近事変々

思いつくまま、気の向くまま綴る「おとりん」のサイトです。
※表題の「変々」は字面の遊びです。(念のため)

なんという花なんでしょうか?

2008-01-31 12:25:37 | 花好きずき
 きょうは、けっこう強めの風が吹いているが、陽射しが心地よい感じがする。
ここのところ、忙しさにかまけていたのと、これといったネタがなかったので更新が滞ってしまった。
 久しぶりに、庭の花でも写そうかなと思ったのだが、咲いている花は名前が分からない。
他にはシクラメンくらいしかないので、分からないまま載せることにしたのだが、ご存知の方にご教示いただければ幸いである。










雪もどうやら峠を越した。

2008-01-23 15:13:29 | 近事変々
 天気予報の通り、今朝方からさんさんと降っていた雪もどうやら峠を越し、雨に変わってきたようだ。
まだあたり一面雪景色といった感じだが、あすになればこの雪も消えてしまうことだろう。
 雪が積もるとあとあと難儀になるが、やはり寒いのなんのいっても、季節の移り変わりを感じさせてくれるので、たまには降って欲しいものである。
 庭先を眺めたら、灯篭にも僅かに積もっていたし、椿の花も雪にすっぽり覆われていた。






「志村城址」探訪記・・・その3(完)

2008-01-19 10:25:29 | 近事変々
 今朝も寒いには寒いのだが、うっすらと陽が射しているので、お昼頃には少しは暖かくなってくるのだろうか。

 私の「志村城址」探訪記も三の丸跡を残すのみとなったが、もう少しお付き合いを願いたい。
では、三の丸跡へご案内・・・。


 志村城の三の丸跡は熊野神社の境内とこの路地で区切られている東側一帯に広がっていたそうである。



 ふと見ると、思いもかけず右手の建物のフェンスの中に「志村役場跡」の説明板が建っていた。

 それによれば、当地には大正2年(1913)から昭和7年(1932)に板橋区ができるまでの20年間、志村役場が置かれていた。
当初の役場は志村延命寺内に置かれていたが、明治36年(1903)の火災で焼失して移転後、さらに大正2年に当地に洋館2階建の庁舎を新築し移転したとのことである。



 ここは、東京都聴覚障害者支援センターの敷地でもある。



 支援センターの先の路地を左に入ると、斜め正面に日本電産コパルの社屋が見える。
現在、マンション(ヴィオスガーデン城山)が建っている本丸跡にも、昔はコパルの工場が建っていたのだが・・・。
この路地を挟んだ両側の敷地が三の丸の跡だといわれている。



 コパルの社屋の裏側に回ると志村城山公園との境の道路になる。
ここから眼下に志村城山公園を見下ろすと、志村城が自然の要塞だった頃が偲ばれる。



 志村城山公園に戻り、公園の中を歩いてマンション(ヴィオスガーデン城山)の玄関先まで行ってみたが、さすがに見上げるような高さである。
さながら、現代の要塞といった感がなきにしもあらずといったところである。
往時の志村城も、こんな具合に聳え立っていたのだろうか。



 ここの左手に志村城址に登っていく坂道がある。
この坂道を登りきると熊野神社の裏手に出ることができるのだが、ちょうど年配の方がゆっくりゆっくりと登っていく姿が印象的であった。



 ちょっと駆け足で回ってきたようにも思うが、これで、私のつたない「志村城址」探訪記は終りである。
また折を見て、近くの城跡にも足を運んでみたいと思っている。

 最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

「志村城址」探訪記・・・その2

2008-01-18 11:14:23 | 近事変々
 きょうの空はどんよりと雲に覆われ、かなり冷え込んでいるが、こう寒くては用事が無ければ外に出る気力も失せるというものである。

 さて、きのうに引き続き、「志村城址」を辿ってみよう。

 「志村城址」の象徴、二の丸跡にある熊野神社の境内、社殿の少し手前の左手には、熊野神社の由緒が記された説明板が建っている。



 これによると、熊野神社は、長久3年(1042)にこの地の豪族志村将監が紀州熊野から勧請したもので、康正2年(1456)、志村城主千葉隠岐守信胤が城砦を築くとともに、城内鎮守として崇敬してきたものだということである。

 社殿左手の、一段低くなった場所には土塁と空堀の跡がしっかり残されている。
これは、本丸と二の丸の境界にあったものだということだが、ここを見なければ、城跡だとはいわれてみなければ全く分からないことだろう。



 熊野神社を出て左側には志村小学校があるが、ここと、隣に建つマンション(ヴィオスガーデン城山)の敷地が、志村城の本丸跡である。
この写真を撮るときはちょうど児童の下校時だったので、見送りの職員にちょっととがめられたが、頼み込んで1枚だけ写して来た。



 志村小学校の正門前から左手はこんな急坂になっていて、志村城が自然の要塞だった面影を感じさせてくれる。



 坂道を下って、下の方から見上げたマンション(ヴィオスガーデン城山)は、いかにも聳え立つといった感じであった。
ここからすぐ先には、首都高5号線の志村料金所がある。



 次は三の丸跡へ行くのだが、次回に乞う、ご期待・・・。

「志村城址」探訪記・・・その1

2008-01-17 18:19:50 | 近事変々
 明け方には初雪が降ったそうだが、きのうの日中は思いのほか好天気に恵まれたので、以前から一度は行ってみようと思っていた「志村城址」を見に行ってきた。
その時の様子を書いてみようと思う。

 「志村城址」は、都営三田線の「志村三丁目」駅からほんの数分先の城山といわれる高台にある。
崖に沿って「志村城山公園」という横長の公園があるが、入口を入った左手、崖に設えられた階段を登っていくと、熊野神社の裏手に出ることができる。

「志村城山公園」の入口、この門を入って左手の階段を登る。



 階段を登りきった所、右手の金網の中が熊野神社である。



 この道路の途中から境内に入ることもできるが、ずっと先の丁字路を右折した所が熊野神社の参道入口である。

 「郷社熊野神社」と記された石碑が鳥居の脇に建っている。



 参道はかなり長く、右手は「城山幼稚園」の敷地となっている。



 鳥居をくぐってすぐ左手に「板橋区史跡 志村城跡」の石碑と板橋区教育委員会による説明板が設置されている。
そこには、『志村城は、康正2(1456)年に千葉自胤(よりたね)が赤塚城に入城した際、一族の千葉隠岐守信胤が入城して、赤塚城の前衛拠点とした。
 本丸は志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、出井川と荒川をめぐらせ"守るに易く攻めるに難し"といわれる堅城であったが、大永4(1524)年に北條氏綱に攻められ落城した。』
と記されている。



こちらが社殿である。
境内は志村城の二の丸にあたり、社殿は古墳の上に建てられているとのことである。


「薮入り」の日にはお墓参り

2008-01-16 18:07:38 | 民俗・行事
 このところ寒い日が続いているが、きょうは燦々と陽が挿しているので、ことのほか陽射しが眩しく感じられる。

 お正月を迎えたと思ったら、七草を終え、鏡開き、そして小正月という具合に、1月も半ばである。
きのうの晩には小豆粥を頂いたが、きょうは「薮入り」の日である。
その昔、奉公人にとってはお盆と正月の「薮入り」の日は、特別な日であったが、こんにちではそんなことは忘れ去られていることだろう。

 うちのほうでは、正月の「薮入り」の日にはお墓参りに行ってお花を供える習慣があり、代々続けられている。
どういう理由でそうしているのかは未だに分からないが、今朝はお墓に行ってお花を供えお線香を上げてきた。

 これですっかり正月気分を落とすわけだが、すぐに初午、立春と時は流れていく。
まさに「光陰矢の如し」である。
齢を重ねるごとに、年々、その思いを強くしている。



小正月/伝次郎のカレンダー

薮入り/江戸暦 ─ 正月の行事

新年会の景品で「シクラメン」をゲット。

2008-01-14 16:41:30 | 花好きずき
 12日の土曜日は、町会の新年会であった。
夕方5時からの開会だったが、雨が降っていてかなり肌寒い中を会場に出向いた。
開会に先立って地元の囃子連中による寿獅子舞が披露されたあと、型通りに、まずは町会長の挨拶、続いて地元選出の区議会議員の挨拶があった。

 宴席なのでビールで乾杯をしたあとは、仲間内で新年の挨拶を交わしながら酒を酌み交わした。
宴たけなわになってそろそろ酔いもまわり始めた頃、恒例のビンゴ大会となった。
開く数字に一喜一憂しながら、3つもリーチになってようやくビンゴとなり、景品のシクラメンの鉢をゲットすることができた。
その後、景品が余ったのでジャンケン・ゲームも行われ、運良く勝ち残って2個目のシクラメンも手にすることができた。

 シクラメンといえば、別名「篝火花」というように真っ赤なものが多いが、貰ってきたのはほとんど白に近いものと、やや小振りで花色の薄いあまり見かけない種類のものであった。
2時間ほど過ぎた頃、中締めということで、三々七拍子の手締めで新年会はお開きとなった。
毎年、酔っ払って前後不覚になってしまうのことが多いのだが、ことしはそれなりに自重したせいか、なんとか、ちゃんと家まで帰ってくることができた。




 



  




【シクラメン】

・桜草(さくらそう)科。
・学名 Cyclamen persicum
     Cyclamen : シクラメン属
     persicum : ペルシャの
Cyclamen(シクラメン)は、ギリシャ語の「kiklos(円)」が語源。
 塊根が丸い球形のようなところから。
・開花時期は、10/25頃~翌4/20頃。
・地中海沿岸地方原産。明治末期に渡来。
・よく花屋さんで見かける。
・花弁が上に強くそりかえっている。
・初冬から春まで咲く。
 年末年始頃から室内でもよく飾られる。色はさまざま。
 鑑賞用の園芸植物。
・別名 「篝火花」(かがりびばな)、
      花の形が、ひっくりかえったような形であるところから、
      篝火を連想。
    「豚の饅頭」(ぶたのまんじゅう)。
      シクラメンの原産地であるトルコやイスラエルの方で、
      野生の豚がシクラメンの球根を食べたことから。
      豚にとっては饅頭がわり、ということで・・・。

(出典:「季節の花300」)

咲き始めた徳丸北野神社の蝋梅

2008-01-11 09:34:38 | 花好きずき
 近所を歩いていると、そこここに黄色い蝋梅の花が見られるようになってきた。
きのうはお昼少し前からいい天気になったので、毎年、綺麗な花を咲かせる北野神社の蝋梅を見てきた。
 まだ少し時期が早いようなのでそれほど花は開いていないが、遠目にも黄色い花と蕾がよく目立つ。
いま見てもそれなりの風情はあるが、2月初旬になれば満開の花が見られることだろう。










【蝋梅 (ろうばい)】

・蝋梅(ろうばい)科。
・学名 Chimonanthus praecox(蝋梅)
     Chimonanthus praecox form. concolor
        (素心蝋梅(そしんろうばい))
     Chimonanthus : ロウバイ属
     praecox : 早熟の,早咲きの
     concolor : 同色の
 Chimonanthus(チモナンサス)は、ギリシャ語の
 「cheimon(冬)+ anthos(花)」が語源。
 「冬の花」を意味する。
・開花時期は、12/25頃~翌3/15頃(蝋梅)。
・お正月頃から咲き出す。
 花の少ない季節なだけにうれしい花である。
・とてもよい香り。
・中国原産、日本には17世紀頃に渡来。
・「”蝋細工”のような、梅に似た花」から「蝋梅」の名になった
 らしい。
 寒さや霜から身を守るために蝋細工状なのかな?
 また、臘月(ろうげつ:陰暦の12月)に梅に似た花を咲かせる
 ところから、とも。
・よく見られるのは蝋梅のうちの「素心蝋梅(そしんろうばい)」。
 花の外側だけでなく内側も黄色いのが特徴。
 ふつうの「蝋梅」は内側がちょっと赤っぽい。
・葉っぱは、ふつう花が咲く前に落葉するが、開花時にまだ残って
 いて徐々に落葉する場合もあるようです。

(出典:「季節の花300」)

ご近所の雪吊り風景も格別

2008-01-10 11:10:40 | 近事変々
 朝のうちはどんよりと曇っていたが、まぶしい陽の光りが射し込んで来た。
思えば一昨年のきょうは、チラホラと雪が舞っていたのだが、ことしはそんな気配はさらさらない。
 雪景色に映える雪吊り風景といえば金沢の兼六園が有名だが、ご近所でも雪吊り風景を見られる場所がある。
ひとつは水車公園の隣にある徳水亭の日本庭園であり、もうひとつは「蕎麦いなり」で有名な爽風庵「槙」の隣にあるお宅である。
こういう季節感のある風景を地元で見られるのは、なんとなく嬉しいものである。





  雪吊りを学ぼう/ガーデン紀行

正月三日は川越七福神と喜多院の初大師

2008-01-06 10:56:18 | 民俗・行事
 1月3日は喜多院の初大師でダルマ市が開かれる。
ことしは川越七福神めぐりをする予定だったので、ダルマ市も同時に見てくることにした。
スタートは東武東上線の川越駅、ダルマ市への臨時バスに誘導されそうになったが、七福神第一番、毘沙門天の妙善寺へ行った。交差点にある道標に従って程なく到着。

 続いて、中心街から外れた仙波町にある第二番、天然寺へ、ここは寿老人である。
七福神第三番は大黒天の喜多院、初大師とあって臨時駐車場のある通りは車が数珠繋ぎで順番待ちをしていた。
参拝する人も非常に多く、境内から山門の外の道路まで長い列、その列の最後尾に並んで3、40分、押し合いへし合いしながら参拝を済ませた。
境内には福ダルマを売る店がいくつも並んでいたが、ダルマはやめにして破魔矢を買い求めた。

 第四番は恵比寿天を祀る成田山別院だが、喜多院の裏手にありさほど遠くはないが、こちらもご多分に漏れず山門から本堂まで長い行列だった。
一度は列に並んだが、時間がかかりそうなので恵比寿天だけをお参りして次へ向った。

 第五番は中央通りから少し入った場所にある福禄寿の連馨寺である。表通りから離れているせいか境内は静かなたたずまいであった。
次は菓子屋横丁の方へ行くのだが、時計を見たらすでに1時を回っていたので、昼食にすることにした。どこも混んでいそうなので手近な店に入ったら、案の定、しばらく待たされたが、お蕎麦で遅めの昼食を済ませた。

 第六番は布袋尊の見立寺で、新河岸川にかかる橋のそばにある。
蔵作りの街並みを見ながら菓子屋横丁まで行き、少し菓子屋横丁の中を冷やかして歩いた。
ここもかなりの人出で、狭い路地がおおぜいの人たちで埋まっていた。
菓子屋横丁から布袋尊に行ってお参りしたあとは、いよいよ最後、第七番、弁財天の妙昌寺である。
途中、ちょっと道に迷いそうになったが無事に到着、ちょっと疲れたが、念願の七福神めぐりを終え、川越市駅から東武東上線に乗って帰ってきた。

 七福神を順番に写真に収めようと思っていたのだが、人出が多すぎたのと、七福神が奥まった所に祀られているので途中で断念した。
これが少し心残りの一日であった。

詳しくは下記をご覧ください。

小江戸川越七福神めぐり(霊場会公式サイト)