今年は墓参りと仏前供養だけで、迎え火も送り火もしなかった。
私の脳裏から年々薄れていく悲しみと喪失感に、妻は嘆いているかもしれない。
人間うまくしたもので、日々忘れていくから生きていけるのだろう。
日照りが続いている。
川堰一杯に流れていた大川の水がガクッと減って、それに伴い水質も悪くなってきた。
洗われて青色を帯びていた川底の石に、よく見ると茶色の藻が付き始めたことで分かる。
ダムの水量が保てなくなって発電を落としたとみえる。
かろうじて両岸の魚の遡上堰付近だけ流れている。
こうなるとラヴの水泳も禁止したいところだが、放すともうたまらず水に入ってしまう。
後一週間も雨がなければ、完全に干上がってしまうだろうね。
週末の雨予報に期待しているのですが・・・。
相変わらず潜り専門のラヴ
川面にはボントンボ(ウスバキトンボ)が無数に飛んでいて、
rikuの頭上にも写りこんでいますね。
娘は所用で朝から松山に出かけた。
それで孫2人を伴って実家へ行ってきました。
仏壇に線香を上げ、暑いので墓参りはパスにしました。×バツ
今年数えで100歳になる母親は9月になると市長さんからお祝いを貰えるそうです。
ただ、さすがにこのところは弱ってきていて、今日は私のこともはっきりとは認識できなかったようでした。
食は進み耳は聞こえ、大きな声も出せるので、往診の医師はまだまだ大丈夫とのこと。
元々小柄でしたが、まるで子供ほどの体になり、透き通るような手の平もyuuと合わせると同じくらいになっておりました。
歳を重ねると、骨からして縮小し萎んでいくのですね。
こんなにも小さくなるとは・・・
この身体で、すべて手作業の時代の農家で5人の子を産み育てたのです。
拝むような気持ちになりましたよ。
夕方の公園
何コレ
孫達のところにはテレビを置いていないので、私のリビングにやってくる。
yuuは「プリキュア」、rikuは「遊戯王なんとか・・」
そして2人が共通して欠かさず見ているのがあのピカチューの「ポケモン」である。
6年生としては恥ずかしい、と思うが・・
いつの間に覚えたのか「ポケモン」の歌(下)をほぼ全部諳んじているのに驚きます。
http://www.youtube.com/watch?v=JieDamf_HdE
・・・・・・ズルック・チラーミィ・レシラム
エルフーン・バルチャイ・ドレディア
ジャローダ・シキジカ・ワシボン・タブンネ・ゴチルゼル!
ランクルス・ワルビアル・ムーランド・ハーデリア
ハトーボー・コアルヒー・ヨーテリー・シンボラー
シママ・ダゲキ・ナゲキ・ケンホロウ・ダイゲンキ
ギアル・ギギアル・ギギギアル
(ラララ言えるかな)
オノンド・リグレー・ダストダス
コジョフー・ビクティニ・タマゲタケ
アギルダー・ギガイアス・キバゴ
ズルズキン・カブルモ・モロバレル
シャンデラ・ゴルーグ・チョボマキ・ガマゲロゲ
オタマロ・プルリル・ランプラー
イワパレス・ジヘット・アバゴーラ
ガマガル・アーケン・ウルガモス・・・・・
と、まだまだ前にも後にも延々と続きます。
呪文のような歌詞は無数にいるポケモンの名前の羅列ですね。
私がやっと覚えたのはね、「ギアル、キギアル、ギギギアル・・」のところだけ。
そう、これは歯車(ギア)型ポケモンなのでした。
子供たちとと暮らしていると、刺激にはなりますね。
政治や円高のこともそっちのけになりますわ・・・
円周率を何千桁と暗記している人がいるらしいが、
こんな調子で歌にして覚えているのでしょうかねぇ。
yuuとポケモン指人形と、お気に入り恐竜たち
大仕事
日本の学校の夏休みの宿題の多いこと・・・娘が閉口し音を上げている。
いや、そういえば自分の時代も、子供の夏休みの当時も苦痛だったものです。
6年生ともなると、習字、読書感想文、俳句、みどりのポスター、歴史新聞作り、自由研究と盛り沢山・・更にプリントもたっぷりとあるらしい。
お盆前までには何とかヤッツケテおきたいと、追い込み中だと、
今日は最大の難関、図画を仕上げると臨戦体制でしたよ。
rikuの絵の下手さ加減は、既に担任にも定評があるので、
少しでも親が手を加えるとバレばれだから、「じいじも一切手伝わないで」と娘
そういえば今までyuuの絵はよく見せられているが、rikuのは見たことがない。
今日中にポスター絵を何が何でも描き上げておきたいとそれでも頑張っていた。
傍で「なんやこれ」などとくさしても、本人も自認しているから屁のカッパ、
なるほど想像以上にへたくそで、人間などはまるで「ぬいぐるみ人形」である。
惹かれてyuuもやりたいと、トンボを描いていたが、よほど観察力があると見えた。
投げ出さず、3時間もかけて描き上げたのがこれ・・・(rikuには内緒)
ま、芸術家になるわけでもなし、やり遂げるだけでよし、なのかな。
以前にカブトムシを沢山採ったことをブログに書きましたが、
あの時のものも全体に小さくて、オスの角も5mm-ほどの小さなものでした。
オスだか雌だか区別が付かないほどあの角が貧相なのです。
孫が採ってきたクワガタも随分小さなものでした。
何か変だなあと思ったものでした。
NHKのテレビ番組で、カブトムシやクワガタの変異を報じていましたが、
最近小型のものが増えているらしいのでした。
これは幼虫のときの環境によるものだそうです。
適度な湿り気のある腐葉土で育つと大きなカブトムシになるが、水分が少なく貧栄養の環境からは小さな成虫になるらしいのです。
そういえばあの大量発生した場所は生のオガクズの堆積場所でしたね。納得
クヌギ林の里山も手入れがされず、自然の地層も貧栄養になっているのでしょう。
今日がピークかなと思うような暑さでした。
しかし予報では、 34/26℃ が一週間並んでいます。
お盆が明けると暑さも過ぎるでしょうか。
今年は雨も少ないのに水量豊富です。
これは少し上流手の水力発電所を例年になくフル運転しているからのようです。(私の推測)
1~2kmほど川面を流れて、少し下流で又工業用水として取水されていますね。
だから海までは到達しないのです。
この水も発電やダムの放流を停止すれば、即 干上がるのですよ。
できれば夏の間は流して欲しいものです。
高校時代には登山部でした、とどこかに書いていて蘇ってきた。
昭和35、6年当時のことである。
まーぁ、今では想像もつかない装備だったものですなあ。
リュックサック(ザック)は勿論 巾着型のキャンバス地のもので、防水も不十分
テントもキャンバス生地に防水加工したものでしたよ。
雨に濡れたりしようものなら大変なことになりました。
塩ビのカッパはあったでしょうか・・ポリエチとかプラスチックスの普及する以前でしたもの。
飯盒と大きなアルミ鍋、無煙ガソリンを燃料にしたホエーブスというコンロ。
極めつけは寝袋である。
米軍の払い下げか譲り受けたという、草色の重たい毛布地の代物でしたね。
登山靴さえも当初は自前ではなくて足を靴に合わせるという具合でした。
好き好んで登山部に入ったわけではない
顧問教師に引っ張り込まれただけである。
にわか部員5人、
20kg超の荷物を担いて学校近くの小山や寺の階段で訓練したものでした。
ひたすら強力のような苦役としか思えませんでしたよ。
揃いのシャツは白いカッターシャツを染色科にいた奴に黒に染めさせて間に合わせた。
ぶっつけ本番で望んだ総体は皿が峰、夜中に雨風でテントが飛んだ。
悲惨なものでした。
でもその後、先生はあちこちの山に連れて行ってくれて山の良さを知りました。
就職してもあの当時は週末のバスが満員になるほど登山が盛んでしたよ。
マイカーのない時代でしたから、
帰りのバスが雪で来られなくなり、市内まで数時間を歩いて帰ったこともあったっけ。
あの頃、今思えば無謀とも思える単独登山もよく行ったものでしたなぁ・・・。
蒸し暑かったがそれでも33度、散歩は日がすっかり沈んでからにしています。
夕焼け・・・暑さはまだ続くのでしょうか。
1人食事だったので夏野菜とベーコンのオリーブ炒め
風評の極致なのだなあ、と呆れ果てた。
陸前高田の津波で名勝の松林が殆ど倒れたそうで、その倒木を使って板を作り、鎮魂の祈りを書き込んで京都の大文字焼きで燃やして貰おういう計画があったそうだ。
京都市の共感も得て実現までこぎつけそうだった矢先、
一部の市民の反対で中止になったそうだ。
一体誰が・・・心無い無知な人がいるもんだなあ、と怒ってもそれは門外漢か・・
「放射能を撒き散らす、琵琶湖の水が汚染されたらどうする」というのが理由だとか。
放射能が検出もされてもいない、ほんの僅かの木材である。
時節柄とはいえ説得できないところが悲しい
陸前の海岸で燃やされたそうだ。
その方がよかったのかもしれないね。
逝った人たちにより近く届いたであろう。
夏のワンピースで舞うyuu