下町のパンを食べてみませんか?

千住、緑町ゆうやけ通り下町のパン屋パレット

山の楽しさ!?

2009-08-29 22:22:04 | 夢見るお年頃
遅くなったので教室パスして大将の顔見に行けば
カウンターには懐かしい顔。
どうやらハコのナカミが決まったらしく
大将にもふてぶてしさにも似た何らかの自信回復?
Sちゃんと久々に話したんですが
新たなNPOの立ち上げに忙しいのと
始めて12年になるお囃子が地元で九月の半ばにある
秋祭りで演奏?するとのことでした。
東京には大きく分けて二種類のお囃子があるそうです。

皆それぞれの子供も成長し自分の趣味や地域活動に費やす時間が増えてます。
彼が帰った後で今年になって よく出会う方達が残ったところで
デキタ息子のTちゃん登場。
僕には彼が慣らしておいてくれた登山靴がピッタリで
しかも当たらず痛くなく・・・と話したところで
(当然Tちゃんは僕の為に靴を履き慣らしておいてくれた
訳ではなく靴は彼の靴でした)
カウンターの向こうから大将登場。
もしかしたら「パレットは簡単に登って簡単に帰ってきてしまう」かと
思って心配したとのたもうたんです。
そんなに簡単にヤッテのけたら山を舐めてしまって
僕の今後の人生に悪影響が出ると心配したらしいんです。
山小屋への到着が4時間遅れたら「遭難」とミナスそうです。
登山者が途切れた4時間の間 一人で登り続けてた時の顔・・・
見たかったそうですが彼はダイタイ想像がつくと言ってました。
人は笑って誤魔化せても
山は誤魔化せないゾ!
食えたんなら高山病は軽く 息切れと睡魔 
動けなくなった原因は徹夜と日頃蓄積した疲労だな!と彼は断定したんです。
皆が言うんです。
怖かっただろ。 辛かっただろ。 寂しかっただろ。 てね
単独になったのは日が落ちてからなんです。
上にも下にも小さく揺れる光が見えなくなった時間帯があったんです。
幼い時に お兄ちゃんである僕は一人で留守番してて日が暮れて
電気のスイッチに手が届かず暗くなった部屋に一人で居た記憶があります。
弟をおぶった母はオソラク急いで帰宅したんだと思うんですが
母の帰宅第一声は「ごめんね・・・」でした。
子供ながらに事情を感じてた僕は泣きも文句も言わなっかたと思いうんです。
夜中のバイトで見た夜景も一人でしたし
その時に比べれば大人になった僕が怖い、辛い、寂しいハズもなく
アンタ等 俺をナメとんのんか? と言いたいくらいです。

それから登っていたのは4時間ではなく10時間です。
「パレットはソノ時モウロウとして気力だけになってたから
冷静な判断力を失くしてたハズ」またも登山では先輩の大将は決め付けます。

彼は今だからウソブイテるけどパレットの絶望的なソノ時の顔を
見たかったそうでツイデにソノ顔を写メしておいて
僕が生意気言ったりウソブイタら黄門様の印籠よろしく
僕に見せたかったそうです。
控えおろォ~~ ってね!!
連絡もらってら俺も車で富士山に行ってたから
連絡無くてよかったよ・・・

どうだったの?ホントのところは・・・?

に僕は答えたんです。
バカ言ってんじゃねぇよ!
自分と向き合えた時間をタップリ持てたんだぜ!!
それはソコに居た者だけが経験できる事だから言っても分からんでしょ!!!

今だからウソブイテ 強がっていられるんだろうが
パレットは必死になってたハズだ・・・の決め付け。

そう言えばモウロウとしてた時に一人の男性が現れたんだけど
もしかしたら 植村さんだったカモ・・・
う~ん皆の呆れたブーイングが僕はたまらなく好きなんです。

今度はもっとウマク登れると思う・・・に対して
彼は 違うね また 同じようにヘバル!!!と断言。
だって反省してないじゃん。ですって。

そこで僕に攻撃的になってる大将に冷水を浴びせたのが
デキタ息子Tちゃん。
「ヨコテのおじちゃんが言ってたよ。あの時は死んだかと・・・」
ヨッシャー
キタキタキタ 
彼が山小屋からヘリで病院に搬送された話がキタァ~~~~

「俺もヨコテのおじちゃんから連絡もらったら
槍に行ったと思うから連絡無くてよかったんだよ!」
「ところで槍ヶ岳の事を 槍 って言うのは
太宰治を 太宰 って言うのに似てない?」
大将アキレ果て Tちゃん大爆笑。

「なんだ かんだって言っても俺は後輩連れて20年も
山に登ってた男だよ」って言う大将に僕は
「頭の中には昔 登ってた自分のイメージが有るだろうけど
今の自分の体力は違うから山を舐めては駄目だ」とアドバイス。

山はこれだから無事に帰れば楽しい!?のです。

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