丸森町から! 一條己(おさむ)のほっとする丸森

15頭の乳牛と田に30羽の合鴨。畑に特産ヤーコンを作っています。訪れるだけで「ほっとする町」丸森町の様子をつづります。

宮城県農業短期大学昭和48年度卒業生同級会が7月23日にありました。5

2017-07-30 21:36:05 | 日記

一番楽しかったのはサークル活動でした

野球や陸上・フォークダンス・農業問題研究会・自然を食べる会・空手・旅の会・畜産研究会・文学同好会

一杯あったのに、思い出せませんが、私は、自営研究会と新聞部にはいっていました

自営研究会(自営研)は会員の4分の3のかたが卒業してから、農業をしているのですからすごいです

今回の同級会で私達の進路は、4分の1づつ、農業・公務員・農協・その他自営の割合でした

自営研は男女とも眼鏡をかけて頭のよさそうな先輩たちで迫力がありました

農村や農業のことを調査研究してましたが

主に、農村の過疎問題についてアンケート調査などしました

当時は、東北農業学生ゼミナールという団体があって

東北の大学・大学校・短大の農業関係のサークルが12月ごろ研究発表会をしました

1年の時は岩手大学が会場

その日は衆議院選挙投票日で、宮城では共産党の庄司さんが初めて当選した日でした

はじめてあった4年生のみなさんはそれほど年齢差も感じないで

オリエンテーリング、基調報告、分科会など初めて(2年しかないので2回で終わりですが)にしては

先輩がいたこともありスムーズでした

やっぱりもりあがったのは、夜の歓迎会で、私は「外山節」を初めて聞きました

その時みんなで踊った「怪傑ハリマオ」(まちがいました。月光仮面でした。)は20代まで私の十八番になりました

 

 

 


宮城県農業短期大学昭和48年度卒業生同級会が7月23日にありました。4

2017-07-29 14:55:28 | 日記

五輪真弓や泉谷しげるのコンサートに連れて行ってくれたのは只野くん

仙台市民会館に入ったのも初めてでした

2年の春の連休に周遊券で能登・金沢に誘ってくれたのは秋山くん桜井くん木村くん

列車とバスの旅で、1週間の期間を使い切りました

パチンコ屋に行こうと言ってくれたのは慶治くん

私は勝負事には才能ががないのがわかりました

コンパやボーリングはみんなで何回もしました

知り合ってまだ、一カ月なのに1年生の連休の時にいきなり肉屋をしていた

山形の実家を訪ねて驚いた顔をしてたのは五十嵐くん

さすが肉屋のぶあついトンカツはおいしかったです

 いつのまにか、たばこを吸うようになりましたがハイライトでした

チェーンスモーカーになりましたが、結婚後3年ぐらいで止めました

旗立学生寮の食堂は時間が過ぎたら誰が食べてもいいので

友達のところに遊びに行っていたときは、時間が待ちどうしかったです

夜のバイトに行ってる方が案外多かったので、大根の味噌汁とご飯はいつもありました

アパートに住んだのは2年生の後半だけでした

卒業論文をかくので友達のところに転がりこんだのです

アパートは長町にありましたが8畳間

1人の時は7,000円でしたが2人になったら8,000円になりました

トイレや洗面所が共同だったからでしょうか

友達の家は北海道の酪農家でしたが、旅館で布団の上げおろしをしてたので

夜はアパートに帰ってきませんでした

アパートの間は昼食は梅干しのおにぎりで、

夕ご飯のおかずは家から持ってきた玉ねぎやジャガイモのいためものでした

その頃の12月は雪が多かったので大変助かりました

卒業してから、2度音更町の彼の家をたずねましたが、

近隣の離農などで土地が増え酪農と麦栽培の経営になっていました

やめる人も何10haだから受ける方も大変です

今回は、収穫作業があるので欠席でした


宮城県農業短期大学昭和48年度卒業生同級会が7月23日にありました。3

2017-07-27 22:02:37 | 日記

4月に同級会の案内が来てから

私の青春時代はどんなものだったかなと思い出してみました

40年以上も前のことでしたがすぐに思い出しました

学校は太白山ふもとにあり、通学は、当時JRの「丸森線」今の第3セクター「阿武隈急行」

当時は通勤通学で、一杯人が乗ってました

丸森町でも今の10倍くらいの子供が毎年生まれてたのですからすごかったです

我が物顔で車両の通路をふさいで騒いでいたので「ハレンチ列車」と新聞に写真が載ったりしました

椅子にすわってる私の横顔も写っていました

いろんな方と知り合ったりして、新しい世界に入って行ったのです

でも朝、6時15分の始発での通学は大変眠かったのをおぼえています

大人の方々は仕事帰りでワンカップなどを飲みながら明日への元気を

若者は、遊びや恋・人生観をつちかっていました

しつれんして涙することも

 

 


宮城県農業短期大学昭和48年度卒業生同級会が7月23日にありました。2

2017-07-27 21:00:14 | 日記

次の日、帰って行ったら

妻と、娘が「お父さんを覚えていた人いたの」と聞くんです

同級会の日は、二人と昼食を食べて、利府のショッピングセンターで買い物をして

松島まで、送ってもらいました

はたから見ても、私はよっぽど、うれしそうだったのかも

みんなと話すのが楽しくて、料理はほとんど食べられなかった

お昼におなかいっぱい食べていって、良かったと言ったら、

良かったねと笑ってました。

一学年が158人と人数が少ない大学。それも、在学は2年だけですから

私達の時は、同級生で結婚した方も多くて、とってもアットホームなつながりで、

農業科、農業土木科、畜産科をとわず、仲が良かったのです

とくに畜産課は

女性10人のうち8人が出席で、秋田とニューヨークに住んでる方が欠席しただけでした

アパート、田中荘暮らしで、女子は普段から連絡が濃だったようです

それでも、欠席の県職員だった及川君と秋田とニューヨークの女子は

4人で行う実験の時の同じ班だったので、なかよしで、会えないのは残念でした

それでも、私は、たった一度のデートでしたが、広瀬川河畔を歩いた彼女と

彼女の好きな、ガロの「学生街の喫茶店」をデュエットをしたし

男子はみんな、昔の憧れのマドンナと2ショット

皆と同じに

帰り際には「じゃー またね」

次は、100歳かな