丸森町から! 一條己(おさむ)のほっとする丸森

15頭の乳牛と田に30羽の合鴨。畑に特産ヤーコンを作っています。訪れるだけで「ほっとする町」丸森町の様子をつづります。

政務調査に栃木と福島に行ってきました

2012-02-23 16:47:07 | 日記

福島はお隣の「南相馬市」に行ってきました。区長さん達が地区協議会で地域の損害賠償請求にとりくんでいます

 

 

 

 

 

 

「裸のフクシマ」たくきよしみつ

●まえがき

 フクシマは、ヒロシマ・ナガサキ以上に有名になってしまった。
 日本には現在18か所55基(もんじゅを含む)の原子力発電所があるが、発電所名に県名をそのまま使っているのは福島と島根しかない。この名称の付け方が、すでに福島県の「セキュリティの甘さ」を物語っている。
 浜岡原発が静岡県に、玄海原発が佐賀県にあることを知らない日本人は結構いる。チェルノブイリがウクライナにあることを知らない日本人も多い。もしも、福島第一原子力発電所が、他の原発同様に「大熊双葉原発」という名前だったら、今、福島県の人たちが抱えている苦痛は、ほんの少しだが軽減されていたかもしれない。

 今、僕は、この文章を川内村の自宅で書いている。
 この家と土地は、2004年年末に手に入れ、引っ越してきた。きっかけはその年の10月23日に発生した中越地震だった。
 終の棲家とするつもりで越後の豪雪地帯に買った古い家を十数年かけて手を入れ、ようやく本格的な引っ越しもできると思っていた矢先の被災だった。十数年かけてこつこつと直してきた家は完全につぶれた。集落は「この土地には二度と家を建ててはいけない、住んではいけない」という条件を呑んで集団移転を決めてしまい、消滅した。
 すべてを失ったまま新年を迎えるのは嫌だと、あちこち引っ越し先を探し、この阿武隈の山奥に小さな売り家を見つけて移り住んできた。
 仕事は物書きや作曲などの創作活動がメインで、勤め人ではないから、山奥で暮らすことそのものの不便はほとんどない。しかし、高速通信環境は必須なので、村にBフレッツが開通する2008年2月までの4年間は、川崎市の仕事場と行ったり来たりの二地域居住だった。光が開通してからは仕事上の不便もなくなったので、完全に川内村の家に引きこもっていて、首都圏に出て行くのは年間数週間しかない。
 この我が家は福島第一原発からは約25kmの場所にあり、現在お上から「緊急時避難準備区域」というありがたい名前をつけていただき、区分けされている。
 何か起きたらすぐに逃げられるようにしておいてね。すぐに逃げられるようにするために、子供や病気の人、障碍者はこの区域にはいちゃだめだよ。だから、学校や病院は再開させないよ。健康な大人は、どうしてもいたいというならいてもいいけれど、何かあっても知らないからね。自己責任でそこに居残ることを決断したということを忘れないでね。
 ……とまあ、こんなふうに決められた区域なのである。
 食卓の上に置きっぱなしになっている放射線量計は、今見たら、0.38マイクロシーベルト/時を示している。家の中は大体こんなもので、低いときで0.28μSv/h、高いときで0.48μSv/hくらいを指す。
 外はもう少し高い。セシウムがたっぷり染みこんでいるらしいウッドデッキの上は1μSv/h以上ある。
 3月下旬に「一時帰宅」したときは、外は2μSv/hを超える場所がたくさんあり、家の中でも1μSv/hを超えることがあったから、あの頃に比べるとずいぶん下がった。しかし、ここひと月は下がらないどころか、天候によっては高くなるときもある。
 ざっくりと、家の中、外、そして内部被曝など全部合わせて0.5μSv/h平均被曝しているとすると、年間被曝量が4ミリシーベルトを超える程度の環境に住んでいるわけだ。
 せっかく人類史上初めてとも言えそうな貴重な経験をさせてもらっているのだから、2011年の「フクシマ」を、原発30km圏内の川内村という「現場」からの目でしっかり記録しておきたい。
 そう思って本書を書き始めたところだ。

 本書を手にしてくださったみなさんの多くは福島以外の場所で暮らしていらっしゃると思う。福島原発震災についてのリポートはすでにたくさん出ているし、今後も出てくるだろうが、そうしたものとはかなり違う内容に驚かれるかもしれない。
 福島の中からしか見えない事実、報道されない現実を、幸か不幸か、僕は直接体験して知っている。テレビではあんな風に伝えていたけれど、実際にはこうだったんだよ、という事実もご紹介できる。
「現場」に暮らしていて、日常が非日常に変わっていった様子を見ているわけだから、外から取材に入って、いきなり「非日常」部分だけを見た人たちとは違う視点でお伝えできるはずだと思う。

 事実を知れば知るほどやりきれなくなるけれど、かといって、騙されっぱなし、隠されっぱなしでいるのは悔しい。
 ……そういう姿勢で書いていきたい。
 

第1章 「いちエフ」では実際に何が起きていたのか?

揺れる我が家を外から見ていた
通信不能になることの恐怖
2時間も隠されていた最初の爆発
ツイッターとグーグルに真実を教えられた
全電源喪失に至る「想定外」のバカさ加減
前年6月にも2号機は電源喪失で自動停止していた
11日のうちに炉心溶融していた!
4号機のミステリー
東京にとっては3月21日が問題だった
そのとき川内村の住民たちは
避難を決断できた村とできなかった村

第2章 国も住民も認めたくない放射能汚染の現実

3月15日、文科省がまっ先に線量調査した場所
福島県はSPEEDIのデータを13日に入手していた
イギリスから線量計が届いた
まだ線量の高い川内村に「一時帰宅」
「調査をするな」と命じた気象学会
突然有名になった飯舘村
20km圏内の放射線量を出さなかった理由
0.1マイクロシーベルト/時 は高いのか低いのか
「年間20ミリシーベルト」論争の虚しさ
恐ろしくて調査もできない内部被曝
日本中を震撼させた児玉証言
チェルノブイリ事故のときのヨーロッパは
福島の人たちでも感じ方・判断は様々
核実験時代は今より放射線レベルが高かったという勘違い
「チェルノブイリの○倍/○分の1」というトリック
低線量被曝の「権利」
わざわざ線量の高い避難先の学校に通わされている子供たち
「低線量長期被曝」の影響は誰にも分からない

第3章 「フクシマ丸裸作戦」が始まった

安全な家を突然出ろと言われた南相馬市の人たち
20km境界線を巡る攻防
30km圏内に入れてくれと言った田村市、外してくれと言ったいわき市
仮払金・義援金をめぐる悲喜劇
避難所から出て行こうとしない人たち
無駄だらけの仮設住宅
汚染のひどい都市部の補償はどうするのか
事故後、「原発ぶら下がり体質」はさらに強まった
原発を率先して誘致したのは県だった
プルサーマルを巡って葬り去られた知事、暗躍した経産副大臣
福島を愛する者同士の間で起きている根深い憎悪劇

第4章 「奇跡の村」川内村の人間模様

川内村にとって脅威は線量ではない
農家の意地をかけた孤独な闘い
獏原人村と「大塚愛伝説」
「一時帰宅ショー」の裏側で
目と鼻の先の自家用車を取り戻すのに丸一日
一時帰宅──富岡町の場合
「ペット泥棒騒動」に巻き込まれたジョン
全村避難が決まった飯舘村へ

第5章 裸のフクシマ

「地下原発議連」という笑えないジョーク
放射能で死んだ人、これから死ぬかもしれない人
日当10万円、手取り6500円
浜岡は止める前から壊れていた
「エコタウン」という名の陰謀
「除染」という名の説教強盗
下手な除染は被害を拡大させる
3・11以降まったく動かなかった風力発電
「正直になる」ことから始める
素人である我々が発電方法を考える必要はない
1日5500万円かけて危険を作り続ける「もんじゅ」
裸のフクシマ 

かなり長いあとがき  『マリアの父親』と鐸木三郎兵衛
 
 
また農業をしている方に
こんなに一生懸命物事を考えてる方がいました
 
「食べる」という行為は、人間の本源的な行為です。そこには、作る人とそれを受け取って食べる人が存在します。

私はこの結びつきを長年「提携」といったり、「産直」という言葉で現してきました。こちらの思いを込めて食べ物を作る、そして届ける。食べ物の背後に畑や家畜、そして私たちの顔を思ってもらう、これが私たちの理念でした。

この結びつきは、3.11以降急激に弱まり、今や崩壊の危機に瀕しています。

というのは、この「結びつき」(絆といってもいいですが)は、「安全・安心」を中心にして作られていたからです。

微量の化学物質も使用しない清らかな大地に種を播き、化学汚染のない生産物を作る、まさにこれがよりどころだったわけです。

このような中で、私たちはアトピーがよくなった、化学物質過敏症が和らいできたなどの嬉しいお母さんたちの声を聞いてきました。

これが私たちのなによりもの励ましであり、誇りでした。

これが一挙に崩れ去ったのが3.11でした。福島第1原発事故による3波の放射性雲は私たち東日本の農地を広範に汚染しました。

ある意味、化学物質などは手ぬるく見えるようなやっかいで危険な物質が降り注いだのです。しかも長期に残留する。

私たちがよりどころにしてきた「安全・安心」はもろくも崩れ去りました。それは「安全・安心」を求めて食べてくれた消費者の層と、放射能を恐怖する層はまったく同一だったからです。

安ければどんな食品でもいいという階層は比較的早く復活しましたが、この「安全・安心」を求めた消費者たちは、いかに線量が低いと言われても二度とこちらを振り向こうとはしませんでした

私たち有機農産物や環境保全型農産物を作る農家はこれにより巨大な打撃を受けました。支持してくれる消費者層がほぼ消滅してしまったからです。

苦闘の日々を送りながら、私たち産直を中心にしていた農業者は根本的に考え方を変えるしかないと悟りました。

3.11以降の私にとって、「安全・安心」だけが価値なのかという素朴な問い直しが心から離れた日は一たりともありませんでした。化学物質を使わない、それだけが価値なのか、と思いました。

そして昨年夏頃、放射能と闘う私たちのもとに、「放射能には天敵がある」という驚きの科学的発見が届けられました。

東日本の土壌中に広く存在する関東ローム層の粘土質土壌はマイナス電荷でセシウムを強力に吸着します。

堆肥中の植物質成分である腐植物質もまた電気的吸着をします。土壌生物も土を摂取して体内にセシウムを取り込みます。

そして福島県の土壌に大量に存在するゼオライトはセシウムの物理的な封じ込めをする地上最強の物質でした。

これらは実は放射性物質の「天敵」だったのです。

この発見に私は目を見開かされました。私たちが農業をし続けていくことこそが「除染」なのだ、という認識を強くもったからです。

私たちは長年「土を作る」ということが、なによりもの作物作りだと考えて実践してきました。その「土を作る」という原点こそが、放射能に対し闘う有力な武器でもあったのです。

私の心の中に温かい思いが溢れてきました。ああ、自分たちがやってきたことが否定されたのではなく、正しかったのだという思いでした。

私たち農業は土を作るという行為を通じて、風景を作り、自然環境をよりよく保全してきました。

それはこの放射能との闘いにおいてもまったく同じ文脈だったのです。

「安全・安心」という一点でこれを理解していたならば、その理解は農業のうわっ面をなぜたにすぎません。

農業がなしている本質的な行為は、食料を供給することにを通じて、よりよい環境を創造していくことなのです。

一時的に多くの消費者は有機農業から去っていきました。それは、私たちがあまりに消費者目線によった「安全・安心」だけを強調してきた罰なのです。

もう一回農業の原点に立ち返る必要があります。それは誰がなんと言おうとも、オレたち農家がこの地上を耕し続けている限り地球は大丈夫だ、という自信です。

この自信をもう一回取り返そうと思います。もう見る影もなくズタズタになってしまいましたが、この自信がなくなったら私たちはもう農業者ではなくなります。

今日も土を耕す中で、いつの日かわかりませんが、また去っていった消費者に再会することもあるでしょう。その日を夢見ます。

農業とはひとのあかしなのですから。ひとが耕すことがその「あかし」なのですから。

 

「ひとのあかし」というすばらしい言葉は、この詩人に教えられました

福島在住の詩人  若松丈太郎 英訳アーサー・ビナード

       ひとのあかし

ひとは作物を栽培することを覚えた
We humans, long ago, learned to grow crops,
ひとは生きものを飼育することを覚えた
 learned to raise animals too.
作物の栽培も
生きものの飼育も
 THe crops we grow, the animals we raise:
ひとがひとであることのあかしだ
 all living proof we're human.
あるとき以降
 Along the way, though, things changed.
耕作地があるのに耕作できない
 A field waiting to be planted,
but from now on, no crops must be grown.
家畜がいるのに飼育できない
 A barn full of animals,
but raising them just adds to the damage.
魚がいるのに漁ができない
ということになったら
 Fish are there in the sea,
but the fisherman's catch
 is no longer fit to eat...
ひとはひとであるとは言えない
のではないか
 which is where we stand.
What makes us human?