴う「日の丸」の掲揚の要請と「国民こぞって祝意を表する意義について、児童生徒に理解させるようにすること」という要請が行われた。前天皇が退位を表明する際、非人間的な生き方を強いられてきた天皇が退位表明という形ではじめて人間的な発言をしたということについて、私は生きている天皇に初めて共感してしまった自分に動揺してしまった。生きている人間を象徴にしてしまう残酷さを感じた。この点について、他にそのように考える人がいない孤立感を感じていたが、樋口先生が「奴隷制」だと表現してくれて、ホッとした(朝日新聞、5月3日?)。
「日の丸・君が代」の位置付けが変化してきている。これまでは、教師の教師としての職能的自由の侵害であり、その基礎に座るべき教師の個人としての市民的自由の侵害であり、教師が教師であることを許さないシンボルとしての「日の丸・君が代」の強制であった。
これからは、政府のねつ造する共同体イメージのシンボルとしての位置付けが増していけばいくほど、子どもの非宗教的良心(自らの行動を律するその人独自の価値体系)の形成を操作し、その自律的な形成を不可能にする教育のシンボルとして、「日の丸・君が代」が強制され、政治的に利用されるだろう。良心は、宗教が力を持っていない現在では、非宗教的に形成されるものではないか、と私は思っている。

子どもの非宗教的良心形成と教師・学校

人格とは、社会と自然という外界に関する認識を、その人独自に統合したものだが、外界の認識を許さないシンボルとしての「日の丸・君が代」、教育の陳腐化が進む中で、まともな教育をやっているシンボルとして愛国心の涵養がすすめられるだろう。そのことによって、良心形成を不能にするだけでなく、その基礎としての科学的認識をも不可能にする。
科学的認識と価値体系は連続して形成される。この子どもたちによる、この連続体の形成に責任を持つということが人格の保障に責任を持つということだ。このような連続体は、どのようにして形成されうるのか。そのためには、子どもの成長にとって、自らの要求・欲求にたいして応答してくれる教師を必要とする。
私が指導した大学院生の研究の結論を紹介すると、小1までは、遊びは空想の中で自らの要求・欲求を実現することだが、学童期では遊びの中で得た経験と教師から得た科学的概念を結びつけて、子どもたちは認識を形成していく。思春期以降は科学的概念を遊びのように使って、社会的概念を形成していくということだった。
そのためには、教師はどのような自由を持たなければならないのか?それは、市民的自由の保障の上に職能的自由が保障されなければならない。それに加え、集団化され、自治的に運営される教師集団が必要だ。
国連子ども権利委員会への提訴について、「日の丸・君が代」問題を20年来トライしてきたが、うまくいっていない。子ども権利委員会は、子どもへの強制はないという姿勢で止まっている。教師に強制することが子どもにとって悪影響を与えることを説得するのは今後の課題である。ヨーロッパでは国民統合に教育を使うのは常套手段なので理解されにくいのかも知れない。
民主的に形成された教師集団こそが、子どもの要求・欲求に応答できる。学校行事を教員集団が作り上げること、教員が集団化することについての意味が社会で理解されていないのではないか。それを理解してもらうことが必要だ。

最後に、教師への「日の丸・君が代」強制は子どもへの強制に帰着する、という当初から確認されていたテーゼが正しいことが確認されたが、「日の丸・君が代」問題の意味を市民に広く理解してもらうには、教育とはそもそも何かということを理解してもらうことがポイントとなる。

(文責:寺本勉)
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